表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
裏切りの片割れ月  作者: 小鈴 莉子
五章 かぐや
56/92

暗転

 鈴がはっと息を呑んで視線を動かすのとほぼ同時に、伊月が後ろを振り返った。すると、悠然とした足取りでこちらへと近づいてくる、刀祢の姿があった。


 刀祢は紫の七分袖のカットソーにパーチメントのスラックスという、昨晩とは対照的なラフな格好をしている。


「やあ、二人とも、おはよう。昨夜はよく眠れた?」


 あたかも、昨夜の出来事など頭から抜け落ちたと言わんばかりに、刀祢は普段と変わらない態度でひらひらと手を振ってきた。


「……朝から何の用だ」


 威嚇するような素振りこそ見せていないものの、伊月が刀祢を警戒しているのは、後ろ姿からでも分かる。

 結果的に、伊月の背に庇われる形になってしまったが、とりあえず今のところはこのままでいよう。


「おはよう……刀祢兄さん。それで……さっきのはどういう意味?」


 無難に挨拶を返しつつ、おずおずと問いかければ、刀祢がにっこりと笑いかけてきた。


「そのままの意味だよ。――鈴、かぐやが君に会いたがってる。だから、今から月城の屋敷に来てもらうよ」


 ――かぐやが鈴に会いたがっていると聞かされた途端、胃がぎゅっと引き絞られるような感覚を味わった。


「かぐや、が……?」


「そう。そもそも、本当はもっと早く鈴をかぐやのところに連れていくつもりだったんだよ? それこそ、ゴールデンウィーク中にね」


 ゴールデンウィーク中にと刀祢が口にした直後、伊月の肩が微かに揺れた。


(じゃあ、あの時……伊月が私のことを捜し続けてくれてなかったら――)


 ――鈴はとっくの昔に、かぐやの元へと連れていかれていたのかもしれないのか。


「それなのにさあ……鈴が倒れるわ、記憶を部分的になくすわ……だから、しばらく様子を見ることにしたんだ。なるべくストレスの少ない環境なら、自然と記憶が戻ってくると思ってね」


 どうして、八神家は鈴を学園に復帰させ、放置していたのかと疑問に思っていたが、そういうことだったのか。


「でも、鈴は全然何か思い出す様子はないし……何より、かぐやがもう待てなくなったみたいでね。鈴に会いたい、会いたいって、うるさいんだ」


「……つまり、今から私に『神殺しの儀』をさせるってこと?」


 神殺しの儀とは文字通り、八神家、あるいは月城家の人間がかぐやの殺害に挑むことを指す。


 でも、儀式というだけあり、ある程度の手順を踏まなければならない。

 だから、今ここで神殺しの儀をしろと命じられたところで、本来ならば、すぐにはかぐやのところには行けないはずだ。


 鈴が慎重に問いを投げかけると、刀祢は緩く首を横に振った。


「ううん、今日のところは顔合わせだけ。鈴も、面倒な手順をいくつも踏まなきゃいけないことくらい、知ってるでしょ?」


「……普通は、顔合わせなんてしないだろ」


 伊月の険を孕んだ声が割り込んだら、刀祢は軽く肩を竦めた。


「伊月、何事にも例外ってものは存在するんだよ。――とにかく、かぐや様がお待ちかねだ。鈴、今すぐ来てもらうよ」


「……分かった。でも、かぐやに会う前に、着替えなきゃいけないだろうから、八神の屋敷に寄らせて」


 今、鈴が身に纏っているのは、純白のレースのブラウスにハンターグリーンのショートパンツだ。


 盛装した翌日は、動きやすくて疲れない格好をしようと昔から決めていたから、この組み合わせを用意しておいたのだが、これからかぐやと会うのであれば、白衣と緋袴とまでいかなくても、和服に身を包むべきだろう。


(昔着てた振袖は、もう着られないだろうから……おばあ様の着物を借りよう)


 鈴と祖母は、今ではほとんど背丈が変わらない。

 若者向きの色や柄の着物は持っていないだろうし、何より鈴に自分の着物を貸すなんて嫌がられるに決まっているが、四の五の言っている余裕はない。


「ああ、いいよ。そのままの格好で」


 だが、刀祢は鈴の予想を裏切り、あっけらかんとそう答えた。


「もう、本当に早く鈴に来て欲しいから。昨日までは大人しくしてたんだけどね。今朝、鈴に早く会わせろって暴れ出したみたいでね。死人が出たら困るから、鈴、急いで」


「……分かりました」


 確かに、そういう事情があるのならば、見た目なんて気にしている場合ではない。

 迷わず頷き、伊月の横を通り過ぎた刀祢についていこうとした寸前、感情を極限まで抑圧した声が鼓膜を震わせた。


「――俺も行く」


 咄嗟に振り返れば、思いつめた顔をした伊月が刀祢を睨み据えていた。

 視線を正面に戻すと、肩越しに後ろを振り返った刀祢が、煩わしそうに目元を歪めていたが、すぐに前へと向き直る。


「……好きにすれば?」


 そう返答した刀祢の声には、どこか投げやりな響きが宿っていた。



 ***



 ホテルの正面玄関前に待たせていた、月城本家が所有しているダークグレーパールのボルボに三人が乗り込むや否や、即座に目的地へと発車した。


 車窓から見える空は灰色の雲に覆われており、今にも雨が降ってきそうだ。


 助手席に乗り込んだ刀祢も、後部座席に納まった鈴と伊月も黙りこくっているため、車内には張り詰めた沈黙が流れている。

 しかし、車が赤信号で止まった際、刀祢がルームミラー越しに鈴を見遣った。


「――鈴、余生は楽しめた?」


「……余生?」


 微かに眉間に皺を寄せながら、思ってもみなかった言葉を反芻したら、刀祢がこちらへと振り返り、後部座席を覗き込んできた。


「そ。病院に運ばれてから昨日までのあれ、予定外だったけど、鈴へのプレゼントだったんだよ? よかったね、記憶を一部なくしたおかげで、予定より長く生きられて」


 ――余生、あれが余生だというのか。


 何故、自分に記憶の欠落があるのか分からないまま入院生活を送り、八神本家の屋敷に帰ってきてみれば、鈴の身体的な大きな変化を揶揄されて息苦しい思いをさせられ、いざ学園に復帰してみれば、幼馴染たちの間に生じたそう簡単には縮まらない差に打ちのめされた。


 確かに、伊月や幼馴染たちと再会できたのは、嬉しかった。伊月と両想いになれて、幸せだと思う。

 でも、あの期間を余生だと思えるかと問われれば、素直には受け止められない。


 何も答えられないまま、膝の上に置いていた手をぎゅっと握り締めたら、不意に紫の眼差しが鈴の左手に注がれた。


 刀祢の視線を辿れば、案の定、昨晩伊月からプレゼントされ、今は鈴の左手の薬指に嵌められているプラチナリングが視界に入った。

 咄嗟に右手で指輪を覆い隠したものの、もう後の祭りだ。


 何を言われるかと内心身構えていたのだが、予想に反して刀祢は口を開かなかった。

 ただ、その顔からは表情が抜け落ち、鈴から目を背けたかと思えば、助手席に座り直した。


 ちらりと横目で伊月を窺えば、相変わらず険しい表情をしていたものの、何も言わずにまっすぐに前を向いていた。


 再び車内が重苦しい沈黙に包まれたのも束の間、間もなく月城本家の敷地をぐるりと取り囲む塀が見えてきて、自然と肩に力が入る。


 この車内の居心地は最悪だが、車を降りた先に待ち受けているものを考えれば、自ずと緊張が高まっていく。


 車が厳めしい門を潜る間際、唐突に隣から手が伸びてきたかと思えば、鈴の手を包み込んでくれた。


 伊月も鈴と同じくらい神経が張り詰めているらしく、互いの手の温度は大して変わらなかった。

 だが、自分のものではない手に触れられたからか、少しだけ強張っていた心が緩んでいく。


 再度、そっと伊月を見遣れば、大丈夫だとでも言うように頷いてくれた。


 ――これからかぐやと会うのだから、絶対に大丈夫だという保証はどこにもない。


 しかし、伊月も一緒なのだと思えば、少しずつ身体の奥底から勇気が湧いてきた。

 鈴も伊月に頷き返してから、手元に視線を落とした直後、静かに停車した。


 気づけば、鈴たちを乗せていたボルボが屋敷の玄関前に横付けに停まっていた。

 先刻、雨が降りそうだという鈴の予感は的中し、外は小雨が降り始めていたから、鈴たちが濡れないようにわざわざ玄関前に横付けにしてくれたに違いない。


 シートベルトを外してさっさと助手席から降りた刀祢に続き、鈴と伊月も月城本家のお抱え運転手に礼を告げてから、後部座席から降りて玄関の中へと入った。


「――八神本家の若様、姫様。よくぞお越しくださいました。履物を脱いだら、こちらへ」


 伊月はスニーカーを、鈴はフラットシューズを脱ぎ、使用人の女性に案内されるがままついていく。刀祢は鈴が途中で逃げ出さないように監視するためなのか、後ろからついてくる。


 鈴や刀祢同様、伊月も七分丈の黒いカットソーにアイボリーのスラックスというカジュアルな格好をしているため、事前に目的を聞かされていなかったら、ただ親戚の家に遊びにきたかのように思っていたかもしれない。


 八神本家の屋敷に負けず劣らず、月城本家の屋敷も広い。長い廊下を黙々と進んでいくうちに、迷宮に足を踏み入れてしまったような心地にさせられる。


 それでも、やがて終わりはやって来る。


 母屋とかぐやが住まう御殿を繋ぐ渡殿が見えてきたところで、つい足が竦みそうになってしまった。

 でも、即座に怯みそうになった自分自身を叱咤し、チャコールグレーのニーハイソックスに覆われている両足に力を込めた。


 渡殿の上にも屋根があるから、雨が降っていても濡れる心配はない。

 それでも、渡っている間に外の空気には触れるため、じっとりと湿気を含んだ外気が頬を撫でていく。


 渡殿を渡り終えると、使用人の女性はすぐに脇へと引っ込み、深々と頭を下げた。


「それでは、私はこれにて失礼させていただきます。――若様、あとはよろしくお願い致します」


「ん、ご苦労様」


 ここでの若様は、刀祢のことを指す。月城家も、八神家と同じ呼称を使うのだ。


 刀祢が何の気負いもなくひらひらと手を振ると、使用人の女性はしずしずと来た道を引き返していった。


「さて、と……それじゃあ、中に入りますか」


 前へと進み出ると、刀祢は一切の躊躇なく観音開きの扉を開け放った。

 年代物の扉特有の軋んだ音を立てつつ、扉が大きく開かれた直後、妖艶で透き通った声が聞こえてきた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ