祝福
「……まさか、今になってそんな根性論を振りかざして、呪いに抗ってやるって息巻く男が現れるなんてね。しかも、この私に説教までするなんて」
「馬鹿にしたきゃ、好きにしろ。気に障ったなら……謝るが」
「いいえ……謝る必要はないわ。その代わり、こっちにいらっしゃい」
どうしてか上機嫌に微笑みつつ、手招きしてきたかぐやに、嫌な予感がした。
(まさか、このまま近づいたら、殺されるんじゃねぇだろうな……)
かぐやは、その白くてたおやかな手で、数えきれないほどの人間を殺めてきたのだ。
女は一思いに殺害した後に、死体を見るも無残な姿に変えたという。そして、男は拷問によって死よりもひどい目に遭わせてから、惨殺したらしい。
そんな半神に、こちらに来いと促されたのだから、警戒心を抱くのは至極当然のことだ。
「別に、お前の命を奪いやしないわ。痛めつけるつもりもない。今ね、本当に気分が良いの。だから、自分の部屋を血で汚すような真似はしないから、こっちにいらっしゃい」
そう言われて安心できるほど、この女は信頼に値する相手ではないのだが、これ以上待たせて機嫌を損ねたりしたら、それこそ透輝の命が危うい。
一度、深呼吸をしてからかぐやへと一歩、また一歩と近づいていく。かぐやは脇息にもたれかかるのもやめ、姿勢よく座り直した。
「それじゃあ、ちょっとしゃがんでくれる?」
かぐやのすぐ目の前で足を止めるや否や、新たな指示を受けたため、即座に従う。
先刻と同じように、畳の上に片膝をつくと、かぐやが透輝に向かってそっと手を伸ばしてきた。
息を殺してかぐやの動向を窺っていたら、白くてたおやかな手にふわりと頬を包み込まれた。それから、ぐっと引き寄せられたかと思えば、かぐやの赤い瞳が眼前に迫ってくる。
緊張から嫌な汗が背を伝った直後、柔らかな感触が額に押し当てられた。
(は……?)
――あのかぐやに、額にキスを落とされたのだということは理解したものの、何故そんな行動に出たのか、全く分からない。
ゆっくりと唇を離していったかぐやは、不意を突かれて硬直する透輝の顔を覗き込み、愉快そうに笑った。
「――これは、祝福よ」
「祝、福……?」
千年前から現在に至るまで、五家を呪い続けている女の言葉とは到底思えない。
「そう、祝福。人とは違う部分を持ちながらも、誰のせいにもせず、異端者にはどこまでも残酷な世界でそれでも生きると誓ったお前の未来に幸あれと、祈りましょう」
「……呪いの元凶が祝福なんざ、笑えねぇな」
「でも、だからこそ効果のほどが期待できるでしょう?」
かぐやの手が、透輝の頬をするりと撫でていく。
「……お前みたいに気概のある男が、もっと早く私の前に現れてくれたら、何かが変わったのかしら」
どこか切なそうに赤い双眸を細めたかと思えば、かぐやは透輝の頬から不意に手を放した。
「もう、出ていきなさい。今のところは正気を保ってられるけれど、いつ正気を失うか分からないの。お前みたいな男を殺すのは、あまりにも勿体ないわ。だから、出ておいき」
ひらりと手を振ったかぐやは、そのまま透輝越しに扉を指差した。
「ああ、分かった。……こっちの勝手な言い分を聞いてくれて、ありがとうな」
「こっちこそ、楽しい時間をどうもありがとう。でも、自分の命が惜しいなら、もう二度と私の前に顔を出さないでちょうだい」
そう言葉を交わしたのを最後に、透輝はすぐさま腰を上げて踵を返し、入ってきた扉を目指して歩みを進める。
かぐやの忠告に従い、すぐに御殿の外へと出ると、扉の脇に控えて待っていた伊月が、ちらりとこちらを見遣った。
「……無事、生きて帰ってこられたみたいだな」
「ああ、ありがたいことにな」
透輝の無事を確認するなり、伊月は足早に渡殿へと向かった。まるで、一秒でも早くここから離れたいと言わんばかりの様子だ。
「……なあ、伊月」
伊月の後について歩きながら、声をかけたものの、前を進む背が振り返る気配は砂粒ほどにもない。
溜息を一つ零してから、そのまま言葉を繋ぐ。
「かぐやは……本当に、呪いの元凶なのか?」
少なくとも、透輝の目にはそう見えなかった。
確かに、異質な存在だとは思う。
でも、本人曰く、今日は正気でいられたからなのかもしれないが、特に苦労することもなく意思の疎通が図れた。口振りも、特別変わったところはなかったし、あの稀有な美貌と色彩がなければ、やはり普通の女とそれほど変わらないという印象を受けたのだ。
そこで、ようやく伊月が透輝へと振り向いた。
「お前が、かぐやと何を話したのか、知らないが――」
底冷えしそうなほど凍えた暗緑色の瞳が、すっと眇められた。
「――あいつさえいなければ、きっと鈴がいなくなることはなかった。だから、誰が何と言おうと、俺にとってあいつは呪いそのものだ」
そう吐き捨てるように答えると、伊月はまたすぐに前方へと視線を戻した。そして、足早に進んでいく。
(伊月にとって、かぐやが呪いそのもの、ねぇ……)
先程、鈴と瓜二つの顔をしたかぐやと対峙したばかりだからだろうか。
透輝に言わせれば、そこまで伊月の心を捉えて離さない鈴の方が、余程呪いのように思えた。
だが同時に、伊月が羨ましくもあった。
二人の間には血の繋がりがないため、伊月がどれほど鈴という存在に焦がれようとも、許されるのだから。
***
(ほんっとうに……お前が羨ましくて仕方ねぇよ、伊月)
伊月と鈴、二人の後ろ姿が見えなくなったところで、手元に視線を落とす。
鈴に突き返されたばかりの、一輪の赤い薔薇はまだ瑞々しさを放っていた。
そっと持ち上げて鼻に近づければ、予想通り、めのうによく似た香りが嗅覚を刺激した。
――透輝くんにも好きな人がいるんじゃないの? こういう……赤い薔薇が似合いそうな女の子。
澄んだ目でじっと見つめられつつ、そう問いかけられた途端、内心を見透かされたかと思った。
幸い、鈴は透輝の想い人の正体には思い至らなかったみたいだが、相変わらず恐ろしく勘が冴え渡っている。
――だから、こういうことはもうしちゃ駄目だよ。今度は、本当に好きな女の子にプレゼントしてあげて。
清廉で透き通った声が、幾度も耳の奥に蘇り、泣きたい気持ちになってきた。
(鈴……俺が本当に渡したい奴には、絶対に渡せねぇんだよ)
鈴みたいに、気軽に薔薇の花を差し出せる相手を好きになれたらよかった。
しかし、この想いが風化し、思い出になるまで、胸の奥底に秘め続けると決めたのは、他でもない透輝自身だ。
薔薇の花を自身から遠ざけ、また夜空を振り仰ぐ。
今夜は月がないせいか、いつもよりも星々が冴え冴えと見えた。
無心に夜の空を眺め続けて、どれほど経ったのだろう。
突然、誰かの足音を鼓膜が拾い、天から地上へと視線を戻す。
「……やってくれたねぇ、君」
振り返れば、透輝や鈴、伊月同様、パーティー会場から抜け出してきたに違いない刀祢が、こちらへと歩み寄ってくるところだった。
「鈴じゃなくて、わざわざ俺に会いにきてくれるなんて、光栄だな」
「別に、君に会いたくて来たわけじゃないよ。鈴は逃げ足が速いからね、見つからなくて」
「悪かったな、ここにいたのが鈴じゃなくて俺で」
鈴と伊月が、刀祢にまだ見つかっていなくてよかったと、内心安堵する。
「でも、まあ……君にも一応、忠告しておきたいことがあったから、ここで会えてよかったのかな」
「忠告?」
「そう、忠告」
刀祢の言葉を復唱し、眉間に皺を刻むと、刀祢の口角が鋭く持ち上がった。
でも、紫の双眸は全く笑っておらず、確かな怒りを宿していた。
「――八神と月城の問題に、部外者が口を挟んでんじゃねぇよ。次はねぇぞ」
がらりと様変わりした刀祢の言葉遣いに、思わず瞠目する。だが、すぐに透輝の負けん気に火がつき、刀祢をせせら笑う。
「悪いな。あまりにも胸糞悪ぃ茶番劇だったから、麗しのお姫様を救出してやっただけだよ」
「余計なお世話って言葉、知ってるか?」
「なら、余計なお世話ついでに一つ言わせてもらうが……あんたら、鈴が意思のある人間だって、ちゃんと理解してんのか?」
問いに問いを返せば、刀祢は不愉快そうに眉根を寄せた。美形の凄んだ顔は迫力があると、場違いなことを考える。
「五家も、あんたらの家も、古い考えがこびりついた家だからな。当人たちの意思に関係なく、相手を決められることなんざ、ざらにある。――けどな」
唇に笑みを刻んだまま、刀祢を冷ややかに見据える。
「意思がある以上、あんまぞんざいに扱い続けると、いつか絶対に爆発する日が来るぞ。ただでさえ、鈴は怒るとおっかねぇからな。何を仕出かすか分かったもんじゃねぇ」
「……それは、自分の経験則に基づく忠告かな?」
やや厚みと艶のある唇に、酷薄な笑みが浮かぶ。
明らかに透輝を挑発している言葉を聞き流し、笑い返す。
「ああ、そうだ。だから、無理矢理従わせるんじゃなくて、正々堂々と挑めよ。じゃなきゃ、人の心は欠片も動かねぇぞ」
透輝が口を閉ざせば、場は沈黙に支配された。そして、しばし睨み合いが続く。
だが、やがて刀祢が分かりやすく吐息を零したかと思えば、急に興味が失せたかのように、透輝に背を向けて無言で立ち去っていった。まるで、気まぐれな猫みたいだ。
(……鈴も伊月も、負けんじゃねぇぞ)
透輝が咄嗟に取った行動が、二人の今後にどう影響するのか、今はまだ分からない。
しかし、叶うことならば、これ以上理不尽な現実に翻弄されて欲しくない。
肩から余計な力を抜きながら、もう一度手元に視線を落とすと、だんだんと水分を失い、萎れてきた薔薇の花びらが視界に映った。




