やってくれるじゃねぇか、神様
――その年の夏季休暇に、透輝は月城本家の屋敷に自ら足を運んだ。
(まさか、本当に来ることになるとはな)
幼い頃、鈴の逆鱗に触れ、「月城の家に引きずり込んでやる」と凄まれたことを自然と思い出し、苦い気持ちが込み上げてきた。
伊月があらかじめ月城本家に話を通しておいてくれたおかげで、透輝が屋敷に到着するなり、使用人の女性がすぐに目的の場所まで案内してくれた。
長い長い廊下を進んでいくと、時代錯誤だとしか言いようがない渡殿が見えてきた。その先には、母屋に比べてずっと小さい御殿がある。
まるで、タイムスリップしたかのようだと思いつつも渡殿を渡れば、紺色の剣道着みたいな格好をしている伊月が、御殿の扉の脇に控えていた。その腰には、おそらく真剣だと思われる立派な鞘に収められた日本刀が提げられていた。
一応、場の雰囲気に合わせて薄墨色の着流しを身に着けてきたのだが、伊月ほど着こなせている自信はない。
渡殿を渡り終え、伊月の元へと辿り着くや否や、使用人の女性は頭を下げ、即座に来た道を引き返していった。
「よう、伊月。悪いな、わざわざここまで出向いてもらって」
「……何かあったら、ここに通した俺の責任になるからな。刀祢兄さんも行方不明になってる以上、俺がお目付け役になるしかなかったんだよ」
伊月が「刀祢兄さんも」と強調したように聞こえたのは、気のせいではないのだろう。
鈴が失踪してからというもの、ただでさえ陰鬱な雰囲気を漂わせているのに、忌々しそうに眉間に皺を刻んだ伊月の周囲の空気だけ、重く澱んでいるように感じられる。
「それ、真剣か?」
「ああ。遠距離からも攻撃できるように、拳銃の携帯も許可されてる。だから、いざという時はお前だけでも逃がしてやるよ」
家に真剣や拳銃があるだけではなく、扱い慣れているその様子を目の当たりにすると、つくづく極道みたいな一族だと思う。
(まあ、それだけこの先にいる奴がおっかないってことなんだが……)
それでも、透輝に退く気は欠片ほどにもない。
「万が一の時以外は、ここに入る許可は俺には下りてない。だから、ここから先は透輝一人で行くしかない。……それでも、行くのか」
「ああ。用があるのは、この先にいる奴だからな」
伊月の言葉に迷わず頷いた直後、透輝自ら観音開きの扉に手をかけ、ゆっくりと引き開けていく。
重々しい音を立てて開け放たれた扉の先には、畳が敷き詰められた広間みたいな空間が広がっていた。そしてその奥には、透けて見えるほど薄くて白い紗が垂れ下がった天蓋がある。
その紗の向こうに、人影が見える。
一度深く息を吐き出してから、中へと足を踏み入れれば、夏の真っ只中だというのに、心なしかひんやりとした空気が頬を撫でていった。
それでも構わずに奥へと進み続ければ、紗の向こうで脇息にもたれかかっている女の姿が自然と近づいてきた。
――その女は、恐ろしいほどに美しい。
真珠を思わせる艶やかで真っ白な長い髪。鮮血のごとき真っ赤な双眸。花びらみたいに淡く色づいた唇。紅色の襦袢を身に纏い、生成り色の腰紐だけを結んでいるその姿はひどくしどけなく、雪のように白い肌と豊満な身体つきを、一層際立たせている。
そして――何事もなく成長していれば、きっとこういう姿になっていたに違いないと思わせるほど、その女は鈴にそっくりの顔をしていた。
「――分も弁えずに私に会いたいと言った五家の人間は、お前?」
緩く弧を描いた唇から零れ落ちてきた声は、鈴と同じく透き通った響きを持っているものの、妖艶な印象を受ける。
すっと細められた赤い瞳に油断せず、ゆっくりと畳の上に片膝をつき、頭を垂れる。
「――如何にも。五家が一つ、不知火の血を引く者――不知火透輝だ」
「堅苦しい挨拶は結構よ。今日は気分が良いの。楽にしてちょうだい」
「……では、お言葉に甘えて」
慎重に顔を上げると、嫣然と微笑む女と目が合った。
「あんたが……かぐやなんだな」
「ええ、そうよ」
白と赤に彩られた鮮烈な美しさを湛えた女――かぐやは、脇息の上で頬杖をつき、興味深そうに透輝を見つめてきた。
正直に言えば、想像していたよりもずっと普通の女だ。
確かに、永遠の命と美貌の持ち主だと、すんなりと納得できるほどの見た目をしている。千年以上の時を生きているという話だが、二十歳前後にしか見えない。
だが、一度口を開けば案外、その辺にいる人間と大差はない。てっきり、もっと古めかしい喋り方をしたり、物騒なことを口にするものだとばかり思っていた。
それに、かぐやが持つ色素の影響もあるのかもしれないが、神々しいというよりも、禍々しい雰囲気を醸し出している。半神というよりも、どちらかといえば鬼女みたいだ。
機嫌が良いうちは害のない鬼女だと認識していれば、上手くこの場を凌げるだろうか。
そんなことを考えつつ、密かに観察していたら、かぐやが鬱陶しそうに前髪を掻き上げた。
「それで? 私に一体、何の用かしら。五家の人間は大概、私に近づきたがらないものなのだけれど」
「ああ、俺もあんたに会うのはこれっきりにするつもりだ。――今日はあんたに、宣戦布告だけできりゃ、それでいい」
「宣戦布告?」
透輝の言葉に、かぐやは不思議そうに小首を傾げた。その仕草は、どことなくあどけない。
「ああ。――やってくれるじゃねぇか、神様」
かぐやに頷くのと同時に立ち上がり、唇を笑みの形に歪める。
かぐやは何度か瞬きを繰り返した後、ふっと嘲笑を浮かべた。
「あら、なあに? お前、呪われたの? 宣戦布告だなんて、聞こえの良い言葉を使っていたけれど、その実、その恨み言を私に聞かせにきたのかしら?」
「早々に見くびるなよ。そう簡単に前言撤回はしねぇよ。いいから、最後まで話を聞け」
かぐやの不興を買わぬように細心の注意を払いながらも、不遜な態度を貫く。
「確かに今の俺は、呪われてるか呪われてないかのどっちかと訊かれれば、間違いなく呪われてんだろうな。……だがな、あっさりと呪いなんざに屈するつもりもねぇんだよ」
見下ろした先にいるかぐやをひたと見据えつつ、言葉を継ぐ。
「そもそも――あんたは本当に、俺ら五家を呪ったのか?」
「え……」
悠然と微笑んでいたかぐやが、そこで初めて驚愕に目を見開いた。
頬杖をつくのをやめ、透輝をじっと見上げてきた。
「確かに、五家から頭のおかしい人間が出たり、五家に関わった人間が狂ったりしたって、記録には残ってる。でも、それだけなら、ただ精神疾患がある人間が産まれやすい一族だって説明がつく。五家に関わった人間の気が触れたってのも、精神疾患がある人間の近くにいて精神的に追い詰められてったとも考えられる」
かぐやの呪いについて調べていく中で、ずっと違和感があったのだ。
呪いと言うからには、どれだけ凄惨な記録が残されているのかと、戦々恐々としながらも調べ上げていけば、痴情のもつれや家庭内虐待がほとんどの内容を占めていた。
その末に、殺人事件に至ったり、社会生活を送るのが困難な状態に陥ることはあれども、たとえ呪われていなくても、生きていればそういうこともあるだろう。
「ただ、どう考えても、尋常ではない件数の事件や事故が五家の中では起きてる。だから、本人たちも周りも、『これはかぐやの呪い』だって結論になったんだろうな。だが――」
それでも、透輝は呪いという結論に懐疑的だった。何か別の原因があるのではないかと、様々な憶測を立てては調べ物に没頭した。
「――ノーシーボ効果って可能性もあるんじゃねぇのか」
透輝がそう告げた途端、かぐやは不可解そうに眉根を寄せた。
「あんたには、こう言った方が分かりやすいか。つまりは――ただの思い込みなんじゃねぇかって話だ」
「……そんなわけはないでしょう。私は半神よ? 人間にはない力を持ってるの。人を呪うことくらいできるわ」
「あんた自身、そう思い込んでるって可能性はねぇか? あんたは、五家の人間を呪ったって思い込んでる。五家の人間は、あんたに呪われたって思い込んでる。……思い込みの力ってのは案外、馬鹿にできねぇもんだぞ」
透輝が立てた仮説が正しかった場合、千年もの時間をかけたにも関わらず、解呪の方法が見つからなかったことにも頷ける。
そもそも、呪いなんて目に見えないものをどうにかしようなど、馬鹿げていると透輝は思う。むしろ、八神家も月城家もこれまでよく匙を投げなかったものだ。
「まあ、これはあくまで俺の憶測に過ぎねぇからな。あんたの言う通り、呪いは本当に存在するのかもしれねぇ。……でも、俺にとってはそんなもん、どっちでも構いやしねぇんだよ」
透輝を仰ぎ見ているかぐやに、指先を突きつける。
「いいか? 俺が生まれつき持ってる異常性が、呪いによるものだろうがなかろうが、人生を謳歌してやる。幸せって奴を、掴み取ってみせる。――あんたが言う呪いって奴に、生涯抗い続けてやるよ」
己が抱える異常性を、他でもない自分自身が否定している間は、正直辛かった。
しかし、一度認めてしまえば、意外にも楽になれた。その上で、自分が進む道は自分で切り開いていくと、腹をくくることができたのだ。
「自分の厄介な部分くらい、自分で面倒見てやるよ。そんくらい、当たり前のことだ。だから、あんたも……いつまでもこんなところに囚われてねぇで、自分が始めたことには自分で決着をつけろ。いいな?」
かぐやに向けていた指先を下ろすと、透輝をぼんやりと眺める赤い眼差しとヘーゼルの眼差しが交錯した。
かぐやはしばし呆気に取られた様子だったものの、やがて堪えきれなくなったかのように、ふっと小さく噴き出した。




