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裏切りの片割れ月  作者: 小鈴 莉子
幕間 不知火家
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蹂躙

「――一華さん、貴女に不知火本家の正妻の座をお譲りすることはできません」


 正妻という単語を口にした途端、胸に鋭い痛みが走った。


 本当は、こんな言葉を口に出したくなんてなかった。

 だが、夫が真に結婚したかった相手を外で愛人として囲い、鏡花が妊娠している間に子供まで身籠らせたのは、紛れもない事実だ。


 不機嫌そうに眉間に皺を刻んだ一華が口を開くよりも早く、言葉を繋ぐ。


「貴女の子供も本家で引き取り、息子と同様に養育します。……貴女では、とてもじゃないけれど、子供が大人になるまで育て上げることなんて、できないでしょうから」


 子供を引き取ると鏡花が申し出るや否や、一華はぱっと目を輝かせた。本当に、一華にとって子供とは、男を繋ぎ止めるための道具に過ぎないのだろう。


「……子供がいなくても、貴女は充分、悠生さんの寵愛を受けられるでしょう。現に夫は、ほとんど家に寄り付きませんから」


 だから無理矢理、不知火本家に嫁がなくても、一華が望むものは既に得られているのだと、明言する。


 ああ――なんて、惨めなのだろう。どうして、ここまで女としてのプライドを傷つけられなければならないのか。


 しかし、このくらいはっきりと言っておかなければ、この女はまたここに乗り込んでくるかもしれない。

 だから、痛みを訴える心を無視し、言葉を続ける。


「それでも尚、貴女は何を望みますか。地位ですか? 自ら呪いを引き寄せてまで、欲しいものですか。名誉ですか? ご安心ください。今さらこの家に嫁いだところで、貴女には手に入れられませんよ。財産ですか? そんなもの――悠生さんにおねだりして、好きなだけもらえばいいじゃないですか。きっと、いくらでも貢いでもらえますよ」


 一切感情を挟まずに言い渡そうとしたのに、どんどん語気が荒くなっていく。

 これ以上言い募れば、余計なことまで口から飛び出してしまいそうだったため、唇を噛み締めて耐える。


 そんな鏡花の態度に驚いたのか、一華はゆっくりと目を瞬かせた。でも、その美しい顔はすぐに笑みに彩られていった。


「貴女って……可哀想な人だったのね?」


 きっと数多の男を誘ってきたに違いない、艶やかな唇から零れ落ちてきた言葉は刃となり、鏡花の胸に深々と突き刺さった。


「ごめんなさい、私、勘違いしてたみたい。私ね、貴女のこと、ずうっと恵まれた人だと思ってたの。由緒正しき家系に生まれて、何の苦労もなく悠生さんと結婚して、結婚してすぐに子供を授かって……。今、幸せの絶頂にいるものだとばかり思ってたの。……ごめんなさいね?」


 どこか無邪気ささえ感じられる微笑みを前に、絶対に泣くものかと己を戒め、奥歯を噛み締める。

 夫も目の前の女も、一体どれだけ鏡花の尊厳を踏み躙れば、気が済むのだろう。

 一華の言う通り、恵まれた人間だったならば、どれほどよかったか。


「そうね……あとは、悠生さんを交えて話を進めましょ。実は今日、悠生さんに会いにきたのだけれど……あの人、今日はどこにいるのかしらね?」


 その言葉が鼓膜を震わせるなり、ざっと顔から血の気が引いた。


(まさか……他にもいるの?)


 目の前にいる女の存在だけでも、こんなにも心を搔き乱されているというのに、もしかすると他にも愛人がいるのかもしれないのか。


「それじゃあ、今夜はこれで失礼させてもらうわ。――呼んだタクシーが来るまで、ここにいても構わないかしら」


 アイボリーのハンドバッグから携帯電話を取り出しつつ、小首を傾げて問いかけてきた一華を、今すぐこの屋敷の外へと放り出したい衝動をぐっと堪える。


 今、使用人の姿が見受けられないのは、十中八九義母が下がらせたに違いない。

 だが、この嵐の中、屋敷の周辺をうろつかれたら、見かねた使用人が中に入れてしまうかもしれない。


 そして何より、自ら噂の種を蒔くような真似だけはしたくなかった。


「……ええ、構いませんよ。ただし、それ以上奥には入らないでください」


 ――この時、心の奥に大切にしまっていた何かに(ひび)が入る音を、確かに聞いた気がした。



 ***



 念のため、医者に診てもらった赤子――めのうには幸い、何の異常も見受けられなかった。

 そして、鏡花は宣言通り、実子である透輝と養子であるめのうを育てることになったのだ。


 実の両親も、義理の両親も、鏡花がそこまでする必要はどこにもない、施設に預けるか、引き取ってくれる親戚か里親でも探せばいいとも言ってくれた。


 しかし、この時の鏡花は無自覚に意地を張ってしまっていたのだろう。

 周囲の気遣う言葉を頑なに拒み、自分の意志を貫き通した。


 一応、ようやく屋敷に顔を出した悠生を即座に捉まえ、事のあらましを伝えたが、夫は驚くほど無関心だった。自分の妻が愛人の子を育てることになったというのに、「そうか」の一言だけで済ませた夫に最早、失望すら覚えなかった。


 役所への手続きや養育費の負担はしてくれたものの、やはり滅多に家に寄り付かない。家にいると、実の両親にこのことに関して責め立てられるため、余計に足が遠のくようになってしまったのだろう。

 でも、もう夫の顔を見るのも嫌になっていた鏡花にとって、その方がかえって都合が良かった。


 一人育てるだけでも大変だったのに、同時に二人分の育児をこなさなければならなくなった鏡花は、多忙を極めた。


 義母に勧められ、ベビーシッターを雇い入れ、負担を軽減させる努力をしたものの、慈しむべき命が一つ増えるとなると、やはりこれまで通りとはいかない。


 だが、鏡花はその忙しさを自ら進んで引き受けたのだ。

 忙しくしていれば、余計な感情に煩わされずに済む。


 それに、自らが産んだ息子と愛人の娘、どちらも立派に育て上げることで、傷つけられた自尊心を癒そうとしていたのかもしれない。


 それなのに、年々、息子も娘も憎い夫に似てきた。娘に至っては、母親にまで似てきたものだから、胸の奥底から黒く粘ついた感情が噴き出してくるのが止められなくなっていった。



 ***



「ママ、見て! これ、幼稚園で描いたんだ!」


 幼稚園から家に帰ってくるや否や、めのうは小さな靴を脱ぎ捨て、鏡花のロングスカートの裾を引っ張ってきた。


 視線を落とせば、期待に満ちたヘーゼルの双眸が鏡花を仰ぎ見ている。それから、娘の手は一枚の画用紙の端を握っていた。


「今日、鈴とマナとお姫様ごっこをしたんだ! それでな、その時の絵を描いたんだ!」


 鏡花のスカートの裾から手を放すと、めのうは画用紙いっぱいに描かれた絵を掲げてみせてきた。

 そこに描かれているのは、本当にお姫様みたいに可愛らしい、三人の女の子たちだった。そして皆、幸せそうに笑い合っている。


 めのうは生まれつき、芸術の才能に恵まれているらしく、幼稚園児にしてはかなり精巧な出来栄えだ。


 ――ただ美しいだけではなく、才能まで持ち合わせているのか。


「……めのうは、本当にお絵描きが上手ね。でも、帰ってきたら、まずは手洗いうがいをしなきゃいけないでしょう? あと、脱いだ靴もちゃんと揃えてね。そうしたら、あとでゆっくり見せてちょうだい」


「はーい」


「母さん、今日のおやつは何?」


 めのうが素直な返事をしたところで、透輝が唐突に話に割り込んできた。


「今日は、ドーナツよ。透輝とめのうが好きなの買ってきたから、仲良く分けて食べてね」


「よっしゃ! じゃあ、先もーらい!」


 とっくに手洗いうがいを済ませていた透輝は、全速力でダイニングへと駆け込んでいく。


「あー! 透輝、ずっりー!」


 兄に自分の取り分を奪われまいと、めのうも慌てて靴を揃え直し、洗面所へと駆け込んでいった。こういう時でも、母の言いつけはしっかりと守る辺り、めのうの育ちの良さが窺える。


 ――そう、鏡花は透輝のことも、めのうのことも、精一杯育て上げてきた。


 友達の影響なのか、二人が好きな幼児向けアニメの影響なのか、幼稚園に入園してから、透輝もめのうも言葉遣いが汚くなってしまったものの、行儀よくしていなければならない場面では、そつなく振る舞うことができる。鏡花による教育の賜物でもあるが、二人とも器用で容量が良いのだ。


 だから、どういう場に連れていっても、二人は周囲から可愛がられた。もちろん、めのうのことを口さがなく言う人もいたが、持ち前の強かさと愛嬌で、大抵の場は乗り切ってしまう。


 それなのに、欠片も心が満たされないのは、何故なのか。


 めのうがぱたぱたと走って出てきた洗面所へと、鏡花も入る。すると、洗面台の縦長の鏡に、とりわけ美しいわけでもなければ、華やかさなど砂粒ほどにもない、地味な女の顔が映った。


 別に、自分の顔を醜いと思ったことはないし、そう評価されたこともない。

 しかし今は、この平凡極まりない容姿が、嫌で嫌でたまらなかった。


 化粧を変えれば、少しは印象が変わるだろうか。

 もっと髪を伸ばし、毛先を緩く巻いてみたら、一華やめのうみたいな華が出るだろうか。


「……違う……」


 でも、そんなものは張りぼてに過ぎない。

 鏡花の周りにいる華麗なる人々のような生来の輝きは、凡人にはどうあっても得られない。


「ママー、早くー!」


 遠くから、母を呼ぶ声が聞こえてくる。その直後、目の前が真っ赤に染まるような怒りが、腹の奥底から湧き上がってきた。


「私は……貴女の母親なんかじゃない……!」


 本人を前にしては決して口に出せない本音を、排水口に向かって吐き出す。二人の元へと戻るまでには、平静を取り戻さなければと、洗面台の縁をぎゅっと掴む。


 ――また、心の奥で何かに罅が入る音が聞こえた気がした。

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