夢
昼休みになっても、一度沈んだ気分はなかなか晴れなかった。
今日は、鈴と伊月、撫子、蓮の四人で中庭の木陰にレジャーシートを敷き、昼食を摂ることになった。このために、撫子がわざわざ実家からシートを持参してきてくれたのだ。
愛未と誠司は、今日は恋人らしく二人きりで昼食の時間を楽しむのだという。めのうは美大の推薦入試に向けて、作品制作に没頭しているみたいで、その作業の片手間に簡単に食事を済ませると聞いている。
伊月や撫子、それから蓮は楽しそうに言葉を交わしているのだが、どうにも会話の輪に加わる気にはなれなくて、購買で購入したコロッケパンをもそもそと食べる。
「――鈴、どうかしたの? 顔色が良くないけど……気分でも悪いの?」
「うん、ちょっと……。でも、保健室に行くほどじゃないから」
めのうと雪菜の言葉を思い出し、心配そうに鈴を見る撫子に素早く先手を打つ。
「そう……でも、やせ我慢は駄目よ。ごはんも、無理して食べることはないんだから」
「うん、そうする」
「ごはん食べるの、食堂か空き教室の方が良かったかな? 今日、外はちょっと暑かったかもね」
「心配してくれて、ありがとう。蓮くん。でも、私は平気だから」
平気そうに見えないから心配されているのに、唇から零れ落ちる声は少し刺々しくなってしまった。
でも、口にした言葉を撤回し、愛想を振り撒く余裕なんて、今の鈴には砂粒ほどにもなかった。
(……ごめんね。なっちゃん、蓮くん)
今日、この四人で昼食を摂ることになったのは、撫子と蓮が協力して鈴が伊月の告白への返事をするためのシチュエーションをセッティングするためだったのだ。
それなのに、当初乗り気だった鈴がこんな調子なのだから、二人とも内心さぞかし困惑しているだろう。
それでも、やはり愛想よく振る舞うことができなくて、もぐもぐとコロッケパンを齧っていたら、目の前に急にちくわの磯辺揚げがにゅっと現れた。
驚いて顔を上げれば、綺麗な箸使いで自分が買ったのり弁からおかずを摘まみ上げた伊月と、視線が絡み合った。
「鈴、これ好きだろ。よかったら、食べて」
撫子や蓮みたいに鈴の体調を心配する言葉を投げかけるのではなく、唐突に好物を差し出してきた伊月をまじまじと見つめる。
その姿に、幼い伊月が鈴に向かって鈴蘭の花を差し出してくれた光景が、自然と重なっていく。
昔の伊月の微笑ましい姿が瞼の裏に蘇ってくると、思わずふっと唇が綻んでしまった。
「……うん、いただきます」
隣に座っていた伊月に身体ごと向き直り、口を開けておかずにそっと齧りつく。ちくわの磯辺揚げは到底一口で食べられる代物ではないから、咀嚼し、嚥下してはまた齧りつく。
自分の食事の手を止めざるを得なくなってしまったにも関わらず、伊月が鈴を急き立てる様子は露ほどにもない。むしろ、もぐもぐと口を動かしている鈴を、優しい目で見守ってくれている。
「――それで? 鈴はなんで落ち込んでたんだ?」
最後の一口を食べ終えたところで、伊月が単刀直入に切り込んできたから、ぎくりと身を竦ませそうになってしまった。
思い出したばかりの記憶を、伊月に打ち明けるのは憚られる。
だから、咄嗟に違う理由をでっち上げた。
「えっと……二時間目にめのちゃんと一緒に勉強したんだけど、その時めのちゃんの進路の話を聞いて……ちょっと焦っちゃっただけ」
「ああ……」
伊月は一応、納得したような声を漏らしたものの、暗緑色の双眸に猜疑心が過っていくのを、鈴は見逃さなかった。
鈴の本心を探るような眼差しから顔を背け、撫子と蓮に話題を振る。
「そういえば、なっちゃんと蓮くんは、大学に行くの?」
「ええ、そうよ」
「なっちゃんは、医学部を受験する予定なんだよね」
「え、医学部?」
蓮がにこやかに暴露した衝撃の事実に、目を見開く。
だが、撫子に動じた様子は微塵もなく、澄ました顔で弁当箱に入っていたひじきと大豆の炒め煮を口に運んでいる。
「それは……実家の後を継ぐため?」
「実家はあんまり関係ないわね。――私、産婦人科医になりたいのよ。産婦人科こそ、女性の医者がもっと必要だと思うの」
「おお……」
背筋をぴんと伸ばし、立派な志を何の臆面もなく宣言した撫子に、つい食事の手を止めて小さな拍手を送る。
「蓮くんは?」
「俺は、看護学科を受験する予定だよ。……伊月やなっちゃんより、偏差値の低い大学だけど」
「いやいや……偏差値とか、そこまで気にすることないと思うよ。蓮くんは、看護師になりたいの?」
「うん。今って、男の人の看護師も増えてきてるけど、まだまだ女の人の割合が高いでしょ? 結構、力仕事が多くて体力的にも精神的にもきつい職種なのに」
「それは……確かに」
今月、鈴が入院した病院に勤務していた看護師も、圧倒的に女性の方が多かった。
「あと、単純にやりがいがありそうな仕事だなあって思って」
「偉い……二人とも、立派過ぎるよ……」
こういう若者がもっと増えれば、この国はより良くなっていくのではないかと、誰の目線で物を考えているのかと突っ込みを受けそうな想いが、胸に芽生えていく。
「まあ、子供が産まれたら、俺が家事・育児を優先的に引き受ける予定だから、どのくらい仕事を続けるかは未定だけど」
「こどっ……!?」
ちょうどコロッケパンを飲み込もうとしたところで、さらりと次なる爆弾が投下されたため、危うくむせそうになってしまった。
「いやー、先を見据えて人生設計していかなきゃ、駄目でしょ」
蓮は温和な笑顔のままだが、撫子は余計なことまで吹き込まなくていいと言わんばかりに、じろりと睨みつけている。若干、撫子の頬が羞恥で赤く染まっているようにも見えなくもない。
(さすが、小学生の時から婚約者がいた人は違う……)
高校生でここまで先を見据えている人は、そうそういないだろう。
きっと、蓮に何事もなければ、ここまで先のことを考えたりしなかったに違いない。
しかし、二人は幼い頃から跡取りを求められてきたから、嫌でも早いうちからこの問題に向き合わざるを得なかったのだろう。
「え、えっと……伊月は?」
あまり蓮と撫子をじろじろと見てはいけない気がして、伊月に話の矛先を向ける。
「俺は撫子と同じ大学を受ける予定で、専攻は経済学部にするつもりなんだ」
八神本家の当主の座を継ぐに辺り、経済の知識は必要だっただろうかと、内心首を傾げていたら、伊月が苦い笑みを零した。
「ほら、うちって管理しなきゃいけない資産が、たくさんあるだろ? だから、ある程度の知識はあった方がいいなって思って」
「あ、うん。そだね……」
伊月の言う通り、八神家の資産は莫大なものだ。
本業はそれほど稼げるものではないのだが、昔から八神家や月城家の人間は資産運用が得意だったのだという。それで、時代を経るごとに資産が膨れ上がっていったのだ。
それに加え、八神家も月城家も所有している土地が多い。それらを最大限活用し続けた結果、現在に至る。
もちろん、管理していく上で出ていくものもそれなりに多いはずなのだが、おそらくそれ以上に入ってくるものが多いのだろう。
「マナちゃんは短大を受験する予定で、誠司くんは検察官を目指すのかな?」
透輝の話題にはあまり触れない方がいいと、昨日伊月から言われたばかりだから、口には出さないでおく。
でも、順当に考えれば、透輝は不知火家が経営している会社を継ぐ役割を求められている可能性が高い。
「うん、そうみたい。あ、誠司も俺や撫子と同じ大学を受ける予定なんだって」
「そうなんだ……」
伊月の返答に一つ頷き、コロッケパンの最後の一口を食べる。
皆、学園を卒業したら、それぞれの進路に向け、別々の道を歩んでいく。伊月と撫子、それから誠司は同じ大学に進学するつもりみたいだが、学部や学科は異なる。
そして、鈴は皆に置き去りにされていく。
(でも、私は――)
――きっと、そう長くは生きられないはずだ。
どうして、八神家が今のところ、鈴を放置しているのか分からない。何故、また学園に通わせる気になったのかも、その真意は掴めない。
だが、もしかすると、何かイレギュラーな事態が発生したから、鈴に構っている余裕がないのかもしれない。あるいは、死を求めた鈴に余生でも与えているつもりなのかもしれない。
「――鈴は、将来の夢とかないの?」
「え」
八神一族に想いを馳せていたら、いきなり撫子に問いを投げかけられた。
将来の夢なんて、鈴にあったところで叶う見込みはかなり低い。その質問は、今の鈴にとっては皮肉だとさえ思う。
しかし、二度も場の空気を壊すのは気が引けた上、伊月に鈴の心の機微を気取られたくはなかったから、急いで思考を巡らせていく。
「何か目標があれば、勉強にも身が入るでしょ。具体的な目標がなくても、ある程度の方向性は決めておいた方が、自分のためになるわよ」
「えーっと……一応、あることにはあるけど……多分、聞いたら笑っちゃうと思う」
「笑わないって、約束するから」
しどろもどろに答えれば、撫子はきっぱりとした口調で返してきた。
撫子や蓮みたいに、人から賞賛されるような目的意識があるわけではない。伊月みたいに、自分が将来就く仕事に役立つ知識を獲得しようと考えているわけでもない。
でも、それでも幼い頃からの夢はある。