死にたがり
翌日。
今日の二時間目は国語の授業だったのだが、急遽雪菜が職員室に呼ばれてしまったため、自主学習に変更になった。
でも、雪菜が戻り次第、国語の授業を始める予定だから、今は漢字の読み書きの問題集に黙々と取り込んでいる。
ちらりと隣の席を見遣れば、めのうが古典の問題集を机の上に広げている。今の時間は、めのうのクラスは自主学習の時間なのだという。
「……古文って、難しそうだね」
一旦、手にしていたシャープペンを机の上に置き、古典の問題文に目を通しつつ声をかければ、解答欄を埋めていためのうが顔を上げた。
「まあ、現代文よりはずっと難しいな。でも、漢文よりは取っつきやすいと思うぞ。古文は一応、この国の言葉だし」
古文も漢文もまだ勉強したことがない鈴にとっては、どっちもどっちだと思う。
問題文を見ているだけでも頭が痛くなりそうだったから、再度漢字の書き取りに取り組む。
片や異国の言語みたいな文章を読みながら、さらさらと淀みなく空白を埋めているというのに、片や初等部の延長みたいな練習問題に取り掛かっていることに、徐々に虚しさを覚えてきた。
めのうは昔から天才肌で、それほど努力しなくても、勉強も運動も人並み以上にできるタイプだった。
鈴も、どちらかといえばめのう寄りのタイプだったのに、五年の間にそう簡単には埋められない差が生じてしまったことを、改めて思い知らされ、また焦燥感が胸をちりちりと焼いていく。
きゅっと唇を噛み締め、シャープペンを持ち直したところで、気持ちを入れ替えるように明るい声を出す。
「――そういえば、めのちゃんはみんなとは違うクラスなんだよね」
もう一度声をかけると、めのうは一区切りついたのか、古典の問題集を閉じて今度は古文単語集に手を伸ばした。
「そ。伊月と誠司と透輝がA組で、撫子と蓮とマナがB組。で、あたしがD組。確か、鈴もB組に編入したんだよな」
「うん。多分、なっちゃんとマナちゃんがいるから、B組に入れたんじゃないかな」
「あ、なるほどなー」
めのうは単語集に視線を落としたまま、シャープペンを動かしていく。
すると、そこで特別教室のドアが開き、雪菜がつかつかと中に入ってきた。
「鈴、悪いな。急用が入っちゃって」
「いえ。めのちゃんと一緒に自習していたので」
再びシャープペンを置き、にっこりと微笑みつつ首を横に振ると、雪菜はめのうへと視線を移した。
「お、めのう。ちゃんと古典の勉強してんだな。偉い、偉い」
「どっかの誰かさんが抜き打ちテストとかするから、真面目にならざるを得ないんですー」
鈴同様、シャープペンを動かす手を止めためのうは、机の上に両肘をついて両手で頬を包み込むという、大変あざといポーズを決めながら雪菜に言い返す。
「結構、結構。――ああ、そうそう。三時間目から美術室自由に使っていいって、伝言預かってきたぞ」
「りょーかいでーす」
二人のやり取りに内心首を傾げていたら、めのうが鈴へと振り向いた。
「あたし、学校から美大に推薦されてんだ。だから、今のうちから作品を制作しとかなきゃなんねえの」
「……え!」
衝撃の事実に、驚きに目を見張る。
確かに、めのうは幼い頃から芸術的なセンスにも恵まれていた。初等部の頃は絵画教室に通っていたし、中等部に進級して女子四人で部活見学をしていた際には、めのうは美術部への入部を考えていた。
だが、まさか学校から推薦されるほど、腕を上げていたのかと、賞賛と驚愕が胸の内で荒れ狂う。
「あたし、将来はジュエリーデザイナーになりたいんだ。だから、使えるチャンスはとことん使ってやろうと思って」
「それは……実家の後を継ぐため……?」
不知火家は、総合ジュエリーメーカーを経営している。今は、不知火本家の人間ではなく、親戚筋に経営を任せているらしいが、不知火本家には高校生の息子と娘がいるのだ。どちらが跡取りに選ばれたとしても、不思議ではない。
「いや? 実家は関係ねえな。今のところ、あたしが後を継ぐ予定もねえし」
「そっ……か……」
そうだ。高校三年生ともなれば、ある程度進路が決まり、将来を見据えていて当然だ。
義務教育を終わらせることに専念しなければならない鈴とは、雲泥の差だ。
「ほら。いつまでもお喋りしてないで、授業をやるぞー」
「は、はい」
慌てて国語の教科書とノートを開いていると、雪菜は再度めのうに目を向けた。
「めのう。鈴は今から私の授業を受けるから、自習室に移動したらどうだ?」
「えー。静かにしてるから、ここにいさせてー。ゆきちゃんせんせー」
甘えた声を出すめのうに、雪菜は苦笑いを浮かべた。
「なんだ、移動が面倒くさいのか?」
「それもあるけど、サイコパスせんせーから鈴を守る任務があるんですー」
「サイコパス先生……ああ、刀祢のことか。あいつ、今は授業やってるから、ここには来ないぞ」
サイコパス先生とすぐに結び付けられる辺り、刀祢の日頃の行いが窺える。
「あれ? ゆきちゃん先生、刀祢と仲良いんだ?」
しかし、めのうは雪菜が刀祢を呼び捨てにしたことに食いついた。
「ああ……私もここの卒業生なのは知ってるだろ? 刀祢とは同級生だったんだ。高校の頃は、同じクラスだったこともあるし」
「あ、そゆこと」
雪菜の無難な切り返しに、めのうはすぐさま納得した。
(そうだよね……普通は、元カレとか元カノとか、そういう話は滅多にしないよね……)
恋愛談議で盛り上がっている友人同士でも、ましてや合コンに参加している男女でもないのだ。教師と生徒という関係で、そこまで突っ込んだ話をするわけがない。
(やっぱり刀祢兄さん、感覚がズレてるな……)
しかも、刀祢と鈴は親戚でもあるのだ。わざわざあんな話を打ち明けた刀祢は、やはりどうかしている。
「あいつ、鈴に何かしたのか」
「昨日の放課後、絡まれたらしーぞ」
胡乱な目になった雪菜に、めのうが鈴に代わって答える。
めのうの返答に、雪菜は深々と溜息を吐いた。
「……分かった、あとで注意しておく」
「……よろしくお願いします」
雪菜が何か言ったところで、刀祢が耳を貸すとも思えないが、とりあえず頭を下げておく。
顔を上げると、もう一度苦い笑みを零した雪菜と目が合った。
「……鈴も大変だな。昔っから、あんな死にたがりに付き纏われるなんて」
「――え」
死にたがりという言葉が鼓膜を揺さぶるなり、どっと心臓が嫌な音を立てた。
「……昔から? 死にたがり? 刀祢って、サイコパスなロリコン野郎だったわけ?」
鈴の隣で首を捻るめのうの姿が視界の隅に映ったが、今は答える余裕など欠片もない。
「いや、あいつはロリコンじゃないぞ。ただ……自分と一緒に死んでくれる、体のいい奴を欲しがってるだけだよ」
「えええー……想像以上にヤバい奴じゃん……」
雪菜とめのうの声が、どうしてか妙に遠く感じられる。心臓が耳のすぐ傍に移動してきたかのごとく、どくどくと鼓動が脈打つ音がうるさくて、周囲の物音が急速に遠ざかっていく。
――俺が、一緒に死んであげるよ。
独特な色香を纏った魅惑的な囁き声が耳の奥に鮮烈に蘇ってきた途端、ひゅっと息を呑む。
――鈴、貴女は希望の光なの。だから、然るべき時に……伊月の代わりに死んでちょうだい。
――貴女みたいな化け物は死んで初めて、今まで生きてきたことを許されるのです。伊月さんを守るために命を投げ打つ行為は、名誉ある死です。むしろ、感謝なさい。
――……鈴、すまない。でも、頼むから……どうか、伊月のためにも死んでくれ。
鈴の死を望む声が、次々と鼓膜を埋め尽くしていく。頭の中で幾重にも反響し、顔から血の気が引いていく。
(そうだ……私は、みんなから伊月のために死んで欲しいって言われて、それで――)
――共に死んでくれると、自らの命を差し出すという刀祢の手を取り、決めたのだ。
今も尚、苦しみ続けているかぐやを救うために、その命を奪おうと。
伊月たちを呪いから解放するために、この命を犠牲にしてでも終止符を打とうと。
そして何より――伊月にその役目が回ってこないようにしたくて、自身の存在を許されたくて、八神一族の懇願を聞き入れたのだ。
それなのに何故、今こうして能天気に学生生活を送っているのか。どうして、今すぐにでもかぐやの元へと向かわないのか。
何故――八神の人間も月城の人間も、鈴を野放しにしているのか。
「――ず。鈴?」
ふと、しなやかな強さを宿した声に名を呼ばれ、はっと我に返る。
のろのろと視線を動かせば、めのうが心配そうに鈴の顔を覗き込んできた。
「……鈴、顔が真っ青だぞ。具合でも悪いんじゃねえのか」
「具合が悪いなら、今から保健室に行って横になるか?」
雪菜も鈴の顔を覗き込み、表情を曇らせつつもそう提案してくれた。
「いえ……問題ありません。このまま授業を始めてください」
多少気分が悪いものの、体調を崩したわけではないのだ。授業を受ける上で問題はない。
気を取り直して両手で国語の教科書を持つと、雪菜はまだ鈴の身を案じるような視線を投げかけてきたが、一つ吐息を零しただけで、自分の教科書を開いた。
――どうか、伊月のためにも死んでくれ。
鼓膜にこびりついて離れない声を振り払うように、音読を始めた雪菜の声に意識を集中した。




