憧憬
「……鈴、やり過ぎだ」
透輝に一度言い返したきり、ずっと黙りこくっていた伊月が、深々と溜息を吐いた。伊月へと振り向いた鈴の横顔は、分かりやすく膨れっ面になっていた。
「でも、いーくん。私が言い返さなかったら、言われっぱなしのつもりだったでしょ」
「透輝の言い方はいちいちムカつくけど、全部事実だし」
「駄目だよ。やられたら、やり返さなきゃ」
鈴は可憐な容姿に反し、なかなか好戦的な性格の持ち主なのだろうか。
腰に手を当ててはっきりと言い返す鈴に、伊月は複雑そうな面持ちになった。
「……自分は何を言われても、言い返さないくせに」
「だって私は、八神の家では所詮、よそ者だもん。発言権がないんだよ。でも、外では発言権があるから、嫌なこと言われたら、ちゃんと言い返してるよ。今みたいにね」
「よく言うよ……俺のためにしか、鈴は怒らないくせに」
「そんなことないと思うけど」
「そうなんだよ。鈴は……俺より優秀なのに、時々すごく馬鹿だ」
「それ、褒めてるの? 貶してるの?」
「両方。……とにかく、ああいうことは言っちゃ駄目だ。もちろん、やるのも駄目。鈴の手で透輝を処分しろって命令されたら、鈴は逆らえないだろ? 俺も、逆らえないけどさ」
――処分。命令。
先刻から、小学一年生らしからぬ会話を交わしていた上、その言葉の端々から、八神家は色々と複雑なのだろうと思って聞いていた。
だが、伊月の口から飛び出してきた単語は、それまでの二人の会話の中でも群を抜いて異質だ。
ふと、伊月が鈴から透輝へと視線を移した。
鈴と同じ色の眼差しは、まるで物に向けられているかのごとく、何の感情も乗っていない。鈴と目を合わせて話していた時と、全然違う。
そこで、突然気づいてしまった。
透輝は、伊月は鈴がいなければ友達を一人も作れないと、嘲っていた。
しかし、蓮の予想通り、きっと伊月は友人を作れないのではなく、作らないだけに違いない。
そしてその理由は、伊月は鈴以外の人間を人として認識していないからなのではないかと、そう思えてならなかった。
それこそ、伊月は命令を受けたら、何の躊躇いもなく透輝を「処分」するのだろう。不要物を捨てる時と同じように、淡々と心を動かされることもなく、透輝という人間を最初からいなかったことにできてしまうのではないか。
そこまで考えたところで、背にぞっと寒気が走った。
その直後、もう一度溜息を零す音が耳朶を打った。でも、今度は伊月ではない。
「……透輝。鈴はキレると、マジでおっかないんだから、あんまり調子に乗るなよ。伊月は伊月で、感覚が人とズレてるんだからさ。下手したら透輝、本当に鈴が言ったようなことになるぞ」
腕組を解いためのうの声には多分に呆れが含まれていたものの、それ以上に兄を案じる気持ちが込められていた。だからこそ、先程の鈴や伊月の言葉が余計に真実味を帯びてしまい、一際恐怖心が煽られていく。
「……悪かったよ、これからは気をつける」
透輝は不貞腐れた表情を浮かべていたものの、茶にも緑にも見える瞳には微かな怯えが宿っている。
愛未は深い安堵の吐息を零し、これ以上ややこしいことにはならなさそうだと判断したらしい誠司は、先刻まで話していた友人たちの元へと戻っていった。
透輝も、めのうと二言三言交わすと、自分が在籍しているクラスへと帰っていった。
「いーくん。もし透輝くんに意地悪されたら、ちゃんと言ってね」
「鈴がそこまで心配しなくても、平気だよ。じゃあ、俺もクラスに戻るから」
「うん、また入学式でね」
「うん」
八神兄妹も話を終えると、解散の流れになった。そして、伊月が立ち去るなり、鈴がこちらへと振り返る。
「入学式、緊張するねー。何だか、だんだんドキドキしてきちゃったよ」
そうやってふにゃりと笑う鈴は、先程透輝に啖呵を切っていた少女と同一人物だとは思えない。息を呑むほど綺麗な女の子ではあるが、見た目以外は普通の女の子みたいだ。
でも、間違いなく鈴は中身も普通ではない。両極端な二面性を持ち合わせており、その場に応じて使い分けているだけに違いない。
花が綻ぶような笑みを浮かべた直後、まるで吸い寄せられるように愛未が鈴に近づいていく。それから、どこか遠慮がちではあったものの、愛未が抱きつくと、鈴はその頭を優しく撫でる。
「あー! マナ、ずるーい!」
鈴に優しく抱擁されている愛未を目の当たりにするや否や、一目散にめのうが駆けていった。そして、めのうも鈴にぎゅっと飛びつく。
その光景が、蓮にとっては恐ろしくてたまらなかった。
先刻、あれほど冷酷な一面を覗かせていたはずなのに、今の鈴は慈愛に満ちた微笑みを浮かべ、甘える愛未とめのうを抱きしめている。その上、愛未もめのうもそんな鈴に何の疑問も覚えた様子はなく、無邪気に甘えているのだ。二人とも、先程の出来事はもう頭から抜け落ちてしまっているのだろうか。
そして何より、鈴の温かな笑顔を目にした途端、蓮もあの腕の中に飛び込みたいと思ってしまったのだ。
めのうや愛未みたいに、鈴に甘えたい。頭を撫でられ、あの身体に頬を擦り寄せたい。
焦がれるような衝動が身体中を巡る血液に乗り、全身が今にも支配されてしまいそうだ。
どうして、こんな欲求が腹の底から湧き上がってくるのか、欠片も理解できない。だからこそ、この欲の対象である鈴が怖いと思ってしまう。
「本当に……呪われてるわね」
蓮の隣で三人の女の子たちを眺めていた撫子が、何の前触れもなくぽつりと言葉を零した。
「え……呪い……?」
またおどろおどろしい言葉が耳に飛び込んできたから、唇から零れ落ちた声は自然と震えていた。
今日、出会った少年少女たちは、これまで蓮が外で会ったことがある男の子とも女の子とも、全く違う。それは当たり前のことなのだが、八神兄妹も、不知火兄妹も、愛未も、その違いがあまりにも顕著なのだ。今のところ、撫子と誠司だけが真っ当に見える。
びくびくと言葉を復唱した蓮に、撫子はこくりと頷く。
「そう、あの子たちは呪われてるの。もちろん、私や貴女もね」
「え……」
呪われていると言い放たれ、どう反応すればいいのか、全然分からない。
呆気に取られ、ぽかんと口を開けた蓮に、撫子は怪訝そうな表情になった直後、驚いたように瞠目した。
「もしかして、蓮はお家の人から何も聞かされてないの?」
「え、え?」
本当に、もう何が何だか分からない。自分で思っていた以上に、蓮は世間知らずだったのだろうか。
返事に困った蓮がじっと見つめることしかできずにいると、撫子は深く息を吐き出した。
「……ごめんなさい。さっき私が言ったこと、忘れて」
「え」
「お家の人が話さないって決めたことを、私がべらべらと喋るわけにはいかないもの。必要に迫られたら、ちゃんと説明するから、今は忘れたことにしておきなさい。その方が、きっと貴女の身のためよ」
撫子の言葉は、やはり同い年とは思えないくらい大人びている。どうしたら、そんなにも早く成長できるのか。蓮とは比べ物にならないほど、頭の出来が良いのだろうか。
(ううん、違う……)
きっと、撫子は早く大人にならざるを得なかったのだろう。呪われているからなのか、自分と同じく呪われているという友達のためなのか、今日会ったばかりの蓮には分からないことばかりだ。
だが、ぴんと背筋をまっすぐに伸ばし、じゃれ合う友人たちを見守る撫子の姿は、素直に格好いいと思った。今すぐは無理でも、蓮も撫子みたいになりたいと、願わずにはいられない。
「……ねえ、なっちゃん」
「ん?」
鈴を真似て「なっちゃん」と呼べば、蓮から逸れていた琥珀の眼差しが戻ってきた。
「改めて、これからよろしくね。私、知らないことがいっぱいあると思うから、色々教えてください」
期待と不安を胸に、教えを乞う言葉を口にすると、撫子は幾度か目を瞬かせた後、頼もしい笑顔を向けてくれた。
「ええ、もちろんよ。こちらこそ、改めてよろしくね。蓮」




