誤算
――時間はかかったものの、和紗自身が望んだ結果、 陽平との子供を授かった。
妊娠が発覚し、子供が産まれてくるまでの二人は、本当に幸福に包まれていた。
どんな子が産まれてくるのか、産まれてきた子供にどんな名前を授けるか、幸せな悩みを抱えながらその日を迎えた。
しかし、産まれてきた子供が男児で、その顔を目の当たりにした直後、和紗は自らの誤算を自覚せざるを得なかったのだ。
あの事件以降、和紗は男性への苦手意識を払拭できなかった。特に、事件を起こした張本人である今は亡き兄と、自身の訴えに耳を貸してくれなかった父には、憎悪さえ覚えている。
でも、まさか自分と血の繋がりのある異性は全員、生理的に受け付けられなくなっていたとは思いもしなかった。
陽平のことは、家族としても異性としても愛することができた。愛する人との子供なら、さぞかし可愛いだろうと、信じて疑わなかった。
だが、夫が可愛い可愛いと頬を緩ませつつ抱き上げている子が、和紗には身の毛がよだつほどおぞましいものにしか見えない。
――愛した人との子を、自分は心から愛することができない。
残酷な現実を目の前に突きつけられた途端、和紗は自分自身に愕然とした。
愛したいのに、愛せない。この感情を、夫には知られたくない。
心優しい夫のことだ。もし、和紗の気持ちを知ってしまったら、この子を養子に出してしまうかもしれない。本当に産まれてきた子のためを思えば、そうした方が良いのだろうが、どうしても認められなかった。
産まれてきた子が、女の子だったらよかったのに。そうだったならば、何の葛藤も抱くこともなく、純粋に愛することができたはずなのに。
そこまで思考を巡らせたところで、天啓を受けたような気分になった。
そうだ、この子を女の子として育てればいいのだ。そうすれば、きっと自分は良き母親になれるはずだ。
「――ねえ、和ちゃん。この子の名前、どうしようか」
和紗の心中など知る由もない夫は、我が子を腕に抱いたまま無邪気に問うてきた。
「蓮……は、どうかしら」
一般的には男児につけられることが多いものの、どことなく中性的な響きを帯びている名だ。蓮という名の女児がいたとしても、今のご時世ではそれほど不自然ではないだろう。
「蓮……夏らしくて爽やかで、良い名前だね。――君の名前は、今日から蓮だよ。よろしくね、蓮」
妻の思惑に気づかない陽平は、相変わらず幸せそうに微笑み、腕の中にいる我が子の名を何度も呼ぶ。
息子は父親に声をかけられても気づかず、すやすやと健やかな寝息を立てている。しかし、それでも夫は満足そうに息子の顔を覗き込んでいる。
そんな幸福を絵に描いたような光景を、和紗だけが思い詰めた面持ちで眺めていた。
***
――蓮を出産してから、三年の月日が経とうとしている。
蓮に女児向けの衣服を着せてみたら、案の定、何の嫌悪感も湧かずにようやく我が子の顔をまっすぐに見ることができた。
蓮自身も特に嫌がらず、素直に女の子の服を着ているのだから、それでいいはずなのに、息子を女の子として育てると伝えてから、夫との関係はだんだんと拗れてきた。毎日、子供の教育方針でどうしても口論になってしまうから、いつからか和紗は蓮を屋敷の離れに連れていき、そこでほとんど二人きりで生活を送っていた。
時々、夫が離れに顔を出し、蓮を外に連れ出すことはあるものの、夕方、もしくは夜になれば、必ず和紗の元に戻ってくるから、咎めたことはない。別に仲が悪いわけではないのだから、父親と過ごす時間も蓮には必要だろう。
でも、夫と家庭内別居が続く状況は、予想以上に和紗には堪えた。
どうにか現状を打開できないかと頭を悩ませていた折、今年中学生になる月城家の跡取り息子である月城刀祢が、珍しい力を持つという噂を聞きつけた。なんでも、脳へと作用を及ぼす力なのだという。
かつて一縷の望みに縋り、八神家の次期当主との面会の約束を取り付けた時と同じように、和紗は形振り構わず刀祢との接触を図った。
***
挨拶もろくにしたことがない年上の人間から、急に会って話がしたいと求められたら、気味悪がられるかもしれないと思ったのだが、刀祢は拍子抜けするほどあっさりと和紗の要求に応じてくれたのだ。
ただ、その代わり、月城本家の屋敷で顔合わせをするとなると、親族があれこれとうるさいから別の場所で話を聞くという返事も一緒に、和紗の元へと届いた。
八神本家の屋敷に足を踏み入れた日を思い返せば、月城本家の面々が五家の人間の来訪を歓迎できないのは、無理からぬことだと納得できた。伊吹が八神本家の屋敷に和紗を招いたのは、単純に忙しくてなかなか時間を作れなかったからに違いない。刀祢はまだ、伊吹よりずっと自由が利く立場にいるのだろう。
和紗としても、敵の本陣の真っ只中に乗り込むような真似は、そう幾度も体験したいものではない。
だから、二つ返事で承諾すると、月城本家と八神本家のちょうど中間地点にある桜並木で落ち合おうと、刀祢が提案してきた。
***
指定された桜並木に訪れると、ちょうど桜の盛りの時期だったから、白と見紛うほどに淡い紅色の花を身に纏った木々が、和紗を出迎えた。
満開の桜は、咲き誇る傍から、はらはらと花びらを散らしていく。そして、桜の木の下には既に美しい少年が和紗の訪れを待っていた。
アイスシルバーの髪は、どことなく蓮の髪の色と似ている。肌の色も乳白色と呼ぶに相応しく、色素に乏しい。そういうところも、蓮にそっくりだ。五家と月城家は遠い親戚に当たるから、時折、どこか似通った部分を持つ子供が産まれてくるのは珍しいことではない。
だが、桜からこちらへとゆっくりと向けられた神秘的な紫の双眸や、堂々たる佇まいは、蓮とは似ても似つかない。
薄手のタートルネックニットとジーンズという大人びた服装の少年は、身体ごと和紗へと向き直った。
「――こんにちは、朝凪和紗さん。月城刀祢です」
少年の声は、年齢不相応な色香を纏っており、相手は親子ほどにも歳が離れた子供だというのに、妙に緊張してしまう。
丁寧に頭を下げた刀祢に倣い、和紗も礼儀正しくお辞儀をする。
「……こんにちは、刀祢くん。今日は時間を作ってくれて、ありがとう」
下げた頭を上げれば、ちょうど風に乗ってふわりと舞い降りてきた桜の花弁が、刀祢のアイスシルバーの髪にぴたりと張りついた。花びらも刀祢の髪も淡い色だから、互いの色が溶け合っているように見える。
髪に花びらがついていることを指摘するかどうか迷っていたら、和紗に言われる前に気づいたらしく、刀祢の長い指が自身の髪にくっついていた桜の花びらを摘まみ上げた。そして、手のひらに乗せた淡紅色の花びらを、どこか愛しそうに眺めている。
「桜の花が好きなの?」
桜の花弁を取る時の繊細な手つきや、その眼差しを目にしていたら、気づけばそんなことを口走っていた。
「ええ、好きですよ。母や大好きな子に似てるので」
好きな女の子を桜の花にたとえるなんて、目の前の少年は本当に中学生なのかと驚くのと同時に、刀祢の母親が話題に上り、複雑な心地にもなる。
刀祢の母は、朝凪家を含む五家に消えない呪いをかけた元凶だ。千年以上の月日を生き続けているにも関わらず、未だに二十歳くらいの外見だという忌むべき存在を、可憐で儚げな桜の花にたとえるとは、一体どういう神経をしているのか。
かぐやが目の前にいる少年の実母だと頭では理解していても、それでも忌々しい半神に好意的な感情など抱けるはずもない。
言葉を探しあぐねている和紗を余所に、刀祢はもう一度桜の花びらを指先で摘まみ上げたかと思えば、伏し目がちになってそっと自身の唇に押し当てた。
その直後、強い風が吹き、桜の木々がざわざわと音を立てて揺れた。しなる枝先から、淡く儚い色の花弁が舞い落ちていく。
桜吹雪の中、花びらにキスを落とす少年という、美しく幻想的で、そこはかとなく扇情的でもある光景に、咄嗟に息を呑む。
しかし、風が止むと同時に、刀祢は何事もなかったかのように、指先で摘まみ上げていた花びらにふっと息を吹きかけ、何の未練もなく手放した。そして、見る者の心を惑わしかねない紫の眼差しが、再び和紗へと注がれた。
「――それで? 僕に何の用でしょう」
小首を傾げた刀祢にそう問いかけられ、はっと正気に引き戻された。
そうだ、ぼうっと眼前に広がる現実離れした光景に見入っている場合ではない。
気を引き締め直した和紗は居住まいを正し、いつかの日のように慎重に口を開く。
「刀祢くん。……八神家と月城家の方々は特別な力を持ってるけれど、貴方はその中でも特に珍しい力を持ってると聞いたわ。それは、事実なのかしら」
「ええ、事実ですよ」
和紗の率直な問いに、刀祢は臆することなく答えた。
「その力は……脳に影響を与えるものだって聞いたけれど……たとえば、人の記憶を弄ったりとかはできるのかしら」
――刀祢が持つ能力の特性を耳にした際、もし記憶の操作が可能であれば、和紗の脳裏にいつまで経ってもこびりついて離れない、忌まわしい記憶を消し去ってもらうこともできるのではないかと思ったのだ。
もし、この記憶をなかったことにできたら、きっとありのままの蓮を愛せる。そうすれば、夫との関係も元通りになるに違いない。
期待と不安を胸に問いを重ねれば、恐ろしく澄み渡った紫の瞳が和紗をじっと凝視してきた。
そのあまりにも強い眼差しに内心たじろいでいると、やや厚みと艶のある唇から独特な色香を纏った魅惑的な声が零れ落ちてきた。




