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裏切りの片割れ月  作者: 小鈴 莉子
幕間 朝凪家
19/92

朝凪和紗

 ――朝凪和紗(かずさ)の半生は、悲惨の一言に尽きる。


 高校生になるまでは、蝶よ花よと愛でられながら育ったため、幸福な部類に入っていた。特に、実兄である和彦(かずひこ)は妹を溺愛していた。和紗も、自身を可愛がってくれる兄を慕っていた。


 だが、和彦が妹に向けていた愛情が、家族愛ではなく恋愛感情だと、誰が予想できただろう。

 いや、かぐやの呪いの影響下にある五家の人間の多くは、恋情に溺れやすく、執念深く、半神の血を求める本能故に近親者を恋愛対象として見る傾向にあるのだから、その可能性は充分考えられたはずなのだ。


 しかし、和紗は微塵もそんなことは考えていなかった。自分はそういう目で兄を見たことは一度もないし、和彦も違うだろうと、信じて疑わなかった。

 でも、和彦は妹を一人の女性として愛してしまったのだ。同時に、自分の感情が社会的に許されるものではないとも、理解していた。

 だから、和彦は自身の妹への執着を、どうにかして捨てようとしたのだ。あくまで家族として愛そうと、努力したのだ。


 だが、いつしか抑えていた激情の枷は決壊し、妹に性的虐待をするという最悪の形で発露した。

 信じていた兄に許し難い裏切りに遭った和紗は、それでも正常な判断力は失わなかった。傷つけられた尊厳を取り戻そうと、両親に兄の凶行を告発したのだ。

 しかし、両親は優秀で外面の良い息子を妄信し、娘の訴えを聞き入れなかった。あるいは、ずっと期待に応えてきた息子の裏切りを、認められなかったのかもしれない。


 でも、そこでもまた、和紗は自分がどうするべきなのか、正しく決断できた。

 きっと、強靭な精神力の持ち主だったに違いない。そして、聡明な人物でもあったのだろう。


 和紗は早々に家族を見限り、朝凪家を出た。それから、自分の足で警察に赴き、再三自身が受けた被害についての相談をしていた。

 だが、世間体を気にした朝凪家が警察に圧力をかけたため、和紗の言葉は次第にまともに取り合ってもらえなくなっていった。

 さすがの和紗も、心が折れかけたに違いない。徐々に人間不信に陥っていく。


 しかし、それでも尚、和紗は抗い続けた。実家と距離を置いたことで精神の安定をどうにか図り、高校を無事卒業し、大学にも進学した。幸い、高校は女子高だったし、進学先にも女子大を選んだ。可能な限り、自分の人生から異性の存在を排除したおかげで、深刻な事態には陥らなかった。


 でもある時、転機が訪れる。

 和紗が大学を卒業する間際、和彦が事故死したのだと、突然知らされた。婚約者である女性を同乗させた車ごと崖から転落して炎上、そのまま帰らぬ人になったのだという。


 だが、和紗は兄の死因が事故によるものだとは、欠片も信じなかった。

 元々、妹ばかり構う和彦を、婚約者は快く思っていなかった。おそらく、和紗が実家を出た後も、婚約者となった女性と良好な関係を築くことができなかったのだろう。そして、もしかしたら何らかの方法で、婚約者は和彦が過去に妹に何をしたのか、知ってしまったのかもしれない。


 だから、ただの事故ではなく、無理心中だったのではないか。

 しかし、炎上した車体からは何の証拠も発見されなかったため、二人の死はあくまで事故によるものとして片付けられた。


 あの悪魔のような兄が、この世を去った。不謹慎だと自覚しつつも、和紗は安堵せずにはいられなかった。

 でも、和紗の必死の努力を嘲笑うかのごとく、現実はいつだって無慈悲だった。五家の人間として産まれた以上、半神の呪いから真に逃れることは叶わない。


 朝凪本家は、突如として嫡男を不本意な形で失ってしまったため、唯一本家の血を引き継ぐ娘に跡取りを産ませるため、強引に家に連れ戻したのだ。

 当然、和紗は激昂した。

 今までずっと自分の言葉に耳を傾けてくれなかったくせに、一番辛かった時に助けてくれなかったくせに、見捨てたくせに、いざ長男が死んだ途端、本家の当主の座を継げとは、何様のつもりなのか。自分は、子供を産むための道具でも、家を存続させていくための歯車でもない。こんな家、なくなってしまえばいいのだ。

 思いつく限りの呪詛を吐き出した。これまで溜め込んできた恨みつらみを、容赦なく投げつけた。


 だが結局、和紗の意思は蔑ろにされた。勝手に婿養子を宛がわれ、着々と結婚の準備が進んでいく。

 だから和紗は、自らの未来を変えるため、どうにかしてこの家を取り潰す方法はないかと、模索した。そして、その過程で、幼い頃に昔話程度に聞かされていた呪いの話が本物だったのだと、思い知らされた。


 一族の歴史についてさらに詳しく調べていくと、かぐやの呪いを解くために存在する一族である、八神家と月城家が、必要に応じて五家の人間を殺害する場合もあることが、発覚したのだ。

 そのことを知るや否や、和紗は八神家の次期当主である八神伊吹との接触を図った。



 ***



 昔ながらの日本庭園が広がる八神本家の屋敷に訪れ、客間に通された和紗は、ひどく緊張していた。今は新緑の季節で、客間から見える庭の緑も目に眩しいくらい鮮やかだというのに、今の和紗にその美しさに酔いしれる余裕なんて、砂粒ほどにもない。


 五家と、八神家と月城家の関係は、決して良好なものではない。

 八神家と月城家はその成り立ちから、元は高貴な生まれでもないのにと、自分たちの祖先の所業を棚上げにした五家の人間から、度々見下されている。さらに、五家をかぐやの呪いから解放するために誕生した家だというのに、何百年もの時を経ても未だその手立てを見つけられていないことから、その傾向にますます拍車がかかっているのだ。


 八神家と月城家を呪われた道に引きずり込んだ和泉家と清水家は、比較的両家に対して友好的だが、不知火家と森家、それから和紗の生家である朝凪家は、この二つの家をとりわけ蔑視している。

 おかげで、和紗はこの屋敷に足を踏み入れてからというもの、針の筵のような視線に晒されている。それなのに、周囲を窺っても人影が見当たらないのだから、余計に恐ろしい。


(八神家の方って、人間離れした力が使えるって話だけど……本当なのかしら)


 元々祖先が山伏であり、人智の及ばない力を多少扱えたらしいが、呪いの研究に関わっていくうちに、半神であるかぐやの力を血と共に受け継ぐことに成功したのだという。個人差はあると聞いているものの、呪われているだけで特別な力を持っているわけではない五家の人間としては、そういう力を持っているというだけで、畏敬の念を抱くというものだ。


 しんと静まり返った客間で一人待たされていたら、やがて静かな足音が聞こえてきた。

 ちょうど庭に目を向けていた和紗の視界に、縁側を通って現れた八神家の次期当主の姿が映る。


 伊吹は、日本人女性にしてはすらりと背が高くて手足も長い、ほっそりとした体型の女性だ。艶やかな緑の黒髪を肩の上で切り揃え、菖蒲が描かれた品の良い若竹色の紗袷を、一分の隙もなく着こなしている姿からは、凛とした印象を受ける。

 神秘的で優美な顔がこちらへと向けられるなり、自然と和紗の肩が緊張で一際強張った。切れ長の目元はすっきりとした印象を与えるものの、それ以上に近寄り難さがある。


 しかし、緊張のあまり固まる和紗に構わず、伊吹の瑠璃色と呼んで差し支えのない深い青の眼差しは、すぐにすっと逸れた。そして、伊吹は優雅な足運びで和紗の正面まで進み、上座にそっと腰を下ろした。


「――お待たせして、申し訳ございません。和紗様。八神伊吹と申します」


 伊吹のやや薄めの形の良い唇がふっと綻んだ途端、場の空気までもが和らいだ錯覚を引き起こした。


「いいえ……こちらこそ、お忙しい中お時間を取っていただき、誠に感謝しております。……朝凪の家の、和紗と申します」


 伊吹と和紗は、これが初対面ではない。今まで、パーティーなどの社交の場で何度かその顔を見かけたことはあった。

 でも、遠くからその姿を目にしたことがあっただけで、こうして挨拶の言葉を交わすことは滅多になかった。


 伊吹と和紗が挨拶を済ませたところで、使用人の女性がお茶の用意をしてくれた。

 上品な湯呑から、湯気と共に海苔に似た独特な香りが立ち上ってきたから、玉露茶を淹れてくれたに違いない。添えられている水まんじゅうも、有名な老舗の和菓子店のものだ。

 一応、八神家より朝凪家は格が上だから、高級茶を出してくれたのか。それとも、八神家では客人にはこれくらいのもてなしは当然のことなのか。


(伊吹さんの着物、上質の絹で作られてるって、一目で分かるくらい立派なものだわ。お庭だって、朝凪の家と比べ物にならないくらい広くて、綺麗で……)


 朝凪家は、明治時代の文明開化の頃から、西洋のものを好んだと聞いている。だから、屋敷も庭園も西洋風で、身に着けるものも洋装ばかりだ。一応、和服も持っていることには持っているのだが、着る機会はほとんどない。今、和紗が身に纏っているのも、仕立てこそ良質なものではあるが、ミルキーホワイトのカシュクールワンピースだ。


 だが、家風の違いを抜きにしても、八神家の方が余程財力があるのだろう。むやみやたらに金をかけているわけではなさそうだが、屋敷も庭も手入れが行き届いており、一つ一つの仕事に丁寧さを感じさせる。 調度品や身を包むものも、品格を漂わせているものばかりだ。

 決して成金趣味に走ることはなく、誇りと伝統を重んじる意志が伝わってくる屋敷全体の空気に、思わず気圧されそうになってしまう。


「私に話があると伺いましたが……どのようなご用件でしょうか」


 使用人の女性が下がったところで、伊吹は単刀直入に問いかけてきた。場の雰囲気に呑まれかけていた和紗は、そこではっと我に返る。

 相手も忙しいのだろうが、和紗だって家族の目を盗んでここまでやって来たのだ。せっかくの機会を、無為に過ごすわけにはいかない。


 改めて居住まいを正すと、慎重に口を開く。


「実は、我が家を含む五家の歴史を調べる機会がありまして……そこで、八神家と月城家の方は、場合によっては私たち一族の人間を秘密裏に処分することもあるのだと、文献には記されていましたが……それは、本当なのでしょうか」


 伊吹は大して驚いた様子もなく、一度ゆっくりと深い青の双眸を瞬くと、静かに首肯してくれた。

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