正体
「――鈴っ!」
そして間髪入れず、いつもは清涼感のある柔らかい声が、今は切迫した響きを帯びて鈴の鼓膜を叩く。
強い力が鈴から刀祢を引き剥がしたかと思えば、伊月の背に庇われていた。
余程、急いで駆けつけてくれたのだろう。珍しく、伊月は肩で息をしていた。
「伊月……」
伊月の背を見つめているうちに、気づけば縋るような声音で名を呼んでいた。居ても立っても居られず、伊月のブレザーの裾をぎゅっと掴む。
すると、伊月は一度こちらへと振り返ってくれた。
「鈴。遅くなって、本当にごめん」
若干掠れた声で謝罪の言葉を告げると、伊月はまたすぐに前へと向き直り、刀祢と対峙した。
「兄さん……鈴にあんな真似をするなんて、どういうつもりだ」
「嫌だなあ、俺を悪者扱いするわけ?」
「とぼけるな。……鈴が行方不明になってすぐに姿を消した怪しい人間が今、鈴に接触するなんて、疑う要素しかないだろ」
「……え?」
予想だにしていなかった伊月の言葉に、鈴の口から間の抜けた声が零れ落ちていく。
(刀祢兄さんも……私がいなくなったのと同じ頃に、行方不明になってた……?)
嫌な予感が、背を伝い落ちていく。
だって、それではまるで――。
「……刀祢兄さん。あんたが鈴を誘拐したんじゃないのか」
鈴の胸に芽生えた疑惑を迷わず言葉にされ、息が止まりそうになる。伊月の制服の裾を握っていた手に、より一層力が込められていく。
「――そうだよ」
しかし、鈴の動揺を、この場に満ちている緊迫した空気を嘲笑うかのごとく、 刀祢はあっさりと認めた。
「でも、誘拐したってわけじゃあないよ。 八神の人間に頼まれて、鈴と五年間一緒にいただけだ。鈴も、ちゃんと納得した上で、ね」
まるで世間話をするような調子で続けられた言葉は、不可視の刃となって鈴の胸を切り裂く。
(八神の人に頼まれて……?)
鈴とは違い、伊月に動揺が走った様子はない。刀祢からもたらされた情報は、伊月にとって、予想の範囲内の返答だったに違いない。
それに、鈴が驚いていられたのも一瞬だけだ。すぐに納得し、衝撃を遥かに上回る悲しみがあっという間に胸中に広がっていく。
(そっか。やっぱり、私は――)
――八神家にとって、もう必要のない人間なのか。
伊月を除いた八神家の面々が、鈴の生還を歓迎していないことくらい、本家の屋敷で過ごしている間に否応なく思い知らされていた。
養父は優しくしてくれたが、結局のところ、あれは鈴への罪悪感の裏返しだったのだろう。もしかすると、罪滅ぼしのつもりだったのかもしれない。
伊月のブレザーの裾を掴んでいた手から力が抜け、だらりと垂れ下がる。掴むものを失った指先から、冷えていく錯覚を引き起こす。
唇を噛み締めて俯くと、せせら笑う声が耳朶を嬲った。
「それにしても、鈴。そうやって、その都度その都度、自分に都合の良い男の間を渡り歩くなんて、八神のばあさんに何を言われても文句言えないよ? ほんっとうに、綺麗な顔してやることはえげつないね」
そう詰られても、鈴には刀祢と一緒にいた記憶がない。そもそも、どうして刀祢と共にいることを決めたのか、その経緯さえ思い出せないのだ。だから、何も言い返すことができない。
「伊月もさ、なんでそこまでして鈴を八神の家に繋ぎ止めておくわけ? 鈴は、いらない子なんだよ? 可哀想だと思わないの?」
「……無理に繋ぎ止めてなんかいない。八神の家から、できるだけ鈴を遠ざけておくつもりだ。ただ……それでも俺は、鈴と一緒にいたい。それだけだ」
「そのためなら、鈴の意思を無視して傍に置くって? へえ……伊月って、結構いい性格してたんだ? 知らなかったなあ。ああ、ある意味鈴とお似合いなのかな?」
「どうとでも言えよ」
「――刀祢兄さん」
伊月の背に隠れるのをやめてその隣に並び立ち、鈴を置いて進められていく会話に割り込む。その直後、暗緑色の眼差しと紫の眼差しが鈴に向けられた。
「私のことは、どう言おうと兄さんの勝手だよ。刀祢兄さんの言う通り、私は何も覚えてないだけで、兄さんを傷つけたのかもしれない。もし、本当にそうなら、私のことは気が済むまで責めればいい。でも――」
ちらりと隣に立つ伊月を見遣ったものの、即座に刀祢へと視線を戻す。
「――伊月を追い詰めるような言い方はやめて。それに、私も伊月と一緒にいたい。多分……私は、伊月に会いたくてここに戻ってきたんだと思う。他のことはよく思い出せないけど……それだけは覚えてるの」
伊月に、名を呼ばれた気がした。今すぐ会いたいと願った相手は、きっと伊月だ。だから鈴は、おそらくここに戻ってこられたのだ。
「だから、もし……刀祢兄さんが伊月を敵に回すつもりなら……その時は、私は伊月の味方になって兄さんの敵になるよ。そうなったとしても、絶対にただでは転ばない。だから――」
だから――相手が誰であろうとも、伊月を傷つけるつもりならば、容赦はしない。
「――図に乗るなよ、人間風情が」
そう続けようとしたのに、鈴の唇から零れ落ちてきたのは、嘲笑交じりの言葉だった。
頭の奥がすっと冷えていき、意識が切り替わっていく感覚があった。肩から零れ落ちていた長い黒髪を、片手でさっと後ろに払う。
「……鈴?」
でも、隣から名を呼びかけられるなり、その感覚は瞬く間に霧散していく。すぐにいつもの状態に戻り、隣の伊月を仰ぎ見る。
二対の暗緑色の眼差しが絡み合うと、伊月はどこか強張っていた表情を和らげた。
「鈴……だよな?」
傍から見たら、間が抜けていることこの上ない疑問を、伊月は慎重に投げかけてきた。
二、三度瞬きを繰り返すと、鈴は伊月に向かって柔らかく微笑む。
「――うん、そうだよ。伊月」
鈴はここにいると証明するため、そっと伊月の手を握る。
「私は、ちゃんとここにいるよ」
そして、声に出してさらにその事実を強調する。
鈴のぬくもりに触れて実感が湧いてきたのか、伊月の表情がまた一段と安堵に緩み、繋いだ手をしっかりと握り返された。
「……伊月、伊月、伊月ってさあ……」
呪詛のごとく、するすると吐き出されていく言葉に、はっと正気を取り戻す。それから、素早く刀祢へと視線を動かす。
鈴と伊月を睨み据える紫の双眸からは、先刻の比ではない怒りと憎しみが、今にも溢れ出しそうになっていた。
「鈴は昔からずーっと、変わらないね。あ、小さい頃はいーくんって呼んでたんだっけ? まあ、何でもいいや」
吐き捨てるように言葉を零すと、刀称はもう一度鈴との距離を詰め、顔を覗き込んできた。
「でもね、鈴。君が八神の家にはもういらない子だってことも、変わらないからね? それに、俺が鈴をもらうって、八神の人たちと約束したんだ。だから、鈴が今さら何を言っても無駄だよ」
「――ふざけるな」
伊月と刀祢、どちらが鈴の意思を無視しているのかと思っていたら、隣から低く抑えた声が聞こえてきた。
再び隣を見上げれば、きつく眉根を寄せた伊月の、怒気を孕んだ暗緑色の瞳が、今にも刀祢を射殺さんばかりに見据えている。
「兄さん……あんたは、あんたたちは鈴を何だと思ってるんだ」
「何って……鈴は、元は俺の母親――かぐやの一部だろ。人間ですらない」
刀祢が笑みを含んだ声で提示した答えに、咄嗟に双眸を伏せる。
刀祢は、何も間違っていない。
鈴は――元々は半神であるかぐやが精神に異常を来した際に生まれた、人格の一つだ。
だが、かぐやがいらないと自身から切り離したため、本来ならば、鈴の基になった人格はその時点で消滅するはずだった。
そのはずだったのだが、かぐやから分裂し、切り離され、消えゆくはずだった人格は何百年もの時をかけ、自ら血肉を生成し、一つの生命体として復活を遂げたのだ。
それが――八神家や月城家の人間どころか、この世の誰とも血の繋がりを持たない、鈴の正体だ。他ならぬかぐや本人から、証言も得られている。
そして、刀称は――本人も言った通り、当代の月城家の当主である泰明が、かぐやに産ませた子供だ。だから、今生きている八神一族や月城一族の誰よりも、神の血を色濃く受け継いでいる。
しかし、鈴とかぐやは別個の存在であり、最早同一人物ではない。調べたところによると、鈴とかぐやは遺伝子情報が違うみたいだ。実際、血液型も異なる。
一時期、遺伝子的には鈴も刀祢の母親に該当するのではないかと思われていたのだが、検査の結果、血縁関係はなかった。
「……人間ではあるよ」
伏せていた視線を上げ、まっすぐに刀祢を見つめる。
「でも、神でもある。いや、正確にいえば……人にも神にもなりきれなかった、半端ものだ」
「おいっ……!」
「いいよ、伊月。何も言い返さなくて。事実でしょ」
溜息交じりに伊月を制し、下を向く。
言い方こそ意地が悪いものの、刀祢は事実しか口にしていない。
刀祢の言う通り、鈴は神であり、人間でもある現人神だ。どちらにも属していると言えるし、どちらにも成り損ねたとも言える、不完全な生き物だ。普段は人間性が意識の表層に出ているものの、時折、鈴の意思とは無関係に神性が引きずり出されることもある。
(それにしても……)
独特な色香を纏った魅惑的な声が紡ぐ言葉の数々は、鈴にとって気分の良いものではないものも含まれていたが、有益な情報も得られた。
神と人の子であり、不老不死の肉体を持つかぐやを殺害するという使命を帯びている八神家にとって、現人神である鈴はかぐやの命を絶つ上でその成功率を飛躍的に向上させる存在だ。だからこそ、今まで八神家の実子である伊月と同じ教育を受け、育てられてきた。それなのに、もういらないというのは不自然だ。
そうなると、考えられる可能性として挙げられるのは、八神家に置いておく必要がないほど、今の鈴はかぐやと互角に渡り合えるか、もしくはそれ以上の成果を出せると見込まれている状態にあるということだ。
仮にそうだとすれば、五年もの間、刀祢と共に鈴が失踪していたことにも説明がつく。
おそらくは、その空白の五年間で、鈴はかぐやを殺戮する準備をしていたに違いない。そして、きっとこれまで伊月と一緒に積み重ねてきた修業とは違い、もっと過酷なものだったのだろう。 八神一族が刀祢に頼み、鈴も了承した案件なんて、そのくらいしか思いつかない。
伊月曰く、八神家の人間は鈴の捜索に積極的に乗り出さなかったばかりか、警察に圧力をかけて捜査を打ち切らせたというが、そういう事情が絡んでいたのだとすれば、その行動にも納得がいく。
八神家の人間が伊月にその情報を隠匿していたのは、正直に事情を打ち明ければ、かぐや殺害を阻止される危険性が高かったからに違いない。
八神家にとって、かぐやの息の根を止めるという使命は、絶対だ。八神家で育てられた鈴も、例外ではない。命ある限り、義務として課せられている。
でも、鈴はかぐやとの繋がりが強い。仮にかぐやの命を奪うことに成功したら、存在の消滅に繋がるかもしれないのだ。鈴がこの世から消えるリスクが付き纏う行為の後押しなど、伊月にはできないだろう。
だが、これはあくまで鈴の推測に過ぎない。そこまで大きく予測が外れているとも思えないが、確証があるわけでもない。
――今ここで確かめれば、刀祢は正直に答えてくれるだろうか。
そこまで考えたところで、ふと強い視線を感じた。




