第五話 夕風の恋人
第五話 夕風の恋人
世界に風の神々は数多いるが、夕風の神ほど美しい神は他にはおらぬ。夕風の神ほど命はかない神もまたおらぬ。
陽が傾き、空が紅に染まりかけるころ、夕風の神は生を受ける。そうして夕暮れのひとときを生き、あたりが闇にとざされるころ、そのはかない生涯を終える。だが、次の日、空が赤く染まるころ、夕風の神はまた生まれてくる。
前日とまったく同じ夕闇の色の髪。美女とみまごうはかなげな面差しも夕闇の色の瞳も同じなら、夕闇の色の衣も同じ。性質もしぐさもまた同じ。だが、前日の記憶を持ってはおらぬ。ただ、本能のごとく、自分が夕風の神であり、夕方しか生きられぬことを知っている。それは、前の日に生きた夕風の神と同じ神とも言えたし、また別の神とも言えた。
夕風の神は生まれ落ちるとすぐに地上に降りる。兄や姉の神々とつかのま語らうことはあっても、長くともにいることはない。
地上を歩く夕風の神の姿は、夕闇に溶け込みそうないでたちにひそやかな物腰ながら、ただの旅人とは見えぬ神秘的な雰囲気のゆえに人目を引いた。ある者は幻かと目をこすり、ある者は人ならぬ存在と悟って近づくのをはばかった。
だが、ごくまれに、炎に惹かれる蛾のごとく、神の美貌に惹かれて近づく者もいた。フィゼルもそんなひとりであった。
フィゼルは好奇心が強くて大胆な娘で、夕風の神をひとめ見ると、目をそらすことができなくなくなった。こんな美しい若者をいちどとして見たことがない。村の若者にはだれにも惹かれたことのないフィゼルだったが、夕風の神にはひとめで恋におちた。
「どちらへ行かれますの?」
フィゼルの問いに、夕風の神はまっすぐ前方を指差した。
「あちらへ」
「行く先を聞いていますのよ。どちらの村へ行かれますの?」
「さあ」
夕風の神は首をかしげた。ほんとうに知らなかったからだ。
「行けるところまで」
「お急ぎですの?」
「いいや」
「では、わたしといっしょにきてくださいませんか」
フィゼルは手をさしのべ、夕風の神はその手を取った。何も尋ねなければ、ためらいもせぬ。ひよこが親鳥について歩くように、神は娘についていった。
娘は野を横切り、林を抜け、小さな湖の畔にと神をいざなった。
「お名前は何とおっしゃいます?」
「夕風の神」
フィゼルは笑った。本気にしてはいなかった。
「大胆な方ね。神さまに叱られますわよ」
夕風の神は、フィゼルの言っている意味がわからなかった。ただ、娘が楽しそうに笑っているのを見てまねをした。
フィゼルは、この美しい若者がますます気に入った。神を冗談の種にするとは、小心な村の若者たちとはなんという違いだろう。
娘は草の上に腰をおろし、隣にすわるよう、若者を促した。美しい若者の顔をほれぼれと眺めると、夕闇の色の髪に手をのばす。
「ふしぎな色の髪ね。こんな髪の人、見たことないわ」
小さな子供が親の真似をするように、夕風の神はフィゼルの真似をして、娘の茶色の髪に手をのばした。フィゼルが夕闇色の髪をなでると、神も娘の髪をなで、娘が手にした髪に口づけると、神も同じようにした。
フィゼルは夕闇色の髪から手を離し、神の白い頬に触れた。神も真似をして、娘の陽に焼けた頬に触れる。
「あなたの肌はずいぶん白いのね」
夕闇に消え入りそうなほど繊細な輪郭をいとおしげになぞりながら、フィゼルが言った。
「それに、亦ちゃんの肌より柔らかくてきれいだわ。まるで、真昼の太陽に焼かれたことがないみたい」
「真昼は知らない。太陽はわたしの父なのだが」
よく意味のわからない冗談だと思いながらも、最高神たる太陽をも畏れぬ若者の大胆さが好ましくて、フィゼルは微笑んだ。それを見て、神も微笑を返す。
美しい微笑に引き込まれるように、フィゼルは腰を浮かせて顔を近づけ、色素の薄い唇の上に口づけした。しばらくそうしてから身を放し、美しい顔に怒りやとまどいが浮かんではいまいかと、おそるおそるのぞきこんだ。
神にはフィゼルの行為の意味はまったくわからなかったが、今までと同じように真似をした。顔を近づけて唇を重ねると、娘の顔をのぞきこむ。
真似をしてみせただけだとは、フィゼルには思いもよらぬ。相手も積極的なことに勇気づけられて、フィゼルは神の白い手を取り、自分の胸元、衣服の下へと導いた。夕風の神は、フィゼルに導かれるまま、草の上に娘と折り重なるように横たわり、彼女が望むとおりのことをした。神にはわけのわからぬことだったが、気にしてはいなかった。
それからどのぐらい、抱き合ったまま横たわっていたろうか。幸福に酔いしれ、まどろんでいたフィゼルは、ふと肌寒さを感じて目を覚ました。いつのまにか日はとっぶりと暮れ、美しい恋人の姿はどこにも見当たらぬ。
「薄情な方。黙っていっておしまいになるなんて」
夜の訪れとともに神の命が絶え、夜闇の中に消えていったことなど、フィゼルが知ろうはずはない。恋人の冷たさを思って、フィゼルは泣いた。
そのあと長いあいだ、夕風の神がフィゼルの村の近くを通りかかることはなかった。夕風の神が地上に降り立つ場所は決まっておらず、歩く道筋も決まっていないゆえ、広い地上でたまたま同じ場所を通りかかるということは、そうしょっちゅうあることではなかったのだ。
毎夕生まれ変わる夕風の神は、むろんフィゼルのことなど覚えてはおらぬ。フィゼルのひとときの恋人であった夕風の神と、新たに生まれ変わった夕風の神とでは、同じ神にして別の生を持つ別の神でもあったのだから、当然のことだった。
だが、フィゼルのほうは、ひとときの恋人であった美しい若者のことを忘れることができなかった。村の男たちからの求愛はすべてはねつけ、夕刻になると、かの美しい人がふたたび通りかからぬものかと、かつて恋人と出会った村はずれをさまよい歩いたり、湖の畔にたたずんだりした。
そうして何日、何十日が過ぎたろうか。ある日、フィゼルは、ふたたび恋しい人の姿を目にした。前と同じ夕闇色の髪に夕闇色の衣。だが、声をかけることはできなかった。顔なじみの村娘が、かの人の腕に自分の腕をからませ、べったり寄りそって歩いていたからだ。
ふたりはフィゼルのすぐ前を通りすぎた。フィゼルの姿に気づいた娘は、誇らしそうな笑顔を向けると、ますますべったりと連れの腕に寄りかかった。
夕風の神もフィゼルの方をゆっくりとふり返る。美しい面がこちらを向くのを、フィゼルは期待を込めて見守った。
(わたしを見て。そうしたら、こんな娘なんて放りだして、わたしの方にきてくれるわね)
だが、フィゼルの期待は裏切られた。ふり向いたかつての恋人の表情には、再会の喜びも、驚きも、他の娘に目移りしたうしろめたさも認められなかった。ただ、行きずりの見知らぬ人に向けるような視線を投げかけただけだった。
最悪の反応に、フィゼルは凍りつき、茫然とふたりを見送った。
それからもフィゼルは、何度か夕風の神の姿を見かけた。かつての恋人は、たいていだれかといっしょだった。娘のこともあれば、若者のこともあった。もっと年のいった男や女のこともあった。べたべた寄り添っている者もいたし、つつましやかに隣を歩いている者もいた。
夕風の神と出会うたび、フィゼルの胸は高鳴ったが、もういちど話しかけようとは思わなかった。彼がひとりでいるときでさえ、話しかける気にはなれなかった。
かつての恋人は、そしらぬふりをするぐらいならまだしも、まったく彼女のことを覚えていないように見える。そんな冷淡な男に泣いてすがったり怒ったりするのは、彼女の誇りが許さなかった。
だが、ある日の夕暮れ、ついにフィゼルの憤りは頂点に達した。よりによって、かつてふたりで過ごした思い出の湖の畔で、夕闇色の髪の美しい若者が村の若者とともに横たわり、かつてフィゼルにしたのと同じようなことをしているのを目にすると、見て見ぬふりはできなくなった。
フィゼルが息を詰めて見つめていると、やがてふたりは並んで横たわったまま動かなくなった。フィゼルはふたりに近寄った。村の若者は寝息を立てていたが、夕闇色の髪の若者は眠ってはいなかった。
夕風の神は身を起こし、フィゼルを見つめた。繊細な面立ちと神秘的な夕闇の瞳の美しさは記憶にある以上だった。思うさま罵り、頬の一つもぶってやろうと、怒りにまかせて近づいたフィゼルだが、いざ間近にすると、罵りの言葉は声にはならなかった。目の前の若者はあまりに美しすぎ、神秘的すぎて、いかなる罵倒の言葉も似つかわしくないように思え、怒りさえもが萎えしぼんだ。罵りの代わりに、自分でも思ってもいなかった言葉が口をついて出た。
「わたしは美しい?」
「美しい」
ためらうことなく、夕風の神は答えた。
とはいえ、夕風の神は、フィゼルの意味するところをほんとうに理解したわけではない。ひとときの命しか持たず、ひとときの記憶しか持たぬ夕風の神には、その短い生のあいだに出会う人間の数は限られている。ゆえに、人間の美醜の規準を知らぬ。まして、神に人間の美醜はたいして意味を持たなかった。
だが、夕風の神は、短いがゆえに己れの生を愛していた。短い生のあいだに出会うすべてのものを愛していた。そして、傍らに眠っている最初に出会った人間は、夕風の神を美しいと誉めたたえ、幸福そうに微笑んだ。ゆえに神は、幸せなことを人間は「美しい」と表現するのだろうと思っていたのである。
「わたしを愛している?」フィゼルがさらにたずねた。
「愛している」
彼女がたずねたのと同じ意味においてではなかったが、ベつに偽りではなかった。
「では、その人は?」フィゼルは、神の傍らに眠る若者を指さした。
「愛していない?」
「愛している」娘の問いの真の意味がわからぬまま、神は答えた。
フィゼルは顔を赤らめた。怒りよりもむしろ、屈辱のゆえだった。
「わたしよりも?」
意味がわからず、神は首をかしげた。
娘はますます顔を赤らめ、衝動的に衣をその場に脱ぎ捨てた。
「このわたしとその人と、同じほどの魅力しかないの? わたしの方が美しいとは思わないの」
黄昏のおぼろな光の中に均整のとれた裸身を惜しげもなくさらし、フィゼルは神の手をとった。
「ほんとうに覚えていないの? わたしのことを?」
フィゼルは神の手をおのが唇にあて、それから胸のふくらみに押しあてた。
「ここでわたしと過ごしたことも?」
娘の言うことは神には理解できなかったが、望むところは理解した。きょう生まれて最初に出会った人間とのかかわりから、夕風の神は、人間が神に求めるものを、彼なりにわかったと思っていた。
そこで、夕風の神は、フィゼルを抱き寄せ、先に出会った若者にしたのと同じことをした。
その物音で、眠っていた村の若者が目を覚ました。目の前に繰り広げられる光景に、若者は驚き、つづいて腹を立てた。
若者とフィゼルは互いに罵りあい、どちらを選ぶのかと、夕風の神に詰め寄った。
そうしているうちにも、太陽は地平線の下へと沈んでいく。夕風の神は、短い夕刻の終わりを悟って静かに目を閉じた。
太陽が完全に没し、最後の光が失われるとき、夕風の神はその場にくずおれた。驚いて抱きとめた若者と娘の腕のなかで、神は、闇の中に溶け込むようにして消え去った。
フィゼルと若者は、茫然とその場に立ちつくした。日が沈んだとはいえ、月明りで間近のものなら見える。美しい恋人が、どこかへ立ち去ったのではなく、ほんとうにかき消えたことははっきりしていた。
そうして、そのときになってはじめて、恋仇の男女は悟ったのだった。自分たちの争いの的であった美しい恋人は、ほんとうに神、夕風の神だったのだ、と。
それからほどなく、若者とフィゼルは結婚した。あの夜、ふたりが愕然と立ちつくしているときにたまたま通りかかった村人が、ふたりの仲を誤解して、村の噂になったゆえでもあったし、互いに、美しい恋人のことを忘れたいがゆえでもあった。
まもなく、ふたりのあいだに男の子が生まれた。茶色の髪と茶色の瞳は母親譲りだったが、はかなげで美しい顔立ちは、父親にも母親にも似ていなかった。成長していくにつれ、ますますそれがはっきりしていった。
この子は道で目にした美しい旅人に似ている。村人たちの中に、そう言いだす者がいた。不義の子、といっとき噂が流れたが、すぐに立ち消えた。興味本位の噂など、このやさしく美しい子供には似つかわしくない。村人すべてにそう思わせるものが、少年にはあった。
そのうえ、よくない噂を否定するかのように、少年の父親はこよなく息子を愛していた。母親は言うまでもなかった。夫婦は掌中の玉のように息子を慈しみ、息子が遊びに熱中するあまり日が暮れても帰らないことでもあれば、はたで見ていておかしいほどに心配した。
村人の幾人かは、息子が闇の中に溶けて消えるとでも思っているのかと、失笑した。ほんとうに両親がその通りのことを恐れているのだと、わかるはずはなかった。一家の仲むつまじさを、村人たちはうらやみ、ほほえましく思っていた。仲のよい父子、仲のよい母子、仲のよい夫婦。たしかにその通りであったから、美しい少年の両親の心の奥深く、つねの夫婦、つねの親とは異なる感情が秘められていることに気づいた村人は、ついにひとりもいなかった。
この話で最後です。全部読んでくださった皆様、ありがとうございました。