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今はもう失われた民の神話  作者: 立川みどり
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第三話 大風神殿

   第三話 大風神殿


 太陽の神と大気の女神は夫婦だった。大気の女神のかぐわしい体内に、太陽の神の光が矢のごとくふりそそぐと、女神は風の神々を産みおとす。

 父神と母神の命は永遠だったが、子神たちは短命だった。そのかわり、風の神々は死してもまた生まれ変わった。神々といえども、生まれ変わるときには前世の記憶を失い、赤子同然の心で生まれてくるのだが、それでも前世と同じ容姿、同じ性質を持っているゆえ、親神たちは風たちの死を毎回それほど嘆かずにすんでいた。

 風の神々のうちで、もっとも雄々しく猛々しいのは大風の神だった。やさしい春風の女神はやわらかな声で大風の神を賛美した。つかのまの命しか持たぬ美しくはかなげな夕風の神は、たくましい兄神にあこがれの目を向けた。ほかの兄弟姉妹の神々も、大風の神を崇拝し、あるいは畏怖していた。

 大風の神は、生まれてこのかた地上に降りたことがなかった。母なる大気の女神がいやがるゆえであった。

 だが、地上に降りた春風の女神はうららかな春の情景を語り、秋風の神はものさびしげな秋の風景を語った。北風の神は雪原の中で生きる人々について語り、南風の女神は常夏の地に生きる情熱的な人々についで語った。夕風の神や夜風の女神は、はかない命しか持たぬゆえに語ることは少なかったが、それでも、短い生涯のほとんどを地上で過ごすことに満足しているようだった。

 そんな兄弟姉妹の神々のさまを見て、大風の神は地上への好奇心を抑えがたくなり、あるときついに、天より下ろうと決心した。

「大風の神よ。どうか地上に降りるのはやめておくれ」 大気の女神が懇願した。

「母上、どうしてそんなに反対なさるのです? 兄弟の神や姉妹の女神たちは、みんな地上に降りていくではありませんか。母上はそれに反対なさったことはない。どうしてわたしに限って天上に引き止めたがるのですか」

「それは、大風の神、そなたが地上に降りれば大地の上に大風が吹きます。大地に住む生き物たちはそなたを恐れています」

 いつもならここで、大風の神は引き下がるのだが、今回はいつになく執拗だった。

「だからどうだというのです? 北風の神が地上に降りれば寒すぎる風が吹くし、南風の女神が地上に降りれば暑すぎる風が吹く。どちらも地上の生き物たちに好かれているわけではないのでしょう? それでも母上は、彼らが地上に降りることに反対なさらないではありませんか」

「大風の神、そなたの場合は特別なのです」

「どうしてですか。大風が吹いたからといって、地上の生き物たちが死に絶えるわけではない。だいいち、わたしたちはみな、大地の上を吹きすぎるために生まれたようなものではありませんか。天上にずっと留まるのは、わたしの持って生まれた性質に反しています」

「いとしい息子よ、そなたにとって、地上はきわめて危険なのですよ」

 母神の思いがけない言葉に、大風の神は驚き、腹を立てた。

「危険ですって? 兄弟姉妹のだれよりも強いこのわたしが? 春風の女神や夕風の神、夜風の女神などは、わたしよりはるかにか弱いけれど、平気で降りていくではありませんか」

「そなたにとって特別に危険なのです。お願いだから、このまま天上にいておくれ」

「いいえ、そうと聞いては、なおさら行かずにはおれません。兄弟姉妹のうちでわたしだけが危険を恐れて天上に留まるなど、わたしの誇りが許しません」

 大風の神の言葉に、大気の女神はついに折れた。

「そなたは何度生まれ変わっても、同じことを言うのですね。それほどまでに言うのなら、もう止めはしませぬ。そのかわり、これだけは忘れないでおくれ。そなたは大風の神。ゆえに大風の吹けぬ場所では生きられぬ。それに、人間の住処には近づかないで。とくに神殿には絶対に近づいてはなりません」

「どうしてですか」

「理由は言えません。地上の生き物たちの行いによけいな手出しをしないと、大地の女神と誓約を交わしているのです。だから、何も聞かずに約束しておくれ」

「わかりました、母上。約束します」

 そうして大風の神は地上に降りていった。


 最初のうち、大風の神は、母女神との約束どおり、人間の住む場所には近寄らなかった。無人の島々や砂漠、荒野ばかりを選んで旅した。だが、すぐに飽きて、人里をのぞいてみたくなった。

「たしかに母上は、人の住処に近づくなとおっしゃった。だが母上は心配性なのだ。言われるままに人の住処を避けたりしては、まるでわたしが臆病者のようではないか」

 そこで大風の神は、人間の住む町へと向かった。

 大風の神は、人間の目にはたくましく美しい若者の姿と映った。だが、その若者が近づくとともに大風が吹きはじめたゆえ、大風の神であることはすぐに知れた。

 人々は恐れて家にひきこもり、美しい少年少女の一団だけが大風の神に近づいてきた。なかでもひときわ美しい少女が、大風の神の前に進み出ると、深々とおじぎして奏上する。

「大風の神さま、お待ち申しておりました」

 歓迎の言葉に、大風の神は驚いた。人間は大風をきらっているのではなかったか。

「そちたちは何者か?」

「あなたさまのしもべにございます」

「わたしのしもべ?」

「はい。わたしはしもべの長、イーベと申します。どうぞお見知りおきくだされませ」

 イーべは大風の神に手を差しのべ、崇拝に満ちた瞳で神を見つめた。

「宴の用意ができております。どうぞいらせられませ」

 イーベに手を取られ、少年少女たちに取り巻かれて、大風の神は導かれるままについていった。

一団は町を出て、荒野へと出ていく。

「いったいどこに連れていく気だ?」

「風の神さま方をお祭りする神殿にございます」

「神殿だと。神殿にだけは近づくなと、母上に言われてきたのだが」

「まあ、なぜでございますか。あなたさま方を崇め敬う場所でございますのに」

 大風の神を見上げるイーベの瞳は無邪気そのもの。一片の悪意も認められない。

「その神殿は遠いのかJ

「さほど遠くはありませぬ」

 そうするうちに、民家ほどの大きさの石造りの建物が見えてきた。

「あれがそうか?」

「ええ、あれも神殿のひとつ。ですが、春風の女神さまをお祭りする春風神殿にございます」

 春風神殿の向こうにも、同じような小さな神殿がある。

「では、あれか?」

「あれは北風の神さまをお祭りする北風神殿にございます」

 北風神殿の向こうにもまた小さな神殿があり、その向こうにも同じような神殿があった。そこかしこに小さな神殿が点在していたが、いずれも大風の神の神殿ではなかった。

「わたしの神殿はどこにあるのだ?」

「いちばん奥にあるのです。もうすぐ見えてまいります」

 まもなく行く手に、今までの神殿のどれよりも大きな神殿が見えてきた。

「大風の神さま、あれがあなたさまをお祭りする大風神殿にございます」

 他の神殿の倍以上の高さ。倍以上の間口。使われている石材はどの神殿よりも白く美しく、石壁の浮き彫りはどの神殿のものよりも手が込み、豪華だった。そして、かたく扉の閉ぎされた他の神殿とは違い、扉が左右に開かれている。

「ずいぶんりっばな神殿ではないか」

「あなたさまは、風の神さま方の中でもとりわけ偉大なお方であらせられますゆえ」

 神殿の中には、数々の料理が並び、宴の準備がなされていた。

 大風の神はイーベに導かれていちばん奥の席につき、そのすぐ右隣にイーべが座した。

「大風の神さま、あなたさまのしもべの中にお気に召したる者があらば、そちらに座らせておもてなしさせましょう。わたくしよりもお気に召したる者があらば、この席を替わりましておもてなしさせましょう」

「わたしはそちが気に入っておるゆえ、そこにおるがよい。他の者もみな同じように気に入っておるゆえ、だれでもわたしの左の席にくるがよい」

 大風の神はおおらかで公平な性質であったから、崇拝の目を向ける少年少女たちをだれひとりとして拒むつもりはなかった。まして、見目よい少年少女たちばかりとあらば、なおのこと。大風の神はしもべたる少年少女たちを等しく気に入り、彼らの奉仕を等しく受け入れた。

 イーペをはじめとする美しいしもべたちは、大風の神に酒を注ぎ、料理を勧めた。ある者は神のために歌い、ある者は踊って見せた。大風の神は大いに楽しみ、満足した。

大風の神が酒に心地よく酔い、満腹して眠気をもよおしかけたころ、しもべの少年少女たちは踊りながらさりげなく戸口に移動していった。大風の神がふと気がつくと、それまでかたわらに侍っていたしもべたちは、いつのまにかひとり残らず踊り手たちの中に加わっている。ずっと神の隣にいたイーベまでが、踊り手たちの最後になり、戸口に向かって遠ざかっていく。

 異変を悟って、大風の神は立ち上がった。しもべたちは踊りながら次々と神殿の外に出て行き、神は戸口へと走り急いだ。

 神殿の扉は左右からゆっくりと閉まりはじめ、最後にイーベが踊り出ようとする。そのイーベの右腕を、ついに追いついた神が捕らえた。

 イーベは狼狽し、ためらった。が、それは瞬きするほどのあいだのことだった。大風の神のしもべに選ばれし者として、扉が閉ざされる前に神に引き止められたときの心得を、イーベはよく言い聞かされていた。大風の神を祭る宴の終わりに、しもべが神に引き止められることは、ごくまれなこととはいえ、これが初めてではなかったのだ。

 かねて教えられていたとおり、イーベは大風の神の胸に飛び込んだ。まるで恋人の胸に飛び込む乙女のように。

 だが、イーベには思いもよらぬことだったが、大風の神は、なにも彼女を引き止めようとしたわけではなかった。少女を捕まえれば、扉は閉ぎされぬと思ったのだ。

 そんな思惑に反して、少女に体当りされたいきおいで思わず足を止めた大風の神の目の前で、神殿の扉は閉ざされた。

 大風の神はイーベを突き飛ばし、扉を押し開けようとした。だが、扉はかたく閉ざされ、たくましい大風の神の力をもってしても開かない。渾身の力で押しつづけているうちに、いつしか大風の神は力が萎え、その場に膝をつき、ついに扉を背にして座り込んだ。

 力が萎えたのは、扉を押し疲れたためだけではなかった。真に神の力が抜け落ち弱まっていた。

 大風の神は大風の吹けぬ場所では生きられぬ。大気の女神の警告を、大風の神は思い出した。閉ざされた室内では大風など吹けるはずはなく、大風の神の命は尽きようとしていたのだ。

 力なく座る大風の神のかたわらに、イーベはそっと身をかがめ、声をかけた。

「お席に戻られますか」

「よくもだましたな」

 うなるような神の声に、イーベはとまどい、ためらいがちに神の機嫌を取ろうとした。

「お酒をお持ちしましょうか? それとも、くだものでも?」

 何とたずねても神は不快げで、イーベは困惑した。神のこんな反応は予期していなかった。神は宴にいたく満足し、大いに楽しんでいたようなのに、どうして今はこんなに不快げなのか。大風の神のおかれた状況を、イーベはまったく理解していなかった。

 大風の神には満足していただかねばならぬ。お祭り申し上げねばならぬ。ゆえに、もしも宴の終わりに神に引き止められたならば、神が満足なさるよう、さらに心を込めて接待申し上げるように。イーベはそう教えられていたのだが、どこやら悲しげな神の姿を見ると、宴のときとは勝手が違う。どうしていいのかわからず、イーベはただじっと神を見つめた。

 たいまつの明りの中で、大風の神は美しかった。宴の席で豪放に笑いころげる姿も美しかったが、無言で目の前の少女を見上げる姿には、また別の美しさがあった。とりわけ、神の瞳の強い輝きにイーベは魅せられた。手負いの猛獣が猟師に向けるのとよく似た瞳だったのだが、そんな連想はイーベの頭には浮かばなかった。

 大風の神の澄んだ瞳に魅せられて、イーベは、神を満足させるすべを悟った。少なくとも本人はそう信じた。

 イーベは立ち上がると、装身具をはずし、衣の肩紐と飾り帯を解いた。衣がするりと少女の足元にすべり落ちる。

 宴のときならば、大風の神は、明りにほのかに浮かび上がる少女の裸身を、あるいは美しいと思ったやも知れぬ。だが今は、猟師に向ける傷ついた猛獣のごとき瞳でイーベを見上げるばかりだった。

 イーベは大風の神のかたわらに膝をつき、神の胸の上によりかかった。神はたくましい腕をたおやかな少女の背にまわした。

 大風の神につねの力が残っていたなら、怒りのあまり少女のか細い胴を締め、背骨をへし折っていたに違いない。事実、そうして命を落としたしもべの少女が過去にひとりならずいたのだが、それはイーベの知るよしもないことだった。

 イーベにとっては幸運なこと、大風の神にとっては不幸なことに、神にはもはや、少女の体をへし折るだけの力は残っておらず、ただきつく抱きしめるだけに終わってしまった。

 先ほどのようにつき飛ばされず、抱きしめられたことに、イーベは安堵した。しもべの行為を神が喜んでいるのだと、完全に誤解していた。

 ほどなくして、神の腕の力が抜け、両のまぶたが閉ざされた。神は満足して安らいでいるのだと、イーベは信じて疑わなかった。神の命が尽きかけようとしていることを知らぬがゆえであったが、仮に知ったとしても、同じことであったろう。

 大風の神は、またいつか帰ってくる。神自身にすればそれはまた別の生涯であるのだが、人間の目から見れば不死と同じことだった。

 まもなく神の命は尽き、大気の中に溶け込み消えていった。ひとり残されたイーベは、ふたたび衣を身につけると、扉ごしに呼びかけた。

「神官さま。どなたかそこにおられますか」

 扉の向こうから返事があった。

「イーベや、大風の神さまはお戻りになられたか」

「はい。お戻りになられました」

 扉が開かれ、大風神殿の神官たちと神鎮めのしもべを務めた少年少女たちが、しもべの長を務めた少女を出迎えた。

 イーベは神官におじぎをすると、正式に報告した。

「大風の神さまは祭に満足なされ、滞りなく天にお戻りになられましてございます」

 イーベの表情はこのうえなく晴れやかで誇らしげだった。神鎮めのしもべを滞りなく務めるのは、年ごろの少年少女たちにとっては名誉なことであり、しもべの長を務めおおせるのはさらなる名誉。そのうえ、大風の神に気に入られて引き止められたのは、最高の栄誉であった。

 大任を終えた少女を祝福しねぎらう人々の上に、小雨が降りだした。大風の神を祭った後には、なぜかいつも小雨が降る。

 人間たちには知るよしもなかったが、それは大気の女神の涙だった。大風の神より命短い風の神はいくらもあったが、自然の寿命を待たずに命を落とすのは大風の神ぐらいのもの。ゆえに、大気の女神は嘆かずにはいられない。

 とはいえ、嘆きは一時のこと。大風の神はすぐにまた生まれてくる。そうしてまた、人間たちの祭に誘われ、命を終えることだろう。


じつは、この創作神話の5つの話の中で、最初に思いついたのはこの話。九州のどこかの神社で台風の神様を鎮めるお祭りがあるという記事を何かの本で読んだあと、古代オリエント風異世界で、なまめかしい雰囲気で、風の神様を封じ込めるお祭りがあったとしたら……と空想しているうちに、こういう話ができ、ほかの4つの話も次々に思いついたのです。

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