第三話 アルタイルの苦悩
一週間が過ぎた頃には、アルタイルもスピカやカストルとの生活に慣れつつあった。
初めのうちは食卓に並ぶ料理に毎回驚きを隠せなかったが、その感動も時間と共に落ち着いていった。とはいえ、毎日腹一杯美味しい料理を食べられて、温かいベッドで眠りについたこの七日間は、間違いなくアルタイルの人生で一番充実した時間だった。
そんなある日の夜、アルタイルは夢を見ていた。アルタイルがカストルに拾われる前の記憶。
その日も一日中食べられるものを探して街を彷徨っていた。夏の炎天下に晒され、意識も朦朧としてきつつあり、判断力は著しく低下していた。
喉の渇きと空腹感が際限なく押し寄せてきていた。
歩き疲れ、影が差した道の端に腰を下ろしていると、対面の道を氷菓子の移動式屋台が通っていくのが目に入った。
しばらくそれを目で追っていると、自分と同じくらいの年頃の子供が母親と一緒にその氷菓子を買っていった。
美味しそうに氷菓子を頬張る子供の姿を見て、少年は苛立ちを感じた。
自分ばかりが辛い目に遭う現実が憎い。なんの苦労もせず欲しいものを易々と手に入れる子供が憎い。
考えれば考えるほど、少年の心は曇ってゆくばかりだった。
熱に冒された少年に悪魔が囁く。
欲しいなら奪えばいい。買えないのなら盗めばいい。
普段なら盗みは失敗したときのリスクの高さからしようとはしない。だが、判断力の鈍った今、盗むということになんの躊躇いも生まれなかった。
少年は、氷菓子を手に持つ子供に向かって走り出した。
一歩一歩と距離は縮まり、遂には氷菓子が手に届くほどまで迫っていた。
子供が酷く怯えた顔をしているのが見える。母親が驚き固まっているのをよそに、少年は子供が手に持っていた氷菓子を強引に奪い取った。そのまま逃げ去ろうとすると、子供は咄嗟に少年の裾を掴んでいた。
「な、なんだよ!やめろよ!」
少年は勢いよく振り返り、子供を睨み付ける。口元からダラダラと涎を垂らし、目元にはきつく皺が寄せられていた。子供を鋭く見据える血のように真っ赤な瞳は、まるで腹を空かせた鬼のようだった。
「ひっ、ば、化け物……」
睨みつけられた子供は硬直していた。
少年が掴まれた裾を離させようと無理矢理身体を振ると、子供は勢いよく地面に頭を打ち付けて倒れた。
少年は振り向くことなく走り出した。流れゆく街を横目に、少年は走り続けた。背後の方で女性の甲高い悲鳴が聞こえたが、少年が振り返ることはなかった。
布団を跳ね除けて目が覚めた。
見ると、アルタイルの衣服は脂汗でぐっしょりと濡れていた。
あたりを見回すと、隣のベッドでスピカが静かに寝息を立てていた。嫌な夢を見ていた、と理解し、少しずつアルタイルの気持ちは落ち着いていった。
冷静になり、夢で見た過去の出来事について思い出す。
――あの子供は、どうなったんだろう。
強く頭を地面に打ち付けていた、下手をすると、あのまま死んでしまったのではなかろうか。知らぬ間に自分は人を殺してしまったのではないだろうか。
言い知れぬ不安感がアルタイルを襲った。
自分の体温で温めた布団の熱がじんわりと手に伝わる。
寒い冬の日には有難いその暖かさは、今のアルタイルにとっては熱過ぎた。
自分の右手に視線を落とす。
――あの時、もしあの子供を殺してしまっていたのなら、僕は今後もスピカの隣で笑っていていいの、かな。
今も隣で幸せそうに眠っているスピカを見ていると、アルタイルは自分がこれまでしてきたことが許容された現状に罪悪感を抱きつつあった。
――よくない、よね。
アルタイルは自分の心が冷えていくのを感じた。
優しく接してくれる相手は、自分の犯した罪を知らないだけで、自分の罪を許してくれたわけではない。
結局、幾ら人の温かみに触れたところで、人間性が一瞬のうちに変貌し真人間になることはできない。
人間という生き物はそんなに簡単に変われる生き物では無いのだと、アルタイルは心のどこかで理解していた。
――一緒にいると、きっといつかスピカやカストルさんを傷つけてしまう。
夢で見たこと以外にも、アルタイルは人を傷つけた経験が何度かあった。
次に傷つける相手がスピカやカストルになってしまうことを、アルタイルは恐れていた。
――出て行こう、ここは僕の居ていい場所じゃない。
アルタイルはベッドからそっと抜け出し立ち上がった。
寝ているスピカを起こすまいと、足音を立てず、息を殺して寝室を出ると、ぼんやりと光る灯りが目に入った。
「おや、アルタイル君、どうかしましたか?」
ランプの灯りに照らされたカストルの顔は、初めて出会った時のように微笑んでいた。
「あ、えっと......ちょっと、トイレに……」
カストルは微笑みを崩さず、
「そうですか。気をつけて行ってらっしゃい。夜は暗いですからね」
「あっ……はい」
カストルは一度頷き、
「では、私はもう寝ます。おやすみなさい」
「お、おやすみなさい」
カストルはそのまま自室の方へと歩いて行った。
アルタイルは再び歩みを進めた。誰もいない冷たい廊下にはコツコツと靴の当たる音が小さく響いた。
玄関口までたどり着くと、アルタイルは最後に家の中を見渡した。
そう遠くないところに、居間の大きなテーブルが見える。初めてスピカとカストルと三人で飯を食い、自分がアルタイルという名をもらった場所。つい一週間ほど前の出来事が、もう何年も前のことのように感じる。
名残惜しい気持ちもあるが、自分で決めたことだと割り切った。
「ありがとうございました」
小声でそう呟くと、アルタイルは深々と頭を下げた。
返事は勿論返ってこない。だが、それでよかった。
アルタイルはゆっくりと扉を開き、夜の世界へと足を踏み出した。
決意を固めた気持ちとは裏腹に、アルタイルの心の霧が晴れることはなかった。