第一話 出会い
微かに、パチパチと薪のはぜる音が聞こえる。
聞き慣れないはずのその音は、どこか優しく懐かしい心地がした。
ふと、覚えのない記憶が頭をよぎる。
春の暖かな日差しが部屋中を照らすなか、艶やかな白銀の長髪をひとつ括りにした儚げな女性は、抱きかかえた赤ん坊の頭をそっと撫でている。彼女は本当に幸せそうに笑みを浮かべていて、その子供もきゃっきゃと笑いながら、その小さな両手を彼女の方へ伸ばしていた。
心の底が温まるような情景を、堪らなく愛おしいと感じた。
「お母さん……」
愛に飢えた年端も行かぬ少年は無意識のうちにそう呟いていた。
こめかみを這う涙の感触が肌に伝わる。その妙に生ぬるくこそばゆい感覚に引っ張られ、 少年はゆっくりと目を開いた。
全身を包む肌触りのよく暖かい布団を退けると、少年はゆっくりと身体を起こした。
――ベッドで、寝てたのか。
毎日凍えるような寒さの中、硬く冷たい石畳の上で寝ていた少年にとって、柔らかなベッドの感覚は今まで感じたことのないとても新鮮なものだった。
辺りを照らす青白い日差しに顔をしかめつつ、少年は今置かれている状況を一つひとつ確認する。
少し古ぼけた風味を帯びた温かみのある寝室、窓にはすっかり日に焼けて色褪せた薄い茶色のカーテンが閉まっており、隙間からは漲るような日の光が差し込んでいる。
石レンガを積み上げた打ちっぱなしの壁には、子供が絵具で描いたであろう可愛らしい絵やら、何かの設計図やらが無造作に貼り付けられている。
小さめな円形の机の上には栞の挟まった重厚な装飾の本と、空になったティーカップが置かれていた。
もう少し辺りを見回そうと身体を捻ると、不意に左脇腹からズキリとした痛みが走った。
その鋭い痛みは、夢心地だった少年の意識を瞬時に現実へと引き戻した。
意識を失う直前の記憶が頭を駆ける。
――僕は確かあのとき……
延々と続く雨の音、酷く鉄臭い血の香りに胃酸が混じった吐き気を催すほどの不快な味。
腕に触れる冷たい刃の感触。
そして、目に焼き付いたコマ送りのように自分の左腕が宙を舞う非現実的な光景。
少年の記憶はそこでぷつりと途切れていた。
少年は全身にぐっしょりと脂汗を浮かべながら、恐る恐る左腕に目を向ける。
だが、そこに完璧な少年の左腕が映ることはなかった。
少年の感情は瞬く間に絶望の淵へと滑り落ち、左腕を失くしたときの凄惨な光景が少年の心臓を抉るように深々と突き刺さる。昏々とした陰りが、十にも満たぬ小さな少年の心を蝕んでいった。
しばらくするとガチャリという音と共に少年のいる寝室のドアが開かれ、一人の男が入ってきた。
男は亜麻色の長髪を後ろで束ねている。素朴でありながらも丁寧に仕立てられた衣服からは、男の生活の丁寧さが垣間見え、丸眼鏡から覗く翡翠のように美しい緑の瞳からは紳士の気品が窺える。
「おや、気が付いたようですね」
男は柔和な笑みを浮かべながら少年に優しく語りかける。
少年は見覚えのない男の姿に少し戸惑う様子を見せた。
男はその戸惑いを見透かすように会話を続ける。
「目覚めた場所が知らない家の寝室、そこに知らない男が入ってきたのなら戸惑うのも仕方ないですよね。私の名前はカストルと言います。私が裏路地で倒れている君を見つけてここに連れてきました」
カストルと名乗るその男は、少年の座っているベッドの近くにある椅子に腰かけた。
少年の身体には包帯が巻かれており、ボロ雑巾ほどになるまで着古した服は、街の子供が着ているような着心地の良いものに変わっていた。
そこでようやく自分の怪我を診てくれたのがカストルであることに気が付いた少年は、視線をカストルの方へと向けておそるおそる口を開いた。
「カストル……さん、あの、怪我の手当て、ありがと……」
「いえいえ、どういたしまして。これでも医者のはしくれですので、重傷の怪我を負った子供を放っておけなかっただけですから」
今までろくな扱いを受けてこなかった少年にとって、絶えず自分に笑顔を向けるカストルの存在は不可思議なものであった。
その落ち着いた口調に少し安心するとともに、自分にこうまでしてくれることを疑問に思い、警戒の色を強めていた。
そんな少年の態度にもカストルは優しい笑みを崩さなかった。
「朝食の用意ができたので、皆で一緒に食べましょう。娘も、私が君を連れ帰ったときから心配していましたので、君の元気な姿を見たらきっと喜ぶと思います」
こちらへおいでと言わんばかりに手招きをするカストルに促され、少年はベッドから降りると、おぼつかない足取りで寝室を後にした。
促されるまま朝食の用意がされているという居間に出ると、パンの焼けるいい匂いが香り、思わず生唾を飲み込んだ。
目の前の大きめのテーブルには、こんがりと焼けたパンに半熟の黄身の目玉焼きが添えられており、別の皿には肉汁を滴らせたベーコンとソーセージに、彩り豊かな野菜のサラダ、そして小さめのマグカップに入った玉ねぎのスープが湯気を立たせ、ガラスのコップには一切の濁りもない水が注がれている。
配膳された三人分の朝食は、アリスト帝国に住む平民にとってはごく一般的な物であった。しかし、街のごみ捨て場で食べ物を漁り、道の端に溜まった泥水を啜って暮らしていた少年にとってその朝食は、貴族の食卓に並ぶ豪勢な料理のように見えた。
「あ、やっと起きたんだね、おはよう」
不意に背後から、透き通るように穏やかな優しい声に話しかけられた。
振り返るとそこには、くりんとした亜麻色で癖っ毛のショートヘアが輝く一人の少女が笑っていた。
丁寧に作り込まれた人形のような目鼻立ちに、星を宿したような緋色の瞳。
向けられた微笑みは可憐で愛らしく、天使と見間違ってもおかしくないほどだった。
「あ、その、おはよう……」
突然のことに少したじろいでしまった少年は、気の抜けた風船のような返事をした。
少女の視線は一瞬少年の失った左腕に向けられたが、彼女は視線をすぐ少年に向けなおし言葉をつづけた。
「朝ごはん出来てるから、冷めないうちにみんなで食べようよ」
誘われるがまま少年は朝食が並べられたテーブルの前に座った。
眼前には今まで食べたことのない御馳走が並んでいる。
数日間ほとんどまともな食事をとっていなかった彼の食欲は止まるところを知らなかった。
香ばしいパンの甘みが口の中に広がり、肉汁が滴るソーセージやベーコンの濃厚な旨味が下を刺激する。新鮮な野菜の瑞々しい食感と味が口の中を落ち着かせ、玉ねぎの甘みが溶けだした暖かいスープが冷えた身体に染みわたる。
口に運ぶもの全てが舌も喉もとろけるほど美味で、少年は朝食を瞬く間に平らげてしまった。満腹になった少年はズボンの紐を少し緩めた。
「簡単な朝ごはんだったけど、そんなにおいしそうに食べてくれたらわたしも作った甲斐があったよ」
少女は満足そうな笑みを浮かべた。
彼女がこの朝食を作った、ということに驚きつつも少年は礼を述べる。
「ほんとに美味しかった。こんなの初めて食べた、ありがと」
幸福な感情に包まれ、少年の緊張感はいつの間にか解れていた。
二人のやりとりを微笑ましく見守っていたカストルがふと気付いたように口を開く。
「そういえばまだ二人はお互いに自己紹介していないですよね。よかったら君の名前も教えてくれませんか」
少女も今思い出したかのように眉を上げた。
「今更だけど、はじめまして。わたしの名前はスピカっていうの。君はなんて名前なの?」
花が咲いたような眼差しを向けられ、少年は言葉に詰まる。親の顔も覚えていないほどだ。当然ながら、少年は自分の名前を知らなかった。
「……わかんない。ずっと前からひとりだったから」
少年の答えにスピカは小さく頷く。
「そっか、でも君って呼ぶのもよそよそしいしなぁ……」
スピカは少し気まずそうに目を伏せた。
少年は今まで生きてきて名前というものを身近に感じることがなかった。人と話すこと自体滅多になく、話したとしてもわざわざ自己紹介をする機会に巡り会うことは一度としてなかった。
だが、人間の大半が名前を持つ中で自分だけが持っていないという事実にはしばしば寂しさを感じることもあった。
街で聞こえる親子の会話や友人同士の会話で、互いの名を呼び合う彼らがとても輝いていることのように見えた。
「じゃあスピカが決めてよ、僕の名前」
唐突な少年の提案にスピカは少し困った表情を作る。
少年は何かまずいことを言ったのかと疑問に思っていると、その一連の様子を見ていたカストルが真剣な眼差しを少年に向けた。
「名付けというものはそう簡単にできるものではありませんよ。名前というものは付けられた本人が一生背負うものです。生涯を通して付けられた名前が君を君たらしめるのです。そのような大切な意味を持つものを、君は本当にまだ会って間もない相手に委ねてもいいのですか?」
言われてみればその通りだ。普通名前は親や家族が自分の子供に愛を持って付けるものだ。まだ自分のことを殆ど知らない少女に付けてくれと頼むのは、本当におこがましいことだったのかもしれない。
だが、同時に思う。真冬の夜のように暗く冷たい人生を送ってきた少年にとって、スピカやカストルと出会えたこのひとときは、何ものにも代え難い大切な時間だった。
この暖かい食事や何気ない会話は、いつの間にか消えていた少年の心の蝋燭に火を灯してくれた。
「……僕は今までこんな美味しいごはん、食べたことなかった。カストルさんが拾ってくれなかったらきっと今頃死んでたと、思う。......スピカとカストルさんからしたらいつもと変わらない朝かもだけど、僕は今日はじめて生きててよかったって思えたんだ」
このひとときの出来事を思い浮かべながら言葉を並べていくうちに、少年は瞳の奥を濡らしていた。
「……だから、僕はスピカに名前をつけてほしい、な」
言葉の末尾は消え入るほどの声だった。だが、少年の曇りのない真っ直ぐな気持ちは十分すぎるほどに伝わっていた。
「そこまで感謝されてるとは思わなかったよ。うん、わかった。わたしが君に名前を付けてあげるよ」
スピカの頬は甘い果実のようにじんわりと紅潮していた。
温かな静寂の中、二人を見守るカストルは優しく微笑む。
古びた時計の針は、ひとつ、またひとつと途絶えることなく時を刻んでいた。