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隻腕のアルタイル  作者: カニノミソシル
はじまり
1/5

プロローグ

 ――蕭々と雨が降っていた。

 

 人が滅多に通らない薄暗い裏路地、腐った魚を煮詰めたような刺激臭漂うゴミ溜めに、その少年は捨てられていた。


 少年は左肘から下を失っており、道の端に転がっている痩せこけた左腕には人の血を好む類の虫が散々たかっていた。


 傷口から溢れ出る鮮血が辺り一面に広がり、地に臥す少年の灰色の髪は真っ赤な水溜りに浸っていた。


 白兎のような深紅の瞳は光を失い、ただひたすら雨に打たれ続ける。

 

 

 氷菓の如く冷えた雨の一粒一粒が少年の命の温もりを確実に奪う。

 この赤い水溜りが広がるほどに、少年のその小さな身体は生きることを諦めていった。


 薄れゆく意識の中、少年はただひたすらに血の池に映るどうしようもなく脆弱な己を呪った。


 ――本当に、救われない。

 


                  ×××




 幼い頃の記憶、それはどれもが冷たく孤独なものだった。


 ここ、アリスト帝国が隣国との戦争で勝利を収め街中が活気に溢れるなか、その裏で名も無き少年は醜く残飯を漁り、道の端に溜まった泥水を啜る日々を過ごしていた。

 少年は物心ついた頃からそのような生活を続けていて、どうして自身がこんな状況に置かれているのかさえ理解していなかった。


 家族団欒、母の味、そんなものは生まれて一度も経験したことがない。疎まれ、蔑まれ、傷つけられる日々。とてもじゃないが、人生に希望なんて持つことは出来なかったし、それが自分のあたりまえだとすら思っていた。


 暗い路地を一歩抜ければ綺羅びやかな街が広がっていて、そこには家族に囲まれて笑顔で日常を生きる子供がいて、酒を飲み、友との絆を深める大人達がいた。本当に幸せそうに見えた。

 だけど不思議なことに、皆自分と目が合うと急に顔をしかめてそっぽを向く。

 街を見渡せば、自分のことを見てくれる人なんてひとりたりともいなかった。


 ある日、いつものように食べられそうなものを探して辺りを彷徨っていたとき、たまに見かけることがあった孤児の子供が軍人に暴力を振るわれている光景を目にした。

 どうやらその子供が軍人の財布をすったことが本人にばれたらしい。

 軍人は子供を殴りながら相当の罵詈雑言を浴びせていた。

 汚い、臭い、気持ち悪い。少年からすれば聞きなれた慣れた言葉だったが、一歩引いて見てみるとやはり心に刺さるものはあった。

 街の人からすれば自分たちの置かれた境遇は、汚くて臭くて気持ち悪いものなのかもしれない。けれど、それでも過酷な環境で毎日死ぬかもしれない危険と隣り合わせで生きてきた自分たちがここまで言われなければいけないのかと、胸が痛んだ。

 

 同時に漠然と理解する。

 今まで生きる為に自分がしてきたことを思い返すと酷く醜いものばかりだった。

 生きる為とはいえ、汚いことや悪いことをしてきた。だから疎まれ嫌われる。

 少年は自分がどこまでも惨めで醜悪な存在のように思えて仕方なかった。



 ――結局その子供は、呆気なく死んだ。



 自分の感覚機能が人より鋭いことを知ったきっかけは、一生忘れないであろう記憶のひとつだ。

 

 凍えるように寒い曇天の日のこと。

 その日は朝から空が厚い雲に覆われ、陰鬱とした雰囲気を漂わせていた。

 この日は特に食べられるものが見つからず、街の外れのごみ捨て場を漁っていると、大通りの方で何やら騒がしい音が聞こえてきた。


 人が集まるところには必然的に食べ物も集まる。もしかすると何か食べられるものがあるかもしれないと思い、少年は大通りの方に出てみることにした。

 辺りを見渡すと、腰に剣をさげた数十人の男たちが慌ただしく走り回っていた。

 どうやら彼らは街の警備兵らしい。

 彼らはそれぞれ裏通りや街の様々なところに散っていったが、その中の一人が自分の存在に気付いて声を掛けてきた。

 

 「少年、ここらへんで悪そうな奴を見なかったか」


 目元を縦に引っ掻かれたような傷のある警備兵は、先ほどまで走っていたのか少し息を切らしている。


 「しらないよ、見てない」

 

 少年にとっては心底どうでもいいことだった。なにか食べられる物にありつけるかと思っていた少年は、期待を裏切られたように感じた。警備兵が何かしらした犯罪者を捜索していただけのことだったと知り、少年はそっけない返事をした。


「黒いマントを羽織った人相の悪い眼帯の男だ、もし見つけたら何でも好きなものを買ってやるよ」


 警備兵はそう言い残し、裏路地の方へ消えていった。


 最後の言葉が強烈に耳の奥にこびり付いていた。いつも香ばしい匂いを漂わせている屋台の串焼き、甘辛いソースをたっぷりと塗って焼いたステーキ肉やいつも朝から行列ができている菓子屋の甘いクッキーを頬張る自分の姿を想像して、口の中いっぱいに涎があふれた。

 ここ数日冬ということもあり中々食べ物を食べられず空腹もピークに達していた少年にとって、その言葉は恐ろしいほどの魔力を有していた。


 どうせこのままごみを漁っても大した食べ物は見つからない。それなら少しでも食べ物にありつける可能性があるのならと考え、その黒いマントの男を探すことに決めた。



 数時間ほど裏通りを歩き回った。

 さきほどより一層寒くなり、かじかんだ手はもはや感覚を失っていた。

 もう諦めてしまおうかと思ったとき、薄暗い裏路地の奥へと繋がる道の地面に点々と続く血痕があることに気付いた。

 少年はそこに黒いマントの男を見つけられる可能性を見出し、血痕を辿りながら路地の奥へと続く道を歩み始めた。


 暫く歩き続けると突如血痕は途切れており、そして辿り着いた場所は少年のよく知る場所だった。


 ――僕がいつも寝るときに使う路地だ。

 

 そこは周りが建物に囲まれていて風が通らないうえ、対面に位置する建物の出っ張りが上手くかみ合い屋根の代わりになっている。めったなことがない限り人も寄り付かず、近くのゴミ捨て場の臭いこそすれ、寒さをしのぎながら落ち着いて休憩するには丁度いい場所だ。

 たまに少年以外の子供もここで寝ていることがあるが、そのような場所には今細身の男が座っている。


 フードを被っていて顔はよく見えなかったが、鎖帷子を着ていて左腰には取り回しがしやすそうな短めのサーベルをぶら下げていた。男は相当使い古しているであろう黒い手袋、黒いブーツを身に着けており、それぞれに血が固まったような浅黒いシミが残っていた。

 左腕に包帯を巻いているようで、この場所まで続いていた血痕は腕の傷口から出たものだろうと見当がついた。


そして、男は黒いマントを羽織っていた。

 

 ――間違いない、この男だ。


 確信した。地面に血痕が続くほどの怪我を負っているということは、先ほどの武装した警備兵がさがしていた人物の可能性が高い。

 

 ここに男がいることを警備兵に教えれば、最高のご褒美にありつける。

 夢にまで見た街の食べ物を食べられることに期待が膨らみ、胸が高鳴った。

 

 少年はこのことを伝えるため、音をたてないようにそっとその場を離れようとした。

 男から目を離さないようにしながら少しずつ歩みを進めていると、少年の足元でどこからか転がりこんだであろう木の枝が折れる音がした。少年はその枝を踏み折ってしまっていた。人通りが多い表通りでならこのような小さな音が鳴っても気にも留めないであろうが、閑散とした裏路地で鳴ってしまえば自分がそこに居ることを知らせるには十分だった。

 

 「おい、止まれ」


 殺気のこもった鋭い声が、少年の心臓を貫いた。


 少しの段差に腰かけていた男はのそりと立ち上がり、ゆっくりと少年の方へ近づいてきた。

 息が詰まるほどに張り詰めた空気がその場を支配した。


 少年の体は石造の如く硬直し、先ほどの胸の高鳴りとは比較にならないほど心臓が拍動した。

 一歩一歩と迫る男の足音に、今まで感じたことがないほどの恐怖を覚えた。


 ――まずいまずいまずいまずい。


 男は少年の目の前にまで近づいた。

 男の獲物を狙う獣のような鋭い眼光が、ギロリと少年の姿を捉える。


 「こそこそと隠れて見物とは、子供の癖にいい度胸をしているな」


 氷のように冷たい声が再び少年を刺す。

 相手が子供だと分かってなおその緊張感を緩めないところから、未だ少年は危機を脱していないことを直感的に悟る。

 咄嗟に言い訳をしようと口をぱくぱくと動かしたが、唐突なこの状況に呑まれ蚊の羽音ほどの声しか出せなかった。

 全身の血の気が引くのを感じ、背筋に冷や汗が流れた。

 

 「俺はこんなところで帝国の犬どもに捕まるわけにはいかないんだよ」


 冷淡な口調の裏にははっきりとした殺意が窺えた。

 男は慣れた手つきで腰に吊り下げたサーベルの柄に手を掛けた。 


 「顔を見られた以上、子供といえど容赦はせん」


 少年には誤解を解く術もなく、ただ自分の命の灯が揺らぎ続けるのを見ているしかなかった。


 男は腰に下げたサーベルを抜き放ち、切先を少年へと向ける。

 ぎらついた刀身には戦いのさなか、拭いきれなかったであろう血がこびりついていた。

 

 男はサーベルを袈裟に構え、一切の躊躇いなく少年めがけて勢いよく振り下ろした。

 刃は風を切り裂き、弧を描くようにして少年の首元へと向かった。


 少年は死を覚悟した。今まで感じたことのあるものとは比較にならないほどの恐怖、不安、絶望が頭の中を駆け巡り、負の感情が少年の全てを支配した。

 

 ――しかし、男の振り下ろした刃は空を切った。


 命の危機を感じた少年の身体は、無意識のうちに後方へ重心を移動させ、男の攻撃を紙一重で躱していた。

 少年はその刹那にどうやって男の攻撃を避けたのか自分でも理解できてはいなかった。


 渾身の一太刀を躱した少年の動きには当然ながら男も少し驚いた表情を浮かべた。

 

 「ほう、俺の剣を躱すか。ただのまぐれではあろうが、大したもんだな」


 男は二太刀目を浴びせようとサーベルを肩口に構えると、先ほどの攻撃以上の速度で少年の喉笛を薙いだ。

 しかし、この数秒のやり取りの間に死を実感していた少年の感覚機能は、既に極限まで研ぎ澄まされていた。


 ――見える

 

 微小な空気の振動が肌に直接伝わってくる。

 刃が風を切る音がはっきりと聞こえる。

 今にも少年の喉元を切り裂かんとする刃の切先が、凪の海でたゆたう小舟の如く明確に捉えられる。

 自らの心臓の鼓動が、血液の循環が、筋肉の流動が手に取るようにわかる。

 少年はまるで、自分が悠久の時を生きているかのように世界を知覚した。


 少年は刃の軌道を目視し、先ほどと同じように身体を後方へ移動させようとした。

 だが、数時間空腹のまま歩き続け体力を消耗し、手足も凍り付くほどに冷えきっていた少年の身体は思うように動いてはくれなかった。

 咄嗟に自分を庇うよう前に出した左腕にサーベルの刃が食い込む光景が少年の目にはコマ送りのようにはっきりと映っていた。


 そのサーベルは少年の腕を豆腐でも切るかのようにあっさりと両断した。


 「……え」


 自分の腕を切り落とされるという経験したことのない光景に少年は暫し困惑していたが、数秒と経たないうちに左腕からの想像を絶する痛みが全身を駆け巡り、少年を強制的に現実へと引き戻した。

 

 けたたましい絶叫が空気を切り裂く。


 木々や街灯にとまっていた鳥達は一斉に羽ばたいた。

 辺り一面が赤に染まり、少年はその場に倒れ込んだ。


 「全く、五月蠅いな。人が来たらどうするんだ」


 少年は尚も叫び続けていた。痛みに我を忘れていた少年に男の声など微塵も届いてはいなかった。

 叫び声に痺れを切らした男は無言でうずくまる少年の脇腹を思いきり蹴り上げた。

 

 少年は背後にある壁まで飛ばされた。

 石の壁に背中から勢いよく叩きつけられ、少年は口から血反吐を吐いた。

 先ほどの蹴りによって折れた肋骨が肺に刺さり、少年はまともに呼吸することすら出来なくなっていた。

 男は冷徹な表情を浮かべたまま少年に近付き、続けざまに人体の急所のひとつである水月を殴りつけた。

 

 少年は死にかけの虫のように痙攣し、口からは血と吐瀉物が溢れて出した。


 次第に曇天は暗さを増し、いつしか蕭々と雨が降りだしていた。


 少年の意識は既に朦朧としていた。息も出来ず焦点も定まらなくなり、今置かれている状況が夢かうつつかさえ判断しえなかった。

 

 男は確実に息の根を止めるため再びサーベルの切先を少年の心臓に突き立てた。

 刃先が少年の胸に少し刺さり、ボロ雑巾のような服にじわりと血が滲む。

 少年の小さな心臓を貫かんと、男はサーベルを握る手に力を込めた。


 今にもぐさりと心臓を刺してしまうすんでのところで、男は石畳を駆ける誰かの硬い足音が近づいてくるのを感じ取った。


 男は少年に「救われたな」と一言吐き捨て、何事もなかったかのようにサーベルを鞘に納めると足早にその場を後にした。





 少年の瞳は光を失い、ただひたすら雨に打たれていた。


 もう何の痛みも感じない。何も見えないし聞こえない。


 ――救われたな、だと。

 いったい何が救われたのだろうか。このままではどのみち出血多量で死んでしまう。

 そうだ、死んでしまうのだ。

 少年は思う。なんの幸福も、愛情も、友情も知らないまま一人孤独に死んでしまうのか、と。


 少年は薄れる意識の中、その短い人生を振り返る。

 その日を生きるため、惨めに這いつくばり、醜くごみを漁り、盗み、傷つけ、傷つけられる日々。

 それもこれも自分が弱さが招いたことだ。どうしようもなく自分が弱いばかりに辛い思いをしてきた。


 でも、確かに救われたのかもしれない。

 こんな泥臭くて血に塗れた人生に幕を下ろせるのだから。


 ――もっと、生きたかった。


 心の底から本音が湧き出た。

 しかし、その願いはもう叶いそうにもない。


 地を打つ雨音だけが街にこだまする。 

 それは子守唄を歌う母親のように優しく、少年を眠りに誘った。


 もう楽になりたい。温かい家族に囲まれた幸せな夢を見たい。


 次に目覚めるときは暖かい家族に出会えることを夢見て、少年はゆっくりと瞼を閉じた。



 ――本当に、救われない。

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