第12話 未開の秘境
現在、1969年(仮)にいるフジ・カケル/アブソリュート・アッシュは、大宮での碧沈花/ヒール・ジェイドとの戦いから幾つもの激闘を経てこの1969年(仮)にいる。
基本的な性格は変わらない。自堕落でクズだ。
しかし2020年の秋から冬にかけての戦いはフジの意識を大きく変えた。ウラオビ・J・タクユキ/江戸川双右率いるイタミ社のメンバーである碧沈花とアブソリュート・アッシュが3回も戦ったこと、メッセ、レイ、ジェイドのメンバーでイタミ社に3連敗したこと……。
自分もそうだったし碧沈花もそうだったのは、伸びしろを大きく残した若者が助走を付けてブレイクスルーし、それが上手くいくと天井を突き破って予想以上の戦果を挙げ、大きく実力が跳ね上がって成長するということだ。
では味方で伸びしろがある、つまり未熟なのは誰だ? アッシュだ。しかしアッシュの成長の跳ね上がりがピークに達したのは残暑の厳しい2020年、トーチランドでの因幡飛兎身戦。もう過ぎている。もう一度あれをやれと言われてももう少しあれに酔っていたいし時間が足りなかった。
かくれんぼや鬼ごっこで鬼になったのに誰にも追いつけなさそうなときは誰かを誘ってそいつに鬼を押し付けるに限る。フジはイツキにそれを押し付けたのだ。
「フジ。作戦はある?」
フジがザスザスと床を蹴る。イツキは精神統一して展開するバリアーの形を考える。
「袴の親父は手間がかかる。雑魚を倒してからゆっくり捌くぞ」
イツキと秘かに手を組んだことはユキや鼎にも秘密だった。しかしイツキの存在は味方最弱が自分というコンプレックスを解消する以外にも大きな存在になってしまった。
フジとイツキの関係はギブアンドテイク。
フジはオーバー・Dで急加速する自分のスピードと身体能力を制御できずにいたが、イツキなら上手く使いこなせる。具体的には神速の域でもつれずオーバーランしない足さばき。速く動くことと速く走ることでは話が違う。
イツキは手にしたバリアーの力の使い方を誰に乞えばいいのかわからなかった。
二人の間にいかな会話があったのか。まずはフジの心から紐解いていこう。
それはイツキといることが心地よい刺激だということだ。
例えば、相手がジェイドだと……姉にして信仰の対象。しかし憧れがすぎ、委縮してしまう。
相手がレイだと……兄。かつては敵対した兄も今や頼れる兄。甘えすぎてしまう。
相手がメロンだと……。親友。空気が緩みすぎてしまう。
相手がメッセだと……。戦友。あんまり話したことないし話す機会はあったのに話さなかったので気まずい。
相手がミリオンだと……。父。父との関係では戦いよりも私生活に重きを置きたい。
相手がシーカーだと……。怨敵。憎悪が強すぎる。しかし重要なのはこのシーカーだった。
体術、念力、精神力、頭脳、経験、全てでアッシュはシーカーを上回っているはずなのに拭えないシーカーへの劣等感。シーカーを超えたい。スペックならもう超えているし、シーカーはもう死んでいるのに。どうやったら超えたと思えるのだろうか。片っ端から手を付けていくために、フジはシーカーが得意とした拳銃の扱い方をもう一度勉強しなおした。
仲間たちはこの劣等感に気づいていたが、みんなが触れたがらなかった。誰もフジの相棒にはなれなかったのだ。メロンがいい線行っていたが、メロンはだいぶ年上だしメロンは恩返しからフジと接し始めたため、どうしても対等にはならずメロンがいつも譲ってしまう。
しかしイツキは体術の師であり、バリアーの弟子。
ジェイドがシーカーに教えたようにアッシュもイツキに壁の張り方を教えて姉の思いを少し知る。イツキから足さばきを教わってシーカーの気持ちも知る。精神的、戦力的弱さを気に病む者同士、欠けているものを補い互いに強くなるために利用できる。
上下関係なく、互いを高めあうことの出来る関係。フジとイツキはまさに相棒同士だった。
ただし惚れてはいないさ。本命はもう半年も揺らいでいない。
「そうらおいでなさるぞ。イツキ。ちゃんと教えた通りにやれよ」
フジとイツキが互いに背中を預け、フジがキシ(黒)、イツキがキシ(白)をマークする。アデアデ星人の下っ端たちが銃と盾のツーマンセルで距離を詰めてきた。盾もエウレカ製ならば槍が効かない。Δスパークアローが辛うじて通るかどうか……。
「セリザワはどうする?」
「あー、親父……。どうするかなぁ」
突如、複数人のアデアデ星人が上半身をメッタ切りにされ、前衛に走らざるを得なかったアーティストの悪い冗談みたいな新作のようになって死に、盾の向こう側に血を飛ばしてぼとぼと滴らせた。主に顔面付近がバラバラでその斬撃の威力を雄弁すぎるほどに語る。しかしさすがのアブソリュートミリオンでも瞬きほどの一瞬で三人のアデアデ星人の上半身をスプリンクラーには出来ない。これを可能にするのは、歪んだ憧れの産物。
「アブソリュートミリオンの力。“鏖”の弾」
それ即ち、希代の科学者でもあったアブソリュート・マインの残した神器級のオーパーツ、“アブソリュートリガー”略して“Aトリガー”に登録されているアブソリュートミリオンの力を再現した弾の効果だ。
イツキの脳内にアブソリュートミリオンの感情が流れ込む。
マイン→シーカー→ジェイドと渡り歩いてきたAトリガーの現在の所有者は犬養樹。羽田空港でマインが燃えた後にジェイドからイツキに譲渡され、ついにアブソリュートの血が一滴も流れていない、それどころかアブソリュート宿命のライバルゴア族の手に渡っていた。
「やっぱ強すぎるよな、それ」
「……」
そしてこれが、フジがイツキとの接触を図った理由その二。Aトリガーだ。
Aトリガーは弾を使用するとその弾のモチーフになったアブソリュートマンの感情と記憶が流れ込み、慣れれば自由に追憶出来る。使用可能な弾はその時々の所有者の資格や縁によって異なり、シーカーは“光”“鏖”“風”“幻”“地”“水”“火”“凍”“電”の九種類が使用できた。シーカーの後にAトリガーを使用したジェイドには、シーカー自身は使用できなかった“喪”を使うことが出来、さらにアブソリュート・マインの“理”の弾を使用する権利もあった。
ジェイドに権利が生じたのならば、イツキにマインの“理”を撃てないはずがない。そしてもし、“理”の弾でマインの追憶が出来るならば……。
今はまだ早い。イツキに“理”を使ってマインの記憶を探ってくれなんてまだ言えない。フジ自身にAトリガーを使うつもりはまったくない。それどころか碧沈花との戦いを経て槍という新たな武器を習得したし、シーカーの使った武器なんて触るのもまっぴらごめんだ。
でもイツキに拳銃の基礎は教えるし、この1969年(仮)。芹沢英雄、不二欠、犬養樹の三人でつるんでいたら、Aトリガーは新たな持ち主であるゴア族の聖女にアブソリュートミリオンの“鏖”、アブソリュート・アッシュの“電”の使用と二人の記憶へのアクセスを許可した。そりゃ噂好きのタバコ屋のババアも勘ぐる。若い男二人と若い女一人だもの。
「……」
「イツキ!」
「……。フジ、まだ実戦でAトリガーを使うのは無理かも。フラッシュバックが多すぎる」
「Aトリガーを使うのは無理だァ? 何の問題がある? 相手は所詮アデアデ星人だぞ」
〇
「ディアーッ!」
密着した状態から超高威力の刺突を放つと、マディの血で手が滑り、真新しい刀はマディもろとも吹っ飛んで巨大タンクローリーのタンクに突き刺さった。タンク内部の燃料とマディの血液が交換される。さらにマディと刀の重みでタンクが縦に割れ、血が滲んでいく。
「オットット。突き刺さってしまいました。身動きが取れません。悪いけど外してくれませんか?」
「ディッサッ!」
刀に比べるとかなぁり不得手だが、セリザワは親指、人差し指、中指で念力を練って手裏剣を作り出し、壁のマディの頭、喉、両手に手裏剣を突き刺して留めてやった。まるで磔刑!
「セリザワさんセリザワさん!」
「ディアーッ!」
セリザワは両腕を交差させてエネルギーを溜めてから揃えた指先をマディに向け右手の甲に左掌を重ねる。手の無骨な白熱球の光が鋭く尖ってセリザワの手を離れ、マディを貫いた。刀を得意とするセリザワには無用の長物である必殺光線、スラシウム光線だ。着弾の火花でタンク内の燃料に火がついて火柱が立った。熱々の金属板に留められたまま焼かれるマディの今回の死に方は中国の古代の残虐処刑、炮烙を連想させる。セリザワから少し離れたところでまだマディの脂肪がパチパチとえている。
「ディアッ」
少し喉が渇いた。自動販売機を蹴り壊して中からキンキンに冷えたコーヒーをかっぱらって喉に流し込み、持って帰ることが可能かは不明だが硬貨を一掴み懐に入れた。
「ようやく身動きが取れます」
腹に刀を突き刺したままのマディが立ち上がり、掌に刃を食いこませて出血しながら引き抜いた。痛みや絶望を与えてマディに勝つことは出来ないようだ。死さえ恐れない! 死ぬことに耐性がついてしまったやつは戦闘の訓練をしていないのに素手でアブソリュートミリオンに挑むし、きっとチンドン屋の格好でペリリュー島の激戦地で飴玉配りをするのも恐れない。
「そうか。腹の穴は塞がったか?」
「胃潰瘍のことですか? あれにはなりません。外科手術で胃は機械に換装してあるのでエリートモーレツ企業戦士はストレスによる胃潰瘍とは無縁!」
「よかったな。飲め」
セリザワは壊した自販機から落ちた缶コーヒーを一本マディに投げ、ため息をついた。
「悠長なのかどうなのかわかりませんねアブソリュートミリオン。ストレスでお腹が痛いなら機械の胃をお勧めしますよ」
「そう間違ってはいない。腹を痛めたのは俺ではなく、将来俺の妻になるまだ見ぬ女性……。いや、もう会っているかもな。その人が腹を痛めて産んだ俺の息子、アッシュがいる。貴様の相手がアッシュならこうなることはなかった。あいつは強いからな。あいつは強い。貴様ごときに手こずることもないだろう。この空間だってどうにか出来るし恐怖にも感じない。だが俺はそうはいかない。弱い者は復讐や再戦があっても負けないよう、時に執拗に敵を殺さねばならない。俺には殺すことしかできん」
「弱い、か。いつか聞いたようなセリフですね。それで、何故そんなお強いご子息がいてお腹が痛くなるのです?」
「アッシュが息子でよかった。そうでないと……。狂ってしまうからな。同じアブソリュート人のはずなのに、まだ22歳の若造なのにあんなに強い。だが、本当に息子なら父としての誇らしさで嫉妬を紛らわすことが出来る。そんな己の心の弱さに腹が立つ。超えるべき! 目標とするような、ライバル視しなければいけないはずの相手が! 息子ならば競わずに済むなんて逃げた考えを持つ! 戦士としてアッシュを頼るべきか、父としてアッシュに甘えるか。俺の心に違いはあっても他者から見た行動は変わらん。アッシュを待つ。それだけだ。俺に出来るのはここで貴様を殺し続けること」
鈍足を飛ばしてマディの首を刎ねて梟首する。手ごたえは確かだ。確実に生物の皮、肉、骨を断ち切断している。
「オットット。おかあぁさーん!! 僕は今、ミクロの世界にいまぁーす! ミクロの世界は、今日も雨でーす! ンハァーハー……。ここは雨だよ……」
「ダァーッ!」
壊した自販機の中をかき出し、代わりにマディの胴体と頭を詰めて刀で留めて蓋をして、セリザワの腕に葛藤の血が流れる血管が浮き上がり、重量に食いしばった奥歯が折れ、舌が切れた。そしてその痛みを無視して自販機を川に叩き込んだ。血と気泡の梅花藻が咲く。血の混じった唾と折れた歯を吐き出すと、もう口の中に鉄の味を感じない。治ったのだ。
「……」
何度殺した? どれだけ経った? 40万年でここを出るためには3秒に一回マディを殺さねばならないがその殺人シャトルランには既にかなりの遅れが生じている。沈んだ自販機から滲む血と気泡が減った。どうやらマディが溺死したらしい。今のマディは生き返っても自販機から出られずにすぐに溺死する運命だが、その場合は連続して死に続けて残りの回数が減るのか、それとも復活できる条件が整うまで一回の死から復活しないのか。
〇
「アシャ!」
犬養樹、身長163センチ。体重は秘密。股下75cm! 180度開けば150センチの高さにあるアデアデの顎を蹴り抜いて骨を砕ける。盾がブレた。今だ!
「Δスパークアロー」
射抜いたぁ! 盾アデアデ星人が腹に突き刺さった見えない矢を引き抜こうともがいても、矢の方が先に消滅して傷口が大きく開く。
「シズマレ! いいか! エウレカが効くとわかってるんだからエウレカ弾が残っているうちにメガネのガキを撃たんか!」
「ハイヨロコンデプレジデントッ!」
イツキのすぐ近くにいた銃アデアデがイツキをスルーしてフジに発砲! 一流の盗塁王より素早い動きでモーションを盗んだイツキが咄嗟にフジに向けてバリアーを張り、蛍に似た黒く穏やかな発光。そのバリアーの光の内側でエウレカ弾がイツキのバリアーに弾かれ火薬の勢いを失い、床に落ちて万有引力の勢いを失う。フジのアブソリュート由来のバリアーと違い、ゴア族由来のイツキのバリアーなら多少エウレカ弾の威力を抑えられるようだ。しかしイツキの瞳が不穏に揺れる。
「おい効イテンゾー! 数発撃ちこめばお嬢の壁もブッ壊セッゾー!」
「かもな。でもファインプレーだぞイツキ」
フジがスタートを切っているぅ! カケル。“欠ける”であり、“駆ける”速さも後から称号として手に入れた足! その速度は一流の盗塁王をもしのぐ!
「セアッ!」
ドロップキックが盾ごとアデアデ星人を一人、倉庫から排除する。陣形の奥に入り、盾アデアデ星人たちの裏をとった。フジとイツキ、互いの速度を把握し、モーションを知り尽くした一流の盗塁王が二人。イツキがフジの動きの開始と同時に盾アデアデ星人を飛び越えて盾の陰で屈みこみ、フジは……。両手で印を結ぶ。
「フラシウム光線」
フジがいた地点が光で真っ白に塗りつぶされた。オーバー・Dの纏う稲光でもない、白熱の光。裏を取られた盾アデアデ星人と銃アデアデ星人が光に焼かれて卒倒し、煤けた床とアブソリュートの力を阻む盾の陰が旭のような放射状の模様を作る。持ち手がいなくなって倒れた盾の下からイツキが立ち上がり、二人揃ってキシにメンチを切る。
「……」
これがアブソリュート・アッシュの新たな技、フラシウム光線。Δスパークアローのような長距離狙撃は出来ずモーションも大きいが、スプレーのように広角に範囲を焼き払う。実際、フラシウム光線の爆心地から伸びる床の煤の最先端はキシのいる場所にはまだ遠い。
「さぁ、もう一仕事だ、イツキ」
「……」
歪に上がった口角。
〇
何故あの時、アブソリュート・ジェイドに立ち向かわなかった?
「ジェイドは柔能すぎる。わたしではどうにも出来なかった」
何故あの時、アブソリュート・レイに立ち向かわなかった?
「レイは剛健すぎる。わたしではどうにも出来なかった」
何故あの時、アブソリュート・アッシュに立ち向かわなかった?
「アッシュは軽快すぎる。わたしではどうにも出来なかった」
何故あの時、マインを止めなかった?
「……。わたしだって辛かったよ! ヒトミちゃんみたいに出来ないし、どうやって燈さんを止めればいいのかわからなかったし、わたしみたいな弱くてバカな人間がどうやったら燈さんを止められたの!?」
永久にも思える時間、自問自答と自己嫌悪を重ね、いつか“聖母”マインが目覚める時のために死ぬことすら出来ない“聖女”。
……。最早生きる理由はマインと再会することただ一つだった。自ら命を絶つことも出来ただろうが、マインに報いる、そのためだけに死ねず、もがき苦しみ続ける。そして聖女はクズに出会った。
「よう。探したぞ」
「わたしを殺すの?」
「いや、しねぇ」
「じゃあ何を?」
「俺と組め」
フジの話は大体、さっきの通り。バリアーと体術、その技術の交換のギブアンドテイク。そして最弱の座の押し付け。
「……燈さんが復活したらその技術で倒すの?」
「そうしてやりたいが、無理だな。マインの言っていることがマジなら俺が生きているうちは俺がマインに会うことはない。俺たち兄弟三人の中でも意見は分かれている。姉貴はマインに勝ったと思ってる。兄貴は負けたと思ってる。俺は引き分けたと思ってる。もうマインに対して俺が出来ることなんて何もねぇさ。向こうも同じだけどな。俺は幸福の追求や使命を全うしながら俺の人生を送る。それはつまりマインの覚醒を遅らせる行為だが、マインを起こさないためにそうするんじゃない。マインとは……。俺が死んだ後に仲良くやれ。好きにしろ」
そこからどうやってフジがイツキを口説き落としたかはまた別の機会。
受け入れるのは簡単ではなかった。ゴア族の遺伝子を持っているイツキとアブソリュート・アッシュ。ゴア族の自覚はほぼないしマインにもゴア族であることを押し付けられなかったので種族同士の遺伝子レベルの因縁はさほどなかった。むしろバリアーを使う度に自らがゴア族であることを突きつけられるようで辛かった。
しかし未熟なアッシュの足捌きが自分の手ほどきで上達していく様はイツキが体験したことのない充実感……。マインが目覚めるまで生き続けるように不老不死の力を与えられて無為に過ごした長い時間の先に、ようやく生き甲斐を得られた。
燈とは違う。燈はイツキにとって全能の母だった。
ヒトミとは違う。ヒトミはヒトミでハイスペックゆえのドライさ、その孤高があり、ハイレベルのチームプレーは出来てもあまり情を感じられなかった。実際はヒトミはかなりイツキを気に入っていたけれど。
ジョージとも違う。イツキはジョージを悠長な男だと思っていた。惚れられていたことも、ジョージが常に劣等感に苛まれていたことすらも知らない。
ヨルとも違う。ヨルはトーチランドでの活動よりも自分の歌手活動に熱心だったから……。その生き甲斐を持った姿勢に感服していた。
要するにイツキはトーチランドメンバーのことさえもよくわかっていなかったのだ。三顧の礼でやってきたアッシュと手を組み、彼をよく知った。というか、自分も死に物狂いになってアッシュを知ろうとしないと自分は一生孤独のままだとわかったのだ。かつて鼎に厚意を拒絶された過去はトラウマだ。でもイツキに声をかけてくれたのは駿河燈とフジ・カケルだけだったのだ。
イツキに孤独の辛さを教えたのは駿河燈。その駿河燈をイツキから奪ったのはレイ・ジェイド・アッシュの三兄弟。その辛さから救い出そうとしているのがアッシュなんて……。
駿河燈は舌の上のキャンディみたいにコロコロと甘く、難なくイツキを転がした。アッシュは慣れないお世辞とご機嫌取り、誉め言葉で自分と言葉を交わそうとしてくれているのを感じる。
心を閉ざすのなんて簡単だ。一生いじけていればいい。では何故アブソリュート・アッシュと手を組んだ?
「孤独は辛いから」
〇
キシは(黒)を残したまま、(白)ですり抜けまくりながら距離をとり逃走を図る。命あっての物種だ。キシにとって作品? 商品? どっちでもいい。あそこにあった美術品が失われるのは惜しいが、キシ・モクシが失われることこそがアデアデ星にとって最大の損失だ。
しかしフジにマークされた(黒)は動けない。
「アブソリュート・アッシュと言ったか。君は未来から来たのだね?」
「まぁな」
「未来でアデアデに会ったと言ったな。芸術を得意とするアデアデと。彼はどんな奴だ?」
「彼女、だ。そりゃあすげぇやつさ。あいつはマンガ家だった。絵も言語力も感性もピカイチ。特に色彩感覚がずば抜けている」
「もう一つ聞かせろ。彼女は……。アデアデ出身のアデアデかね?」
「地球育ちと聞いている。俺も姉貴もあいつのマンガを読んでいた。作者があんなやつとは知らなかった。あいつがその気になれば俺たちは何度も死んでた。名を知りたいか?」
「いや、いい。フゥー。変わらんな。俺では変えられなかったか、アデアデを……。アデアデこそが最も文明の進んだ星である証拠だな。芸術と言うものは! 非合理と不条理の荒野あるいは密林から生じるもの! つまり未開の秘境だ。アデアデはもうそうではなく、未来でもそのようだ。地球はまだ秘境なのだな……。誇るがいい。効率と統率だけが全てではいかんのだよ。……遺言は、これで十分だ。未開の秘境であれ、アデアデよ!!」
そのキシ(黒)から約200メートル北。いくつもの壁を隔てキシ(白)は逃亡していた。よく見える。イツキの瞼の裏には逃げるキシ(白)がよく見える。
さすがにこの力の使い方まではフジも知らなかったので教えられなかった。即ち、マインの遺した能力の一つ“千里眼”。マインは目を開けたまま千里眼を使用できたが、イツキは瞼を閉じて物理的に視覚をシャットアウトしなければ千里眼を使えない。しかしキシ(白)の位置は掴んだ。その景色にイメージで円を描き、それをくぐれ。これもマインの遺した能力“ポータル”だ。しかし今のイツキでは一人での瞬間移動しか出来ない。
「ぐぬっ」
逃げが効かずキシ(白)の額に冷や汗が浮かぶ。壁をすり抜けるなんてレベルじゃない。空間と距離をすり抜けてくる追跡者からは逃げられない。
「何者だ、貴様」
「犬養樹」
「名前のことじゃねっぞガキ」
「これでもあなたよりかなり長く生きています」
「ほほう、いいな。どこの美容クリニックで整形手術を?」
「キシ・モクシの人生をわたしは知らない。でもセリザワ・ヒデオ……。アブソリュートミリオンの最期は知っている。彼はこんなところでは死なない」
「お前も未来から来たとかいうのか?」
「わたしは過去から来た。ここは既に2……」
「過去? ム……。残念だ。続きは聞けない」
キシ(白)が大海に落ちた一滴の墨汁のように空気に混じって消え失せた。分身が解除されたのだ。
「何故俺を見逃す?」
黒白の袴のキシがフジに問う。分身を解除することが、キシがフジに向けられる最大の誠意だった。フジの表情を読むのは簡単ではない。アッシュがいなければミリオンは事実上詰んでいたこと。アブソリュート・アッシュはここで簡単にアデアデ星人に勝ってはいけないのだ。ミリオンを解放させるにしてももう少し時間をおく必要があるのでキシを殺すことは出来ない。それにフジ・カケルはアデアデ星人に恩があった。
「ネタバレはしねぇが、今から大体25年後、すさまじい才能を持ったアデアデ星人が生まれる。俺はそいつのファンだったのさ」
「そのアデアデに随分と苦しめられたようだったが?」
「ああ。アーティストとしては最高、だが敵としてはマジでもぉう……。手に負えねぇ。それでもあいつのマンガが読みたい。親父を返せ。そうすればあいつに免じてお前を見逃す。培え。アデアデ星を再び、芸術が芽生える未開の秘境にしろ」