第10話 アブソリュートミリオン標本
1969年(仮)。
一人の男がオフィス街を歩いている。口角はフェイスリフトの整形手術のように吊り上がり笑顔、生気はないのに血走った目。背広に革靴に七三分けで黒い鞄を抱えてオフィス街を歩く。
「たぁのしぃ~! 仕事楽しいぃぃぃ。僕も晴れて課長だぁ! アッハッハッハ!! ……。フンフンフゥ~ン」
歌っているのは社歌。猛烈社員だ。仕事以外に生き甲斐のなくなった、いや、仕事以外に生きることを止めてしまったモーレツ社員がこの男、真泥担雲、通称マディだ。
「生きるって最高だぁあああ!!! ああああああ!!!!」
光化学スモッグを胸いっぱいに吸い込んでシャウト。24時間365日働きながら生きていけることに歓喜の絶叫を禁じ得ない。しかしこれは本音であり彼は正気である。度を越えた時間外労働と無休……しかし仕事はやればやるほど褒められ、必要とされると嬉しい。そのため彼はこの勤務体制を好み、自ら進んでこなしている。仕事がこんなに充実した生きがいになるなんて! 自分が仕事を苦にしない人間……。性格の向き不向きや「やれ」と言われた仕事、「やろう」と思えた仕事をやって褒められる能力を備えていたことで彼の生き甲斐は仕事以外に何もなくなった。
彼は果たして幸せだろうか? 一般論では不憫な男だろう。だが彼は会社のために過労死なんて最高の最期だと思っている。幸福なのだ。
そして、恐らく彼が過労死することはない。
「こんにちはァーッ!!! はじめましてェ! セリザワ・ヒデオさん! いや! アブソリュートミリオン!!!」
「なんだァ貴様は」
「地球の言葉には不慣れなもので! 通じてます!?」
「日本語だろうと英語だろうとバカが使うと会話にならん。消えろバカ野郎」
「ワタクシはこういう者です!!」
マディはケースから地球の日本語で書かれた名刺を取り出してセリザワに渡した。
アデアデ星 (株)ノワール・コーポレーション 第二十八特理科学研究所 研究局基礎研究課課長 真泥 担雲
「アデアデ星人が何の用だ? またどこかで生物を拉致して研究しているのか?」
「前任がお世話になりましてェ!! 課長はいい人でしたが、仕事中に死にしましてねェ! アブソリュートミリオォン!」
「やはり言葉が通じていないようだな。だが一応聞いてやる。俺に復讐しようというのか? 前にも貴様と同じ肩書のアデアデ星人がやってきた」
「そんなことは全然どうでもいいんですよォ!!! 復讐ゥ!? バカ言っちゃいけません!! 課長はいい人でしたが僕に比べて奉仕の精神が足りなかった! おかげで僕は課長になれた。前課長の残した仕事の後始末に追われて、何人かは半分機械の体になっちゃいましたけどねェェェ!! でもポジティブに考えなきゃ! あなたは僕に希望と奉仕の機会をくれた! 会社のためにも僕が課長になるべきだったんだ!」
「そいつはよかったな。同族、ましてや直属の上司を殺した相手に感謝するなんてどうにかしているぞ。礼はいらん。そのつもりがあるなら俺の前から消えろ」
「僕はァ! ボーナスで贅沢しようなんて思わない! でも出来高は働いた証! そういうことだ! あなたを殺して会社に貢献するぞぉ!」
なんと涙ぐましいモーレツ社員!
未来の言い方で言えばブラック企業に勤める社畜の企業戦士は必殺のジョークを披露するコメディアンのように手を広げた。するとマディとセリザワを包む風景が変化していく。ビルはより高く、車はより大きく。行き交う人々は巨人になり、ネズミが怪獣になった。次にクモ、次にアリ……。地面の砂が岩石になり、やがて窪みだらけの小惑星に……。マディとセリザワだけが縮小されているようだ。しかし体に違和感はない。このまま縮小が収まれば何かが、恐らく戦いが始まるのだろう。セリザワは腰の刀を抜き、柄をなじむ位置に調整して正眼の構えをとる。新調したばかりの刀ではまだ勝手がわからないこともある。だが試し斬りの相手が向こうから来るなんて好都合だ。
今度は足元からビルが生えてきた。次第に大きくなるビルはマディとセリザワの背を追い越し、先ほどまでと変わらない高さとなった。
「ここは……。アブソリュートの神器に似た空間か?」
「この空間は我々が開発したミクロ化技術の最高峰ゥゥゥ!!! この空間の名前は地球人及びアブソリュート人では発音できないのでミクロの世界、で構いませんよ。今の僕たちは人間の精子よりも遥かに小さい状態です! しかしィィィィ!!!」
マディが自らの喉笛を素手で引きちぎった。喉仏まで摘出され、神経と血管が引きずり出されている。夥しい量の出血の噴水からメガネを守るべくセリザワは構えを解かねばならなかった。
「ハイッ! 無傷!」
「……どういうことだ?」
しかし今のマディは、血塗れではあるものの平気な顔でスピーチを続けているのだ。
「地球人を構成する細胞の数は約37兆とも言われています! 今のあなた! つまり身長170センチのセリザワ・ヒデオの細胞の数を37兆とします! しかしアブソリュートミリオンに変身すれば身長は40メートル! 細胞の数も莫大に増える! でも37兆でも十分! 今の僕たちは細胞より小さくても、元の体と同じ力を持ったままだァァァ! 細胞一つが壊された程度では人は死なないし、死ななければ再生する! ここでは死ぬほどのダメージを受けても、実際には細胞一つ分しか傷つかなァァァい! ミクロの世界で体力は170センチと同じ! 出力と消耗はミクロ! つまりここで僕を殺すなら37兆回殺さねばならない! 可能だと思います?」
「三秒で一回殺すとしても40万年以上かかるな」
「出来ないと言わないんですね! 企業戦士の素質がありますよ! もちろん40万年かかって37兆回僕を殺すことだって理論上出来なくはない。本来170センチの体で消耗して老衰するはずだったエネルギーもここでは細胞一つずつ順だ。37兆回、老衰で死ねるほどですから時間もたっぷり! しかしやはり回数と時間の問題だ。37兆回殺すこと、アブソリュートの平均寿命5000年×37兆! ここで気の済むまで殺しあっても最後は精神力だ! 37兆回死ぬうちで白旗を上げた方の負けだ! この戦い、僕の勝ちだ! 僕の心は絶対に折れない!」
「……」
狂人!?
アデアデ星人は他の星の生物を標本にする危険な異星人。マディの言っていることが本当ならば既にアブソリュートミリオンはこのミクロの世界でマディもろとも標本にされてしまった。
マディを倒せばここから出られるとして、三秒に一回マディを殺しても40万年。今のところマディが強いようには思えないので、殺しあえば先に37兆回死ぬのはマディの方だろう。しかし40万年!
何か手があるはずだ。まだ詰んではいない。
そうだ。マディもこのミクロの世界にいる。ならばこのミクロの世界をアデアデ星に持ち帰る誰かがいなければならない。先に37兆回死ぬのがセリザワならば、マディがアブソリュートミリオンを相手に大金星を挙げた報告をするためにはマディが三秒に一回ミリオンを殺すとしても(まぁ不可能だろうが)40万年後。マディの上司も死んでいるし会社ももうないだろう。アデアデ星すら存在していないかも。
マディを突き動かすものはあくまでも会社、ひいては母星への奉仕! アブソリュートミリオンに同僚を殺されたことへの復讐ではないのだ! ならばまだ詰んではいない!
「どうしますかアブソ」
「ディ!」
やかましいんだよ、畜生が。
切っ先がマディの心臓を貫き、セリザワはマディの胸を蹴って刀を引き抜いた。刀に血と脂の汚れがない。さっきまでと同じ新品同様だ。
「あと36兆9999億9999万9998回。言いたいところですがサービスだ。服や武器もクリーニングと補修しますよ。僕たちの寿命と死ねる回数は少し減りますがね。でもまぁ大体37兆回で40万年だ。希望は見えてきました?」
セリザワは納刀して腕を組み天を仰いだ。
「長丁場になりそうだ」
「そうですね」
「俺の話も少し聞いていくか?」
「主語がどれだけ大きい話だろうと構いませんよ」
「貴様もアデアデ星人ならばアブソリュートミリオンのことは最近まで知らずとも俺の兄のことは知っていたはずだ」
「はいもちろん。初代アブソリュートマンですね。彼を超える戦士は未来永劫生まれないでしょう。神話に達したまさに史上最強だ」
「そんな兄がいる俺だ。誰も俺と兄を比較したりはしなかった。追いつけないのは誰の目から見ても明らかだからな。だが俺は少しでも近づきたく、訓練を積んだ。そして兄がこの星で一年間戦い、地球に平和が訪れた。そしてすぐに俺がこの星に派遣された。だが俺の肩書は戦士ではなかった。調査員だ」
「調査員?」
「アブソリュート人が一年間地球にいたことの影響の調査と観測。それが俺の仕事だ。俺はこの星に戦いに来たのではない。調べに来ただけだ。だが俺の調べによれば、兄がこの星を去ったことでこの星を狙う不逞の輩がいることが明らかになった。俺は勝手に戦った。戦士ではないのに。俺は命令もないのに勝手にこの星を守っていた。兄のようにはなれずに苦戦続きだ。だが星はミリオンを戦士と認め、地球を任せると言ってくれた。だがこの孤立無援こそが……。俺を成長させてくれた気がする。曲がりなりにも“戦士”の仕事と呼べる仕事が出来るようにさせてくれている。孤立無援を誇っていた。孤立無援を嘆いたことはなかった。俺は孤立無援でなければならなかった。だがようやく気付いたよ。孤独は辛い」
「そうでしょうね。人は誰かに評価されて! 人となる! 人を評価することが、人に評価されることが! 必要とされることが、必要とすることが! よくやってくれた、ありがとう! その言葉を聞きたいがゆえに言いたいがゆえに命だって捨てられる! そういう価値観もある! もちろんすべての人がそうとは限らない! なぁなぁで生きる! 休む! それはイコールではない! それぞれの価値観があり! 僕たちはそれを互いに尊重しあい! 似た価値観の人間、あるいは利害の一致する人間を見つけ、切磋琢磨したりして心の傷を埋め! 心の棘を削ぎ! 幸せになるべきなんだ! 人は一人では生きられない! あなたの言う通りだ! 孤独は辛い! 僕は一人だったらこんなに奉仕しない! 少なくともアブソリュートミリオン! アデアデ星人にとっては……アデアデ星人のエリートモーレツ企業戦士、マディに脅威と恐れられる存在だ! まともに戦おうなんて思えば身の毛もよだつほど恐ろしい相手ですよ!」
「気を使わせてすまないな」
「お世辞は企業戦士の得意技! しかし敬意を含んだ本音は企業戦士の必殺技!」
「その必殺技、なかなか効いたぞ。しかし貴様は殺す」
「37兆回?」
「いや、もっと手早くな。先ほども言った通り既に俺は孤立無援ではない。……頼んだぞ、アッシュ」