第1話 産声
“カキツバタ” アヤメ科アヤメ属
湿原に群生し、紫色の花を咲かせる。
“ケヤキ” ニレ科ケヤキ属
美しい紅葉になる。
“サギ” ペリカン目サギ科
長い脚と嘴を持ち、コロニーで生活する。
“アメリカザリガニ” エビ目ザリガニ下目アメリカザリガニ科
アメリカ合衆国を原産とする外来種。大きな個体は20cmを超える。
“マゴイ” コイ目コイ科
ただのコイ。
1969年(仮)。この男、セリザワ・ヒデオが散歩している大型の都立公園では、生息する種の名前の表示と簡単な解説があった。外来種であるアメリカザリガニですら、ここでは種として保存されている。
「……」
強い日差しを避けてケヤキの木陰のベンチに腰掛け、アイスクリームを舐めながら将棋の本を広げて詰め将棋を解いた。栞の代わりに挟んでいたのは、丁寧な字で綴られた淡いピンク色の便せんだった。ここに挟んでおけば、嫌でも思い出す。
“セリザワ・ヒデオ様”
突然のお手紙と非礼をお許しください。単刀直入に申し上げます。
殺してほしい男がいます。
あなたの正義と実力と見込んでのわたしのお願いです。
差出人との待ち合わせ場所は今日。この公園だ。
「セリザワ様ですね?」
「ああ」
依頼人は便せんや文字から想像した通りの育ちの良さそうな若い女性だった。白いワンピースに白い帽子、鼻持ちならないサングラス、公園の土を踏むには不向きな高級そうなサンダルで、すらっと伸びた背筋がこの手紙がイタズラや男女のもつれの成れの果ての腹いせではないと教えてくれる。
「ご無礼をお許しください。失礼ついでに、このようなお手紙を出したわたしも本当の名前を名乗れません」
「構わん。俺の正体をご存知なんだろう? ならばセリザワ・ヒデオが本名ではないことだって知ってるだろう」
「では、わたしのことはクラダと」
「わかった」
「殺していただきたい男は、この男。ウラオビ・J・タクユキです」
クラダの差し出した写真に写っていたのは容姿端麗な20代の若者。クラダの服より高級そうなスーツに身を包み、ワイングラスを持ち、シャンデリアのあるフロアで陰のある微笑を浮かべている。肌つや髪質、肉付きから察せられる年齢には似合わないステータスだ。
「この男は何をしようとしているんだ?」
「自殺です」
「バカバカしい。ならば死なせてやれ」
「いえ、この男の“思い通り”になることは何一つ許してはいけません。死さえも。この男の命も野望も行動も、全てを断たねばなりません。この男の最終目標は、自らの死の掌握。つまり自殺を持って締めくくることで、人生の全てを成功させる……。その死を迎える前に、多くのものを残そうとしている」
「お前さんは命や人生というものを知らなすぎるんじゃないか? これはどうだ?」
セリザワはマッチをこすって両切りのピースに火をつけ、平和な自然公園の澄んだ空気に肺の中にくぐらせた煙を放った。
「タバコは命を縮めるが俺は構わん。だが死ぬ前に子供も持ちたいし貯金も欲しいから作る。後世も金も残す。この生活では健康に過ごすより早く死ぬだろうが、俺は俺の目標を果たすし死ぬときは死ぬ時だ。目標達成のために行動しつつ命を縮める行為は自殺か?」
「ウラオビは生きていてはいけないのです。後世も金も意志も、全て。もうあなたに頼るしかないのです」
「なんだお嬢さん。何があった? 何がお前さんをそこまで固執させる?」
「ウラオビはゴア族の血を引いています」
「……またあいつらか。いやいや、ゴア族にも生きる権利はある。ゴア族というだけでは俺が殺す理由にはならん」
「正確にはウラオビはゴア族ですらありません。ゴア族と地球人の間に出来た子供。分類不能の生物、いえ、怪物」
「バカな。人間とゴア族の混血だと?」
ゴア族とは次元の壁を越えて侵略してくる異次元人の侵略者であり、その多くは他の生物に暴力を振るって奴隷にする凶暴で危険な存在である。人間に似た骨格を持ち、擬態することも可能だが頭蓋骨の構造は全く異なり、擬態というよりも変身に近い。
「そしてわたしの異母兄妹」
〇
ウラオビ・J・タクユキは女を抱いていた。今日の相手は地球人の女性だ。
ウラオビの美貌と財力、社交性があれば、深窓の令嬢だってスケバンだって。数年がかりで大量のお金をかけた攻略もちょろっと街角で声をかけて連れ込むのも容易。
今までに何人抱いてきただろうか。関係を持った女性の年齢を並べれば干支が全部埋まるかも。関係を持った女性の写真に女性の誕生日を書けば日めくりカレンダーを作れる。関係を持った日でも埋まる。
「ウラオビさん」
「僕はそろそろ帰るよ」
ウラオビの気は晴れなかった。
ウラオビは女性に配慮しない。安全のための距離を取らない。でもウラオビの子供を身ごもったという女性はまだいない。ウラオビの財力や正妻の座は狙う価値のあるものなのに。他の男との子による托卵でだってウラオビにすり寄ることは出来たはずだ。
答えは一つ。この世の理がウラオビに子孫を残すなと告げているのだ。ゴア族と地球人の間に生まれた分類不可能の呪われた怪物の存在はウラオビ限りで滅びろ。ウラオビが作り、育て、貯めたものは何も残さずウラオビ自身で使いきれ。そういうことなのだ。
ウラオビは懸命に生きた。呪われた出生に抗い、生きた証を刻むために。
ウラオビの生まれた家は社会的地位も経済状況も高いいい家だった。まさかそんな家にゴア族と地球人の間の隠し子なんて! 地球人として生きるか、ゴア族として生きるか。どちらも生物であるため、種を残し、保存することが存在の理由で目標だ。しかしウラオビには……。
この世に強引に作ったキメラは要らない。既存の種……例えば地球人、ゴア族、アブソリュート人、カキツバタ、ケヤキ、サギ、アメリカザリガニ、マゴイのようなものと、進化の先ある新種があればいい。
何を残す? 何を残せる? ウラオビ・J・タクユキが生きた証をどう残す?
「伽藍、首尾は?」
「上々です」
それは罪だった。
罪を犯し、子々孫々まで語り継がれる悪魔として恐怖と遺恨の対象であるしかない。それでさえ、人々の記憶からは数代で薄れるだろう。
「しかしボス。本当にいいんですか?」
「いいか。二度と躊躇うな」
奪っても奪っても殺しても殺しても満ち足りない。これはゴア族の性かウラオビのパーソナルか。家を出たウラオビは、犯罪を用いてたった一代で財を築いた。この財も自分で使い切らねばならない。最後は全ての金に火をつけて、そこに身を投げて死のうかな。ヤクザの世界にウラオビはもう必要不可欠。彼が金と一緒にこの世を去れば影響は計り知れない。
「顧客の情報は全て流しました」
「ご苦労。伽藍、最後に休暇をとったのは?」
「いつでしょうね。割と俺はのびのびやれてますよ。なにせボスはすぐに女を抱きに行くからサボる時間もたっぷり」
「そうかい? じゃあたっぷりサボってくれ。おつかいだ」
「おつかい?」
「お前の知っている中で最高の紅茶かコーヒーを一袋。客人が来る予定だ。みんなは殺気立ってしまうから、僕一人で会うよ」
「誰です? また女ですか?」
「アブソリュートミリオン」
「……今、一番殺したい相手っすね。変なこと、考えてないですよね?」
「変なこと?」
「もしもあんたがミリオンと手を組むなんてことになったらゴア族にとってはこれ以上に恨まれることはありませんよ。あんたの追い求める罪だ」
「つまらないことを言うね。むしろ僕はミリオンに殺されたかったよ」
翌日、ウラオビは部下全員に休暇を与え、アジトでアブソリュートミリオンをもてなした。伽藍の買ってきたものはコーヒー、紅茶、ワイン、クラッカー、チーズ、ビーフジャーキー、生ハム、ラスク、クッキーその他。アブソリュートミリオンへの気持ちが有り余っている。少しでも長く引き留めて、偶然でもいいからミリオンに出会ってブチ殺したいという伽藍の思いがあふれている。
「ようこそ、ミリオン」
予習はバッチリ。ミリオンの趣味だという将棋盤を用意し、一夜漬けで将棋のルールと戦法を学んだ。少し遊び相手になるくらいなら十分だ。
「挨拶は要らない。ウラオビ。貴様何がしたい?」
「罪を犯す」
「何故?」
「あなたが来たということは、妹が僕を死なせようとしているんだね? わかったよ。僕は地球人でもゴア族でもない。わからないんだ。だから僕は種として理に残るのではなく、概念として伝説に残ることにした」
「俺も自分の出生が不明だとしたら?」
「どゆこと?」
「俺には父と母が一人ずつ、兄が一人、弟が三人、妹が一人いるが、その誰とも血縁がない。父がどことも知れぬ場所で拾った孤児が俺だ」
「でもアブソリュート人でしょう?」
「かもな。だが俺だけ肌が青い。両親と兄弟は赤が銀だ」
「些末なことだ。まさかそんなことで僕を止める気? やめないよ、悪いけど」
「だろうな」
「逆質問だ。あなたはどうする?」
「さぁどうしよう。貴様を殺してやろうかな」
「殺す」。
この言葉が簡単に飛び出した。
「いい響きだ。まるで……胡蝶蘭の美しさと雑草の強かさを併せ持つ。ちぎってもちぎっても生えてくる胡蝶蘭。有難がるべきかな? 大した男に殺されたものだとかえって誇りに思えるよ。正常で清浄で性状の殺意。興奮してきた……。あれは3年前の大晦日かな? 偶然声をかけた女の子は胸が大きいいい女だと思ったら、その子は女優だったよ。あの子とベッドで新年を迎えた時よりも興奮する」
「死にたい男の言葉とは思えんな。長生きしろよ」
「長生きか」
ウラオビはため息をついてワインとクラッカーで少しいい気分になった。アブソリュートミリオンを前にするとさすがのウラオビもあがってしまう。
「あなたの娘が、僕の子を産めるかどうか試してみるかい?」
「……あぁ?」
こんなことがあるのか。
触れたら火傷する氷。触ったものを凍結させる炎。
何年生きようと培えるものではない、生来の冷酷と激情の果てにある殺意。なんて尊い。巨乳の女優なんてメじゃない。この世の全てに純粋なんてものはない。ありとあらゆる事由の絡まりによるパターンが美しいのに、ウラオビの存在は許してくれない。
「あなたの娘の名前を教えてあげよう。ジェイドだ。上から言うよ。まずあなたの最初の子供はレイとジェイドの双子。そしてかなり年の離れた末っ子にアッシュがいる」
「何を言っている? 俺は独身だ。生憎貴様と違って不愛想でな」
「肌の色は、レイが赤、ジェイドが白、アッシュはあなたと同じ静かな青だ。アッシュとあなたは笑えるくらい瓜二つだよ。激情はレイへ、冷徹はジェイドへ、そして以外とだらしない私生活はアッシュに受け継がれる。よかったね。子を残せるよ。ハハハ……。あなたが殺してくれないなら、僕の最期はジェイドに任せたいな」
「くだらん。てめぇの最期も知らんボケナスに俺の未来が占えるか。お前は自分のことをご大層な悪人だと思っているようだが、そんなものではない。アフリカでシマウマを食い殺すライオン、ネズミを食ってる猫と変わりはない。それが悪か? 大したことない悪だ。貴様の存在もその程度だ。人間、或いはゴア族の域に留まる悪。何故俺がわざわざ貴様を殺さねばならない? 法の裁きを受けろ。もしくはスピリチュアルなカウンセリングの世話になれ」
「そういうところ、あなたの次男にそっくりですよ。やる気がわきました。絶対にあなたに殺してもらう」
「いい加減……」
セリザワのティーカップに注がれていたのは紅茶だったが、透明度が落ちてマーブルになる。ミリオンの父が拾ってきた、どこの生まれとも知れない血が口から落ちたのだ。その味も異常も今のセリザワには大きな問題ではない。喉に発生した激痛が彼を苛み、メガネをかけているのにグラグラと視界が揺れる。
「目だけじゃなくて舌と勘も悪いとはね。それとも種族の差にあぐらをかいたのかな。御覧の通り、毒ですよ」
「ああ……毒だな……。だからどうだと」
「大丈夫。あなたは死なせません。僕を殺す役目、或いは生き延びてジェイドに僕の子を産ませるか、ジェイドに僕を殺させる役割がある」
毒で身動きが取れなくなったセリザワの胸に拳銃の銃口が触れる。追いつくのは目の動きだけだ。
「そういうことで、あなたに毒を食らわせたのはただあなたを怒らせるためです。撃つのも同じ理由です。あとこれからあなたに火をつけますけど、それも同じです」
銃声と同時に毒で濁った血が口から噴き出し、耐えがたい激痛に切歯扼腕する。最後にウラオビは、血の混じった紅茶にさらに灯油を振りかけて、動けないセリザワを置き去りにして火をつけた。
「ラブホテルの相場っていくらだったっけ? しばらくはホテル住まいだなぁ」