第35話 君と僕の名前
それは、とてもとても幼く小さいアブソリュートマンの姿。
今までに地球人が見たことのあるアブソリュートマンは全て青年以降の姿で、アブソリュートの星の出身だった。だがこのアブソリュートマンは地球生まれ地球育ちで、まだ文字も覚えたばかりだった。
黒地に白骨を模した白いライン、耳まで裂けた口を再現した模様、隈取。異形の姿だったが、彼は純正のアブソリュート人だった。
そんな彼よりも大きくそびえるのは、光の輪を背負った聖母のような人工的なアブソリュート人だった。三十二メートルとアブソリュート人として小柄でも、まだ息子は彼女の身長に追いつかない。
「僕もお母さんみたいに変身出来るんだ!」
「ええ。この姿になったあなたの名前はちょっと違うけどね。わたしも燈じゃなくマインよ。でもあなたからは変わらずお母さん、でいい。お嫁さんを連れて来るときはマザコンだと思われるからオフクロ、にしてね。その姿になったあなたの名前は、“X”。カイとも読めるし、あなたの未来は全くの未知。あなたはどのアブソリュート人も歩んだことのない人生を送る。だから未知を意味するXでもあるし、お父さんの名前から一文字借りてるし、どんな数も代入できるから何者もなれるし、それに全アルファベットのうちでXから始まる単語が一番少ない。誰よりも特別な出生のあなたにピッタリ。それに……」
「それに?」
もし自分が改心すれば、あるいは自分の理想のロードマップから息子が外れ、息子だけでもまともな道を歩めば……。息子はアブソリュートでX、“十番目”の戦士になれる。
六大レジェンドに数えられる初代アブソリュートマン、アブソリュートミリオン、アブソリュート・キッド、アブソリュート・ホープ、アブソリュート・ブロンコ、アブソリュート・プラに加え、新進気鋭のジェイド、いつか戻ってくるはずの天才レイ。そして、息子が敵対するにしても切磋琢磨するにしてもいいライバルになるはずのアッシュ。この九人に並べる十番目の戦士にだってなれる。
「X。X!」
「今はまだ、あなたにはちゃんと名前の理由があるってことを覚えていてね」
意外にも燈はいい母親だった。カイをちゃんと小学校、中学校に通わせ、地球の義務教育を受けさせて、日本の生活に馴染んでいた。日々成長し、身長の伸びる息子ともう歳を取らない母。親子の時間の流れに歪みはあっても、燈は親子に見えるように服装や化粧を変え、若いお母さんとして保護者会にも出席していた。だが愛が薄まっていく。息子が順調に育ち、自らが母として立派になるほど自分も息子も理想から遠のいていく。だが一度、愛でひび割れた理想は元には戻らなかった。
息子には心があった。前向きで、優秀で、明朗な心が。息子にするなら可愛いし将来有望で最高でも、神にはなれない。息子として満点でも、最大の難敵であるジェイドを超えることは出来ない。少なくとも、自分が育てているうちは。
「ほほう、デカくなったな、小僧」
「ヨシツネさん、『北斗の拳』読んだでしょう? 身長は僕の方が高いもんね」
その矛盾を強く指摘したのは、計画の一端と家計の支えである偽札工場長のヨシツネだった。人生に一切のXがないように製作したヨシツネ。燈は彼を愛せなかった。お腹を痛めて産んだこと、そして人生の不確定要素の有無は大きな違いだが、息子の成長に焦りすぎた燈はヨシツネを見てますます息子への愛着を失った。
追い打ちをかけるように大親友の外庭が老化と寿命のシステムで狂って暴走を始め、その遺志を汲んで、托卵ゴア族である犬養樹、因幡飛兎身、深浦貞治、目ヶ騷夜の存在を知った。この子たちなら、ゼロから育てた息子よりも、失敗した時の心の傷が浅くて済む。そして外庭は死んだ。
ここからしばらくの間、カイの記憶に燈は登場しない。少しの間の空白を経て、ジェイドは誰かの心を通して自分を見ることになる。
「あなたの名前はシーカー」
ラストシーンに焼き付いているのは、果たして母か、師匠である自分か。
〇
フジ・カケルの大好物。
まずはコンビーフだ。こいつを特定のスーパーでしか売ってない安いフェットチーネの乾麺で作ったペペロンチーノに混ぜ込んで山ほど粉チーズをかけると絶品だ。缶詰からそのまま食ってもいい。
次に天かす。ごま油をかけてめんつゆを一滴、それをかき混ぜて口にかきこんだ時の世紀末な快感。
そしてマグロだ。
少し前に回転寿司でとにかくマグロを食っていた時にフジはこう思った。女の子はマグロだと。
最初に、いいマグロ、そうでもないマグロがあるが、これはあまり問題じゃない。付き合うにしてもいきなりマグロを一本持ってきて素材そのまま「召し上がれ」ではなく、女の子は自分という素材をもっと調理して持ってきてほしい。おしゃれとかトークとかで調理して、寿司とかムニエルとかそういう食える状態で持ってきてほしい。その点、鼎はよくやつてる。
だが“ミスター・チルドレン”のくせに女の子をマグロ呼ばわりするのはあまりにもダサいので、女の子は金塊に例えることにする。金貨や延べ棒にしてこそ黄金だ。それにこれは女の子だけではなく、男だって、何にだって例えられる。
マインがいつか息子のライバルになる、と脅威に感じていた頃のアッシュはまだ近畿大学の生け簀を泳いでいるマグロだった。今はバリアーというネギの乗ったネギトロだ。
ジェイド・レイ・アッシュvsXYZの最高の対戦カードを名勝負に出来るかは、演じる四人の腕前次第。マグロを一本調理するのだって、まずはチェーンソーで首を落とし、デカいマグロ包丁で解体し、精巧な柳葉包丁で刺身に仕上げる。
XYZという最高の素材を前にレイが、ジェイドが、そしてアッシュに。……自分でいいのか? 最後に盛り付けるのがアッシュでいいのか?
見てろよ……。見てろよ鼎……。
アッシュの全身が眩い稲光を纏い、XYZが目を抑えて怒声をあげる。期待も野心も重圧も、全てまとめてこの三分に置いてこよう。
「セ」
00:01
「アアアッ!」
00:02
「ゴボーッ!?」
「シアアア!」
「ゴブ……」
メガネがないのに視界良好! 遠近感、カラーリング、視野、全てがピシャリだ。まるで外す気がしない。素材が努力し、結んだ実の味は甘くて酸っぱくて、後味の切なさがまるで禁断の果実。
「セアアアッ!」
後ろ回し蹴りが下顎骨を粉砕、縫われた鍵を支えられなくなって口が強引に押し広げられ、バーナーがよだれかけのような火傷を残す。
「此の餓鬼がぁ……」
「シャッ!」
タイミングを合わせて交差法でカウンターの強打! 怨念の記憶のタペストリーに穴が開いた。手ごたえアリッ! これも効くのか。全てが通用する。着想、検討、判断の一連がスムーズかつスピーディー、そして拳から伝う感触で、花丸! 高揚と興奮の渦中なのにベストパフォーマンスだ。努力の肯定はコンプレックスを薄めながら、拳を濃いものに変えていく。
00:59
「セ」
自分で決まってしまっていいのか? ジェイドやレイでなくていいのか? アッシュの葛藤とは裏腹に、世界は今、言っている。「お前でいい」と。
「アアアアアッ!」
「ゲア!?」
XYZの嗚咽ですら、今のレイには弟への後押しに聞こえる。これを聞いて迷ってしまうのは、もうアッシュだけだ。
「アッシュ、お前でいい」
「シエアッ!」
OK、Google。教えてくれよ。信頼は実力で買えた。期待は信頼で買えた。じゃあ格は何で買えばいい? 俺の為替でそれは買えるのか? 額は足りてるのか? 「XYZを倒す」。この格を俺は買ってもいいのか?
ついでに教えてくれよGoogle。このまま勝ってしまった場合、ヒーローインタビューでは開口一番何を言えばいい? 感謝か? それとも自己紹介か? 一発ギャグか? 後世のガキはその一瞬をuTubeで何度も繰り返し見て、アッシュに憧れてバリアーの特訓をするかもしれないんだぞ。
極限でこそ試される! 鍛えられる! 重い。怖い。尊い。ようやくアッシュの元にも、“お誘い”がやってきた。
こんにちは、“ヒーロー”……。ようこそ、“アブソリュートマン”の称号……。XYZなんていう極上の相手と一緒に卒業のダンスパーティーなんて、こんな贅沢をしたのはまだジェイドだけだ。
「シャルウィダンス? セラ!」
「ゴボーッ!?」
決まった。顔面に渾身の跳び膝蹴り。かつて燈は、オタサーの姫を鼎から強奪しようとしていた時にポケモン勝負で「考えナシに『とびひざげり』を撃って外す人って本当にムリ」とか言っていたが考えナシで撃っても命中! こうかはばつぐんだ! 急所にあたった!
「グググ……」
「セエエ……。日本で唯一許される暴言にして命令だ。ボーッと生きてんじゃねぇよ。立て。立て!」
251万3299の怪獣の人生がXYZを立たせてくれない。こいつらは全員、アブソリュートに敗れた怪獣たち。一度誰かに負け、オリジナルのXYZとして三十五年前にジェイドに負け、三度目の敗北をアッシュから喫するというのだろうか? もう諦めていないのは、大将であるXYZだけなのでは? 立たない訳には行かない。誰かが勝手にタオルを投げないようにするために、怪獣たちは一人の代表を擁立して全てを任せた。誰もタオルを投げはしない。
「ギィリアッ!」
「シッ」
XYZの拳の加速前に神速のナックル! もうダメージのカットどころか、軽いはずの一撃が重く重くなり、心に効く。あぁ、あぁ……消えるよう、消えるよう。戦意が、魂が、寿命の燈火である口の炎がもう消える。複製XYZのベースになった喜怒哀楽のうち、最も多く書き込まれたのはイツキの哀だが、そうでなかったとしても、オリジナルのXYZだったとしてももう心が持たない。効かない、効きすぎる。
02:51
「まだだ。勝った気でいるな、ガキ!」
XYZが上体を起こし、最もオーソドックスなアブソリュートの基礎中の基礎のファイティングポーズをとった。行き詰まりを感じたアッシュが原点回帰して“オーバー・D”を編み出したように、XYZも最後に頼るのは原点中の原点だったのだ。
勝負所! 消える寸前の蝋燭の輝きは眩い。引退ラストイヤーのスポーツ選手は強い輝きを放つ。彼らと違って満身創痍で死に体のXYZだって最後の最後にはまだ何かあるはずだ。
それにここで勝てるような相手を倒したってジェイドに追いつけるとは思えない。三十五年前のジェイドより自分が強いはずない。ジェイドもXYZも、もっと強い。
カウンター……。
今日イチで入ったあの一撃が忘れられない。それに理に適っている。ここで待って、見極めて確実に止めを刺さねばならない。
02:55
「ガキじゃねぇ。俺の名はアッシュ。アブソリュート・アッシュ! さすらいの星クズは、ジゴワットの輝きだ!」
「ガアアッ!」
絶望、疲労、負傷でXYZのフォームが崩れた。狙いと気持ちが逸れ、アッシュへの攻撃が不完全で、おおよそ格闘とは呼べない闇雲なものになってしまっている。しかし、アッシュももう後の先で動き始めてしまった。
「悪食なもんでねぇ。くら寿司だろうとスーパーの温いネギトロだろうと美味しくいただけるもんで!」
03:00
黒と青、二本の腕が交差し、黒ははらいに、青はとめに。
「……」
「……」
03:01
アッシュを包む稲妻が消失。
「……クソ」
フジが買うだけ買って使うことのなかった、カップルが使うゴム製のグッズの厚みより薄い0.01秒、足りなかった。あそこでカウンターではなく、先制打で潰しに行けば時間は足りていた。不覚! 紙一重より薄いゴム製のグッズ重の差が、最後の最後にアッシュをフったのだ。向こうから誘ってきたくせに、遠ざかっていくアブソリュートマンの称号と偉大な先達の背中。
「死ぬかと思った。この俺が死ぬかと思ったんだぞ。おかしなものだ。俺は、お前を……」
「それ以上はいらないわ」
「あ?」
「殺すのが惜しくなる」
XYZの顔を照らす炎はかつてない程弱まっていた。口の炎にかき消され、その顔に光が差し込むことはなかったのに、海の彼方に消えつつある太陽の輝きが鈍く反射した翡翠色の光の溜まりがゆらゆらと揺れる。
「ジェ! イ! ドォォォ!! またお前かァァァ! グルァ……。やはりお前を殺さねば、終わらないようだな」
シーカーの記憶の追体験を終えたジェイドは凛と神器ジェイドセイバーを握り、何も言わず何も放たず、XYZ、レイ、アッシュの注目を一身に集める。秒針、長針、短針の違いはあれど、今の軸はジェイドであるように三本の針は彼女の周囲を回るだけになる。
「アッシュ。ありがとう。よくやってくれた。ごっつぁんゴール、もらうわね」
「……」
アッシュはまだカウンターパンチの体勢から、声帯一つ動かせていない。
「俺の力が弱まっていく。何をした、ジェイド」
「シーカー……」
彼の名前はアブソリュート・Xではない。その名前は強制的に捨てられた。記憶を消去され、捨てられるどころか爆弾として利用されても、マインが期待したものも、ジェイドが見出したものも同じ。彼と彼が描く明るい未来、その探求。心残りだったのは、シーカーと名付けられた時よりも、Xの名を知った時が喜んでいたことだ。母には勝てない。
「シーカーの“喪”の弾は、撃った相手の魂と力を最適化・最小化する。ゴロゴロとした岩の塊を器に入れれば隙間が出来る。岩より砂利、砂利より砂、砂より水。魂をデフラグして整頓することで、力が最小化される」
「なるほどな。まさに俺を倒すためだけのようなものだ。……シーカー? 誰だ?」
「またの名を、X」
「X? 知らんな」
「あなたの息子よ」
〇
「ロードは何をするつもりなんです?」
「ロォードってのはやめてよ、燈でいいってば、イツキちゃん。わたしがやろうとしていることはとても簡単よ。そしてイツキちゃんを救えるかもしれない」
「だから何を?」
「フフフッ。全生命のお母さんになっちゃう。そしてイツキちゃんをその特別な長女にしてあげる」