第34話 世界中を僕らの涙で埋め尽くして
『あ』―「後回し」
『い』―「生き恥」
『う』―「憂き目」
『え』―「えこひいき」
『お』―「orz」
『か』―「枯れ葉」
『き』―「帰宅部」
『く』―「くたびれもうけ」
『け』―「けぎらい」
『こ』―「こんなことなら」
『さ』―「冷めた目」
『し』―「しょうがねぇだろ!」
『す』―「雀の涙」
『せ』―「世知辛い」
『そ』―「損」
『た』―「立ち往生」
『ち』―「着払い」
『つ』―「疲れ」
『て』―「手間」
『と』―「取り柄」
『な』―「なけなし」
『に』―「ニート」
『ぬ』―「濡れ衣」
『ね』―「根無し草」
『の』―「のけもの」
『は』―「恥晒し」
『ひ』―「非道」
『ふ』―「不公平」
『へ』―「屁理屈」
『ほ』―「褒められ下手」
『ま』―「負け犬」
『み』―「ミジメ」
『む』―「無茶ぶり」
『め』―「面倒」
『も』―「申し訳ございません」
『や』―「ヤなやつ」
『ゆ』―「ゆっくり話してください」
『よ』―「余計な一言」
『ら』―「楽ばっかりしようとするな」
『り』―「離職率」
『る』―「類は友を呼ぶ」
『れ』―「連絡先を聞かれなかった」
『ろ』―「ロクデナシ」
『わ』―「割れ蓋に綴蓋」
『を』―「ヲタク野郎」
『ん』―「んん?」
引き続き、犬養樹の心に迫っていく。このどうしようもないカルタは犬養樹の語彙ですぐに出てくる言葉が列挙された犬養樹のネガティブカルタである。確かに彼女らしい陰鬱としたフレーズの宝庫だが、視点を変えてみれば……。
例えばフジ・カケルがこのカルタを作った、と言われてもどこか納得してしまいそうで、二人の共通点が意外と多いことがわかる。つまりあんなんでもフジ・カケルも少なからずネガティブな部分があるという訳だ。そしてフジ・カケルのネガティブの理由は簡単にわかる。
姉のようになれない。兄のようにもなれない。誰よりも父に愛されたのに兄弟の中で一番弱い。姉にも愛されたのに、もう姉の一番は自分じゃなく弟子になってしまった。バリアーを使ってようやく戦士として数えられるようになったのに、みんなが褒めてくれたのはバリアーじゃなくて「バリアーを加算して及第点に達した自分」だった。実はフジのバリアーを一番褒めてくれたのはあの駿河燈だった。だからそれっぽい理由をつけてトーチランドに捕まり、敵であろうと褒めてもらいたかった。
とても危ない状況だった。“オーバー・D”の使用で興奮し、凶暴化していなければ鬼畜の因幡飛兎身の挑発は全て正鵠を射ていた。マトモに食らっていたらしばらく立ち直れなかっただろう。
それでもフジ・カケルは今日を生きている。クズ、ゴミ、カス、虫、ゲボと呼ばれても。つまり同じネガティブでもネガティブを開き直ってネタにして生きていけるフジは心の傷がまだ浅い、ということになる。
同じバリアーの使い手で同じネガティブ。バリアーを心だけを映す鏡に替えれば、フジとイツキ、二人の心は色が違っても形は似ているのかもしれない。
それでも二人には褒めてくれる人が少なからずいる。
姉は言った。
「強くなったね」
兄は言った。
「お前は強くなれ」
父は言った。
「俺を超えていけ」
宿命のライバルは言った。
「勝ちは勝ちだろ」
相棒兼師匠は言った。
「フジくんは頑張ったもの」
憎悪の相手は言った。
「フジさんのバリアーはスゴイ」
XXXは言った。
「ファックユー」
だからまだフジは頑張れる。
では犬養樹はどうだ?
完璧な同僚は言った。
「イツキちゃんは本当にいい子だねぇ。一緒にいて疲れないよ。イツキちゃんはわたしを羨まないから気を使わなくていいもん」
短気な歌姫は言った。
「結構いい声してるよね。もっと声を張れば歌も上手くなるよ」
悠長なシャクレは言った。
「……。今日もクールビューティーだな」
時代錯誤な英雄の虚像は言った。
「本当にいい運動神経してるな。ルールブックと優秀なトレーナーがいればどの競技でも一年で金メダルだろう」
最強の助っ人は言った。
「お前、意外といいやつだな。お前はお前が思うより、人に好かれていると思うぞ」
心の痛みを和らげてくれた燈火は言った。
「イツキちゃんは一から十までキャワイイから大好き」
性格もポテンシャルも容姿もセールスポイントも人格も、全ても褒めてもらえているのに。フジより多角的に褒められているのに。褒めてもらえた時は心が和らいでも、反芻すると皮肉に聞こえてしまう。燈の言葉だけが真実だった。
犬養樹が駿河燈の信用を勝ち取るより、駿河燈が犬養樹の信頼を得るほうがずっと難しかったのだ。
だがそれも壊された。フジ・カケルと望月鼎がトーチランドでの蓄積を全て崩壊させた。
「あああ。代用品でしかないんだ。バリアーを使えるようになってしまったから、わたしはフジ・カケルの代用品でしかなくなったんだ。フジ・カケルがいればわたしはいらなくなる。むしろ目覚めない時の方がまだよかった。ヒトミちゃんと違って事務仕事も出来ないしパソコンも苦手だし覚えも悪い。クジーのBトリガーはヒトミちゃんも使える。ジョージくんと違って男じゃないから力仕事はさせてもらえないし蛍光灯の交換ももう任せてもらえない。ヨルちゃんみたいに明確な特技を持っていない。運動神経? 運動神経っていうのは“競技”という型にハメてようやく強みになる。わたしは何にも特化していない。……目標がない。方向性がない。持て余してる。その点、ヨルちゃんの歌はいい。ヨルちゃんはそもそも歌が好きだし、歌の才能を喜んでる。ヨルちゃんは一生歌と添い遂げられる。わたしはどの競技ともそうはなれない。ヨシツネさんみたいな強い自惚れもない。無力だっていい。少しだって自惚れが許されるのなら、わたしはミジンコより無力でもいい。バースさんみたいな実績もない。バースさんがわたしくらいの歳の頃は既に片鱗以上のものを見せていたはず。わたしは誰かの代用品でしかないんだ。だからわたしの代用品は探せば見つかってしまう。誰かの一番に、ずっとなりたかった。でもわたし自身がみんなを軽んじていたんだ……。みんなはわたしのことを好きになってくれないってナメていたんだ。……。ああああああああああああああ!!!! 違う! わたしは少しも自惚れてはいけない! そんなことをしたから、調子に乗ったから望月さんに拒絶された。みんなわたしのことなんか……。一人で生きよう。感情と感傷を捨てよう。人の言葉を真に受けるのはもうやめよう。真実だろうと虚構だろうと、わたしという人間は勝手に猜疑心のフィルターをかけて誰かの優しさを無にしてしまう。優しさと承認は救いだ。でもわたしはそれを受け取れないし、与えられない。みんな悪くない。わたしだけが悪い。わたしの運命が、性根が……。一人で生きよう。ありがとう」
透明な心がヒビ割れて白く濁っていく。膨れ上がった悲しみはまるで目の前の東京ドームのようだ。
「イツキちゃん」
「ロード」
「もうその呼び方はしなくていいよ。もう主従じゃなくていい。燈でいい」
「ナンデ? 主従の利害関係があるからわたしみたいなものはロードと触れ合っていてよかったのに」
「逃げよう、イツキちゃん。大義やマジョリティに逃げよう。本当にすごいやつはそんなことしないけどね。本当にすごいやつは既存の選択肢ではなく新たな選択肢を打ち立ててそれをマニフェストにして生きていく。でもそれは、あのバースにすら出来ないことなのよ。レイにも出来ない。所詮、あいつは強さの追求というマジョリティ中のマジョリティだからね。あれはあれで楽な生き方よ。わたしもそろそろそっちに行こうかなって。ならお供はイツキちゃんがいい」
「……ナンデ?」
「知ってた? 人間って三回、なんで? って深掘りされると答えられなくなって、ブッ壊れて、人間だから! って答えるしかなくなっちゃうの。あと一回よ。でも弱い人間でいいじゃない。人間でも知らんぷりして強い人間に混じってれば、ドサクサに紛れてサンシャインにも勝てるわ。ニューサンシャインは無理かもしれないけど」
「負けるんですか?」
「わからない。でもイツキちゃんは連れて行く」
「ナンデ?」
「に、に、人間だからぁ! イツキちゃんのことがキャワいくてたまらないから。負けようが勝とうが、トーチランドだってイツキちゃんと始めたじゃない」
〇
「ガルァ!」
ジェイドの表情の変化を読み取ったXYZの勘が危険信号を発する。レイにタックルをブチかまし、ジェイドへの速攻を仕掛けるがスカイブルーの障壁が五枚重ねられて分厚い一枚へと変わる。突撃の威力が殺された。しかし密度の高いバリアーにダメージを負い、アッシュにフィードバックが入ってしまう。脳に直接打撃を受けたような強い立ち眩みだ。
「グルア!」
ばきぃ! しっかり踏み込んでからの頭突きがバリアーを粉砕し、視界を開く。ついにアッシュが力尽き、四つん這いになって吐き気、痛みに抗うのが精いっぱいになる。しかし最低限。透明度ゼロのバリアーをスクリーンにしてジェイドがXYZの死角にポジショニングをとる。
「兄貴!」
「ジェアッ!」
レイのミドルキックはXYZの強靭な筋肉の反発で強引に相殺され、足を掴まれてしまう。怒愚遮唖!! 冬の体育で二重跳びが出来なくて猛獣使いごっこをするバカ男子の縄飛びみたいにレイがぶん回され、最後は地面を貫いて上半身が地面から地下道にぶら下がる。
「ジェッ! “ゴールデ」
「イグジウム光線!」
ジェイドのネフェリウム光線、レイのメガトウム光線の同系統であるアブソリュートの基本中の基本、必殺光線が初代アブソリュートマンのファクティウム光線と完全なる左右対称で発射された。“黄昏の戦士”と称えられる初代アブソリュートマンとは時計の針で十二時を挟んだような漆黒の夜の色だ。その夜闇がレイの体に触れて暁になり、地下街を完全に爆砕してしまった。
「……これ無理じゃね?」
レイにはまだ息があるがもう限界だ。レイを主軸にすると決めた戦いだったのにレイがダウンしてしまった。
「次はお前が死ぬか? 小僧。お前は一番どうでもいい。お前は今までに誰か殺したか? その誰かは俺の中にはいない。ただしジェイドはここで殺す」
「……シ」
脳から全身を刺激する電気信号が分泌される。それは迸る稲妻となり、アッシュの思考そのものまで凶暴に書き換えていく。
「テアーッ」
「グエッ!?」
BLAM! 墨で払うような儚い漆黒の弾丸がXYZの背中に突き刺さった。
「ジェイドォ……。何をした? 何も効いていないぞ」
「……」
ジェイドはAトリガーの銃口をXYZに向けたままフリーズしてしまっている。“喪”の弾に対応するシーカーの記憶が膨大かつショッキングで、それをダウンロードするのに時間がかかってしまっているのだ。
「好都合! ブチ殺してやる!」
「セアッ!」
三本の光の矢が背中の傷を抉り、肉を切り取って、激高して血圧の上がった血はいつもより遠くまで飛び、管制塔のガラスを黒い血で染める。
「ガキが……。……? なんだ? なんだ!?」
アブソリュートマン:XYZの複製、Xerox Yourself Zero。背中に激痛を覚え、それを解消することが出来ずに脳内が混乱し、片膝を着く。
「なんだこれは!」
〇
――……
「お母さん、今日はヒゲのおじさん来るんでしょう?」
「今日はヒゲのおじさん、ケーキ持ってきてくれるかもね!」
寿ユキは質素なアパートの一室に立っていた。部屋の中には少し埃が舞っていて、キラキラと日光を反射していた。しかし寿ユキに影はなく、和室の一組の親子……都築カイの面影がある三歳くらいの子供と、今と全く同じ顔だが服装や化粧がだいぶ大人っぽい駿河燈の影が西に延びていた。この服装や化粧なら、この二人は兄弟じゃなく親子にも見える。そしてチャイムが鳴った。
「ヒゲのおじさんかな?」
燈がカイを細枝のような腕で抱っこして扉を開けると、そこにはギャグなぐらいワイドに展開したカイゼルヒゲのジェントルマン、外庭数がニヤニヤしながら有名パティシエの店の箱を掲げ、カイに見せてやった。
「元気かね? カイくん」
「アイムファイン!」
「おやおや、英会話も教えているのかい? まさか君が教育ママゴンになるとはな、マイン」
外庭の笑顔に偽りはなかった。外庭でさえ欺こうとしない相手、マイン。そして欺くことも出来ない無垢な子供、カイ。これが本当にカイの記憶なのだろうか。
「カイはなんでもよく覚えてくれるもの。それに『いちご100%』を読んだばっかりだからパティシエへのリスペクトが高まってるわ。ケーキには期待しちゃうぅ」
息子を通して伝わってくるこの燈の幸福さえも真実なのか……?
「皮肉に聞こえてしまったならすまんな。君が教育“ママ”になるなんて」
「皮肉には聞こえてないわ。この子をわたしの理想にする。時にはこの子の為に妥協や譲歩をして……。それでもこの子ならわたしの理想を叶えられる。そう信じてる。これって母の範疇でしょう?」
「甘いのう。女性に歳を聞くのは失礼だが君はもう一万二千歳だろう? たった三歳の子供に絆され、愛で理想が濁っている。辛くなるぞ。愛か理想、どちらかの為にいずれどちらかを捨てねばならない。決断は早くするべきだ。見ている方も辛くなる」
「カイが変な言葉を覚えたらどうするの? やめてよ、“ヒゲのおじさん”」
「そうじゃのう。カイくんにメロメロなのはワシも同じじゃ」
「それに理想を子に期待することに何の問題があるの? この子が初代アブソリュートマンを超えてくれれば何も問題はナシ」
「問題はなかろう。保険をかけていることが問題なんじゃ。君は長く生き過ぎた。寿命とは全く、なんと優れたシステムだろうか。医者だからこそ、そしてワシも老いたからこそわかってしまう。寿命は美しい。ワシが預言してやろう。一万二千年……。初代アブソリュートマンに憧れ、約三千年をかけた理想と、たった三年の愛。このチキンレースが始まれば、三千年の累積が必ず勝る」
「だったらどうするというの?」
「その時はワシがこの子を引き取ろうかのぅ。ゴア族族長がアブソリュートの子を貰うなど酔狂なことだ」
「寿命なんてものがあってもこの子がもう少し大きくなるまでは死ねないけどね」
この約十三年後、この幸せな三人の笑顔は消え失せる。カイが理解出来ないのをいいことに、話している内容はとてもおぞましいのに、三人とも幸福だった。外庭はGODの火炎に焼かれて焼失し、カイは……。こんなに幸せそうな母が、憎悪に歪めた醜い嘲弄の中で灰になった。
「そうだ。こんなものをいくら見せられたって、マインがカイを惨殺する未来は変わらない」
ケーキの甘味、細腕から伝わる母の温もりに苛まれながら、ジェイドはもう少しこの辛い追体験を続けることになる。
〇
「セアッ!」
「グゴォ?」
「シェアアア!」
「グバッ!?」
「セアアッ!」
アッシュの攻撃が突如、XYZに通用するようになった。再生も超耐久力も、格闘技術による防御もなく、弱体化したXYZはアッシュの打撃、蹴撃、連撃のダメージカットをほぼ行えずそのまま受け入れ、攻撃を受けた個所から衝撃と一緒に体力と気力が体を通り抜けていく。XYZの中に、“喪”の弾を無効化出来る怪獣の記憶はなかった。精神と肉体の葛藤がより強くなる。
「ガキがァアア!」
「姉貴! ……はまだ無理か。でも話は別だ」
「ああ!?」
「ここで勝負が決まるんなら話は別だって言ってるんだよボケが。三分で片づけてやる。“オーバー・D”だ!」