第33話 俺は寝てたい
ネガティブは全てを書き換える。実力も真実も。その例として、東京都大田区出身犬養樹を挙げよう。
犬養樹には自信がない。自己肯定感がなく、何をしても満たされない。
彼女の周囲にいる人間から見て彼女の評価すべき点、羨ましいくらいの何かは皆無じゃない。鋼の筋肉を華奢に収めた美ボディとクールビューティーなフェイスはジョージに惚れられるくらいだったし、二四四センチメートル二〇〇キログラム超のベンケイすら凌駕して羨むほどの身体能力は、50m走4.2秒、ベンチプレス260㎏、助走なしドロップキックの打点260センチ。顔、骨格、容姿も運動神経も天性のものだ。十分に素質はある。それでも彼女には自己を肯定することが出来ない。
「イツキは絵がお上手ね」
両親はそれぞれ書道と水墨画の大御所。才能か教育か、それともこれなら褒めてもらえると思ったのか、墨の扱いは上手かった。でも両親を超えることは出来ない。超えることを求められていないし、超えるつもりもない。ただとても嬉しかったこと、数少ない肯定の歴史……。貯金のようなものとして彼女に貯えられていく。嬉しかったが、欲しいものではなかった。
彼女の人生の転機は三つ。
①東京ドームのビール売りのお姉さんに憧れる。
②大学で先輩に恋をする。
③駿河燈と出会う。
ビールのお姉さんはコミュニケーション、ノリとテンションが美しく漲って溢れていた。ビールのお姉さんはイツキが欲しい全てを持っていた。彼女は“これ”になりたかった。欲しいのはこれだ。褒められたいのはこれだ。あの頃はまだ“鍛える”ことが出来る程自分の将来や自分自身に希望を持っていた。
先輩は飄々としていていい感じに脱力していて多くを求めず、それでいて楽しそうに過ごしていた。何も持っていなくても満たされる人生はある。まるでフジ・カケルのようにマイペース。イツキはそう生きたかったし、先輩と初めて話した時にビビッとインスピレーションを感じた。この人なら自分の人生を書き換えてくれる。この人と一緒にいるだけで相対的じゃなく絶対的な幸せを感じられるはずだ。でも何も動くことは出来ない。何一つ自分を肯定出来ない犬養樹は、先輩が自分と付き合う際の先輩側のメリットを何も見いだせなかった。先輩がもし付き合ってくれても、先輩が自分に投資するような価値は自分にはない。可能性はゼロだと勝手に感じていた。
駿河燈は自分のありとあらゆるものを褒めてくれた。身体能力、容姿、ポテンシャル、戦闘センス……。彼女は満たされた。だがそれは永続的なものではなく一時的な心の痛み止めに過ぎない。だから駿河燈からの肯定の供給がなくなったり、誰かからのほんの少しの否定でガタガタに心が崩れてしまう。駿河燈の痛み止めに依存しきっていた犬養樹は、望月鼎からの拒絶で駿河燈からの肯定貯金を全て失ってしまう程のダメージを心に受けた。善意だったはずなのに。厚意のつもりだったのに。肯定は1.1倍に、否定は11.1倍に彼女の心に影響を与える。
犬養樹には、彼女の性格やバックボーン、人生とは別に、彼女を否定するだけの“ネガティブ”という呪縛が生まれつきかかっているのだ。
彼女の悲しみを書き記すには、まだ余白が足りない。
〇
堂に入った拳銃操法の基礎から“鏖”の散弾が発射される。アブソリュート戦士の力がこもった超常の弾しかないのがもったいないくらい、通常の弾でも百発百中なくらい美しいフォームだ。実はフジがカイのことを嫌っていた理由の一つに拳銃の扱いの上手さがある。地球に来たばかりの頃、また和泉とつるんでいたフジは、「アブソリュートに依存しない地球人の戦い方」として拳銃の訓練も受けていた。何かと手先は器用なフジなので和泉には及ばずとも心得があったが、カイはフジよりも拳銃の扱いが上手かった。最期まで無鉄砲な少年ではあったが。たった一か月習っただけなのに、生まれた時から銃を握ってきたみたいに惚れ惚れするほど似合っていた。それでもジェイドは見様見真似でそのカイ、フジさえも越えていく。
燈の花火で丸焦げにされ、アブソリュート・ジェイドに変身するための虹彩さえ焼き尽くされた寿ユキは、土壇場の土壇場で初代アブソリュートマンの“光”の弾に自らの復活の願いを託し、見事それが認められたのだ。
そして鏖鏖鏖!
同じ種類の弾とは言え、本来の持ち主である都築カイですら不可能だったAトリガーの連射! XYZの右足を粉微塵にして体勢を崩し、重力に従って降りてきた胸、顔が切り刻まれる。胸からは血が湧出してバラバラになった顔面からは頭蓋骨が覗けた。確実に絶命しているはずのダメージを負ったXYZがうつ伏せに倒れ、口を縫っていたレジェンドのカギが真っ先に再生する。蒸気と気泡が右足、胸、顔から上が……
「ジャラ!」
レイが全体重を乗せ後頭部にストンピング! XYZの頭部が圧し潰されてレイの足の海抜がたった数メートルになる。がしっ。頭の機能を失ったXYZが右手でレイの足首にエロティックに手探りで指を這わせ、力を込めて血の流れ阻止する。
「セアッ!」
だがそれもそこまで。バリアーのギロチンが右腕を切断し、黒いマスターハンドにしてやつた。さらにレイの踏みつけの威力が『大乱闘スマッシュブラザーズ』での300%のダメージに匹敵するのか、このマスターハンドは一発で動きを止める。初代PKサンダーや初代ファルコンパンチ以上の威力だ。
B メガトウム光線
←→+B マッスル・クローズ
↑+B スタリオンアッパー
↓+B ガンマドライバー
アッシュがバリアーで分断と遮断、レイがピンポイントで肉弾、ジェイドが射撃と役割分担し着実にXYZを削っている。羽田空港は、XYZが再生する際に発生する、変身したアブソリュート人なら無害なレベルの赤黒い蒸気に包まれていた。立ち込める靄は温泉地ならスケベ親父が混浴と勘違いしたふりして鼻の下までお湯に浸かって潜むレベルだ。
「ヒトミちゃんがいないと話し相手がいなくて困っちゃうぅ。イツキちゃんが捕まんないなぁ」
それでもなお、負けるなど一向に考えない、駿河燈! 自ら開発した法律に触れるようなアプリ満載のデコデコスマホでイツキの居場所を探る。フジ、ユキ、頑馬、メロン(本体)、メッセ、和泉、鼎の居場所が似顔絵付きで表示されるストーキングアプリもその一つで、ジョージ、ヨル、ヒトミの似顔絵は桜田門に程近い非公開の拘置所に重なっている。ヨシツネとベンケイはもういない。イツキのポップで陰気な似顔絵は東京23区内で最も大きな建物……東京ドームの縁から動かない。
「でもあの兄弟に分別があってよかった。死んだとはいえヨシツネとの約束がある。全てが終わった後は傷の浅い日本を差し出すってね」
でもXYZは聞いていない。
「ガッ!」
蒸気がアッシュの喉元に一点集中、原形を保っているXYZの胴体から骨格を無視してゴム紐のように腕がピンと伸び、力の流れに逆らったアッシュの踵が滑走路を割ってめり込んだ。息が詰まり、脳へ運ばれるはずの酸素が制限される。
「このハゲェー!」
アッシュ一人ならテンパってただろうが、今は頼れる兄姉がいるしやることはシンプルだ。バリアーの縦の動き。羽田空港の外に行きそうな攻撃は遮断し、自分に届きそうな攻撃はバリアーのギロチンで切断する。これだけだ。
「グルァッ!」
ばりばりっ、ぼぉう!
アッシュの首を掴む右腕に避雷針が必要なほど強烈な電撃が流れて青の戦士を怯ませ、半分だけ再生した顔面がアッシュを睨み上げる。その左目の瞬きの度に、瞼の先で火の玉が大きく燃え上がる。エレジーナの電撃にクジーの火球だ。ようやく、XYZもこの体の使い方を思い出してきたのだ。
アッシュにとってトラウマの攻撃、クジーの火球。バリアーで防いでもなおフィードバックと火傷を負ってしまうほどの超火力だ。これを生身で耐えられるのはもうアブソリュートでは初代、レイ、ジェイドだけだ。
「独眼竜なら渡辺謙の許可とってからやれ。セアッ!」
援護射撃の“鏖”の弾が右腕を切り刻んでアッシュへの電撃を止め、Δスパークアローが火球ごと左目を射抜き、衝撃でXYZの首の骨が折れて段違い平行棒になった。
「レイ! 追撃はいらない!」
「あ?」
「再生に終わりが見えない。闇雲に攻撃してても疲れるだけよ。ここで流れを変える」
シリンダーを回転させ、次の弾を装填してレイとサイドチェンジ、アクロバットの蹴り技でジェイドもXYZへの肉弾の感触を確認し、至近距離に銃口を突きつけ、引き金を引いた。この弾は誤射した場合のリスクが大きすぎる。密着が必須だ。
「アブソリュート・プラの力! “水”の弾」
XYZの苦しみ方と蒸気の質が変わる。苦悩から苦悶へ、宿痾から猛毒へ、化学薬品的な無機質なにおいからわざとらしいくらいのフローラルな芳香への変化で血がさらに濁り、体を蝕む猛毒の湯気の中で蓋を剥がすように吐血した。
ばしゃしゃ。蒸気の量が減ってきた。苦悶と嗚咽の度にXYZの全身の血管が脈を打ち、一つ打つごとに筋肉が隆起して肥大化していく。五十三メートルの巨体を持つレイとアブソリュート人として標準的な四十メートルのXYZの違いはあれど、XYZの筋肉はレイのアスリートの筋肉ではなくボディビルダーの域に達する異常なバルクに膨れ上がっていく。一人と呼ぶにはデカすぎる! 二人と呼ぶと辻褄が合わない! トレーニングの知識で補わなければ身に着くことのない筋肉、そして原始的暴力のオーラ。エンパイアステートビルのようで軍鶏であり、獅子のようでブルジュ・ハリファ、マリーナベイ・サンズのようでカジキマグロ!
「ギィア」
“水”の弾で絶え間なくダメージを与え続けて再生能力を消費させ続けるジェイドの策は裏目に出た。おそらく毒に耐性を持つ怪獣の体質と強靭な筋肉を持つ怪獣の記憶がフラッシュバックして体に還元されたのだ。全身の免疫と代謝を刺激されたXYZは肉体が活性化し、どの怪獣の力も借りずフィジカルで敵を殴り倒す快感を思い出した。
「そういえばお前は誰だ?」
「あぁ?」
「お前は誰だ? 俺の記憶の空白期間中に生まれたアブソリュート人か。なら後回しでいいな」
驚異的代謝で毒を無効化したXYZがアッシュから興味を失ってジロリとジェイドに視線を送り、挑発的に指をさす。その腕と首を巻き込んで背後からレイが締め技に入るが、リーチの長さが災いして締めが成立する前に筋肉の瞬発で回避され、レイの五体の可動域を一瞬で看破して胴に不可避の蹴りを入れる。婆遮。レイのいた地点からXYZ側には血が、反対側にはレイの巨体が舞い、尻もちをついて一瞬力が抜けた。
「どうすんだよ姉貴! 兄貴が殴り合いでワンパンされたぞ! 三十五年前のXYZはどうやって倒したんだよ!」
「強い。三十五年前よりも圧倒的に」
「強いかどうかじゃねぇ! どうするんだって訊いてんだ!」
黄金の粒子がXYZの背後のレイに集まる。天からの糸で吊るされるが如くレイが立ち上がり、目や体の要所に黄金のプロテクターを纏った強化形態を見せる。
「誰がワンパンだ? ジャラ!」
「ンガァッ!」
そして激しい肉弾戦が始まる。レイが逆水平を打てばXYZはボディブロー。XYZが正拳突きを放てばレイはアイアンクロー。体格と攻撃力ではレイが勝っているが、防御力とスタミナではほぼ無限のXYZが有利。あの懐かしい飛燕頑馬vsマッスル・Aのように、その差が徐々に露わになってくる。
「ジェアアアアア!!」
気炎万丈! レイのプロテクターの輝きが増し、上体を押し込んでXYZの背骨を逸らして制圧する。XYZを中心に標高ゼロ以上は生命力の火炎、ゼロ以下は二人の肉体派アブソリュートマンの体重と威力の乗ったアイアンクローでヒビが入り、XYZの足の標高をどんどん下げていく。
「ガッ!」
「ジェエ!?」
レイの手首のプロテクターが煤けて剥がされた。ジェイドだけがまだ戦ったことのない、クジーの火球がXYZの目から放たれたのだ。さらに口のバーナーでレイの顔に邪悪な火炎を浴びせ、男前を台無しにしてしまう。
「ジェアッ!」
焼けた手でXYZの頭部を滑走路に叩きつけ、離脱してようやくレイは痛がる、というノルマを果たす。そこを逃さず、自らの骨格を無視した伸びる手! ゴムの要領で本体から離れれば離れるほど前進する力は弱まるので伸びるパンチは弱いが、レイのこめかみを素通りしてから伸縮の戻る勢いで後頭部に一撃入れ、特大の巨人をどついた。
「レイ!」
「かなりマズい。こいつは大事になるぞ。秘策はないか?」
あのレイが秘策なんてものに頼るほどか。この戦いで最も多くのダメージを与え、そして受けたレイはもうXYZの異常な強さを嫌になる程知ったのだ。それはほぼ傍観者だったアッシュでもわかる程の途方もなさ。しかもこれからどんどん、怪獣たちの技を思い出して強くなっていく。戦いを楽しむとか強敵を超越するとかそんなことを求めていては勝てない相手。力をつけていつか再戦を挑むからと、それまで野放しにすることも許されない圧倒的な悪と力。
「死とはなんだ? 俺は何者だ? 何故死ねない。俺の中にいる251万3299は全員死んだ。何故その代表である俺だけ死ねない? それとも俺は三十五年前にジェイドに倒されてもう死んでいるのか? 死さえも超越、超克、克服することが251万3299の願いだったのか? 俺が生きることが。違う。俺の使命は復讐だ。無論、まだ死ぬつもりはない。アブソリュートは全て殺す。それが第一の使命だ。死ぬのはそれからでいい」
「セアッ!」
ジェイドを狙ってXYZの口から噴射された邪悪な火炎がアッシュのバリアーで遮断された。バリアーからのフィードバックはない。バースの火球よりはマシな威力のようだが、これだけでもアッシュにしては頑張った方だ! 以前のアッシュならフィードバックを恐れてビビってバリアーすら張ることを躊躇っただろう。レイが肉弾で敗色濃厚になるまでは三分限定の“オーバー・D”でレイと一緒に速攻を仕掛けることすら視野に入れていた。ギロリとXYZの双眸がアッシュを捉える。アッシュに死はどういうものか教えてやろうという目だ。
「秘策はあるんだろう!?」
「ある」
ジェイドが掌を開き、その上の一発の弾丸を穴が開く程見つめる。
「わたしはあなたのことを全然知らなかった」
そう、これを撃てば、このアブソリュートマンの記憶と感情が流れ込む。このアブソリュートマンのことはよく知っているはずだった。それが正しかったのかどうかが、これから試される。
「アブソリュート・シーカーの力! “喪”の弾!」