第72話 格の問題
「セエアッ」
「ドドアッ!」
ディエゴの最後の勝負が始まった。合図はなかった。鼎は隣に座るラーナがごくりを唾を飲む音を聞き取った。ディエゴはフジに自分のキャリアの介錯をさせる。つまりディエゴという戦士はここで死に、これが終わればただのディエゴ……王冠も傲慢も自信も失い、ただのデカブツとして生涯を終える。
ラーナはスマホを少し操作した。そして無言でそれを鼎に見せた。画面に映るのはヒジリ製菓の株。既にラーナはヒジリ製菓の株を持っているようだが、売るか追加で買うか迷っているようだった。
「……」
フジのメインスポンサーはヒジリ製菓。かつては負ける姿が想像されなかったレイ、ジェイドも含めた三兄弟のスポンサーだったが、レイとジェイドは休業に入ってフジだけが残った。フジが負ければヒジリ製菓の株価に大きな変動が起きる。だがここでフジが上野を壊滅させたディエゴ・ドラドデルフィンを仕留めれば株価は上がる。だが、もしディエゴが勝ってしまえば? フジは引き分けも含めてディエゴに三戦勝ちなしということになる。ラーナは……株を売りたいのだ。何十年も戦い続けたディエゴの疲れは理解する。恋人としてそれを支え、癒してきたつもりだ。負けたことで降りたいディエゴの気持ちもわかる。だが、最強のディエゴ・ドラドデルフィンに心を焼かれたのだ。
「セエアッ!」
ディエゴの出力にマイナスの補正がかかっている。今までならこのコマンドで一〇〇パーセントかそれ以上の力が出せたはずなのに、メンタルの問題、ブレイズ戦で暴走してしまった狂化状態の代償で筋繊維と神経に不治の損傷が生じている。それならば素手で十分に流せるはずでありながら、フジは掌に小さくバリアーを展開して攻撃をいなした。この戦いがブレイズ戦を見据えたスパーリングである以上、ブレイズのプロキシウムチャクラムを防ぐバリアーの精度と強度の確認は必須だ。そして通じない、ディエゴの打撃。ディエゴもブレイズのスタイルに合わせて関節技や投げ技を使わず、手を使った打撃を多用している。
「……」
距離が離れたタイミングでフジは少し目を閉じた。はっはっ、と聞こえるディエゴの細かい息継ぎ。この程度でバテる男じゃなかっただろう……。宇都宮ではじめて出会った時は怪物。上野で戦った時は天災。その男が今はすべてを失いかけ、最後に残ったものをフジに刈り取らせようとしている。
やめだ。もうやめだ。
「セエアッ!」
不意打ちというにも雑に、世界に一つだけのドロップキックが決まっていくぅ! この程度の攻撃を避けられないのはディエゴの油断だ。よたよたと後退し、屋上の鉄柵にもたれかかろうとしたディエゴは……そのまま路上へと転落した!
「バリアーのスライダーだと!?」
鉄柵から伸びる青いバリアーの滑り台は、年始セールの新宿に暴君を運んだ。後頭部を強か打ち付けてひっくり返った巨漢をディエゴ・ドラドデルフィンと認識する市民はいない。リーゼントがないからだ。
やがてアブソリュート・アッシュがディエゴの真正面に立ち、市民はこれが戦いでこの巨漢が怪獣か宇宙人であると理解して避難を開始したりスマホを向けたりした。
「姉貴のジェイドは総合力最強。兄貴のレイは殴り合い宇宙最強。じゃあ俺は?」
「知らねぇよ」
「教えてやろう。俺とお前さんがはじめて戦ったのは宇都宮。あの時も俺はお前さんを階段から叩き落し、ある場所に誘導しようとしていた。オリオン通り。北関東最大の商店街だ。そう……俺は! 商店街最強アブソリュートマンだ。新宿は商店街としちゃデカすぎるがな」
「商店街最強? 運動会でもやるのか?」
すぐにメッセが飛び降りてきた。メロンは分身で観戦を続け、ポータルを使えない鼎はどうやって続きを見るのか。結局彼女は彩凛でもジェイドでもイツキでもなく、ラーナのポータルで運ばれてやってきた。この戦いの当事者はフジとディエゴ。そしてその恋人である鼎とラーナだ。
「少しは燃えてきたか?」
「少しな」
去るための儀式に使われるのはやはり気分が良くなかった。少しでも強いディエゴを倒さねば意味はない。ブレイズも、ブレイズに憑依したXYZも大きな敵だ。だがやつらを倒すためにディエゴとの因縁をうやむやにするのは、いくら負けが多いフジでも気分が悪い!
商店街最強。その肩書で少しでも燃えてほしかった。
「じゃあまずはジャブだ!」
「ドドエエエ!?」
悪い手癖で盗んだ殺虫スプレーをディエゴの顔面に噴霧! プロレスで用いられる毒霧とは違う本物の毒の霧! 激しい苦みと目の痛み、至近距離で霧を大量に吸ったことにより指先に痺れが生じる。ディエゴは痺れた指で顔面をかきむしりながら水を求め、彷徨った。そしてその視界は完全な闇に覆われた。ぺたりと顔に密着する嫌な感覚……。
「ゴムマスク!?」
今度は激安量販店から盗んだ怪獣のゴムマスクと毒霧で呼吸、視認を妨害されて平常心を著しく乱された暴君は顔面をさらにむしる。毒霧の湿気がゴムマスクをより強く顔面に張り付け、毒と呼吸困難でさらに指が痺れた。
「セエアッ!」
ボディフックが三連発! ブレイズ戦で痛めた肋骨を的確にクラックし、ディエゴは痛覚でフジの精密動作性と抜け目ない観察眼を……褒める気がしなかった。嫌になった。
嫌になった? そうだ。フジに腹が立っている。少しずつ、こいつと戦おうと思い始めている。
「セエアッ!」
トラースキック! 無視出来ぬ強打を受けたディエゴは嚇怒の怪獣マスクのまま片膝をつき、激しく酸素を求めた。だがマスク内で循環する気化した毒霧……。
「そろそろ顔を洗いたいか?」
悪い手癖がまたもや発動! 強炭酸の飲料にラムネを放り込み、爆発的に弾ける泡をゴムマスクの首元に差し込んだ! 注入された炭酸水はマスク内でディエゴの目、耳、鼻、口をくまなく無慈悲に蹂躙し、覗き穴からぶしゃああと噴水の勢いで水が噴き出した。その炭酸にディエゴは溺れた。
「セエアッ!」
溺れたディエゴを襲うのは、激しい悪臭と高熱……。ゴムマスクごとクレープキッチンカーの鉄板に押し付けられ、マスクが有毒ガスを発生させながら溶けている。これが商店街最強アブソリュートマン。あるものはすべて使う!
「クソガキャアアアアアア!!!」
引退試合のスパーリングだったはずなのにディエゴは吼えた。これが戦いと呼べるのか? プロレス興行のルールとしてこういったモノボケ的な戦いは確かに存在する。椅子、テーブル、脚立、竹刀は定番だ。インディーズ団体では銭湯や商店街でも戦ったりする。だがアブソリュートマンの中でも最高の血筋の男がこれをするのか?
自分の最後の戦いをこんなチンケな戦いで終わらせるつもりなのか?
「甘いぜ!」
顔面に押し付けられて溶けるマスク。次は溶けない! クレープ生地を顔面と鉄板の間に流し込み、ディエゴの顔はクレープ生地に覆われて焦げ付いた。ディエゴは甘美なにおいに覆われた石板化ハン・ソロじみた状態の顔を上げた。
「目が覚めたか?」
「あぁん?」
「俺は介錯人としては格が低すぎる。それに俺はお前さんに一回も勝ってねぇ」
「だから勝たせてやるって言ってるだろ」
「さっきとは違うテンションで言ってるな。燃えるぜ。本音か? 俺が憎くないか? 選べよ。マジで戦わねぇなら俺はこのまま、商店街最強アブソリュートマンとしてお前さんを滑稽に倒す。一応言っておくがこれは俺の本気だ。宇都宮ではこうするしかないと思っていたからオリオン通りで決着をつける予定だった。だがマジで抵抗するなら、俺はこういうモノボケ一辺倒では戦えねぇ。選べ。最強のプロレスラーがギャグマンガみてぇに終わるのか? それとも抵抗して矜持を見せるのか?」
ディエゴの体が小刻みに震えはじめた。肩がいかり、蒸気を上げ……。熱でボロボロとクレープ生地が剥がれ落ち、化石から生きている男に蘇生されていくようだった。
「抵抗だと!? このザ・ディエゴ・ドラドデルフィンが、貴様如きに抵抗だと!?」
「そうだ。抵抗だ。さっきまでのお前さんは俺にどう負けるかしか考えてなかった。敗戦のショックがなけりゃ、狂化の代償がなけりゃ、俺如きの虫には負ける訳なかったはずだぜ。お前さんにはわからねぇよ」
そうだ。わかるはずない。
鼎はポータルで運ぶ際に繋いだラーナの手をぐっと握りしめた。
ディエゴにフジの気持ちがわかるはずもない。最高クラスの血筋でありながら負けと引き分けの数が多すぎる。兄姉は勝って当たり前と期待され、実際勝ちまくっている。フジが好敵手と認めた相手は誰も彼もフジに勝った直後に別の戦いで死ぬ。リベンジの機会も与えられずに。
今回だって同じだ。ようやくディエゴにリベンジが出来ると思ったのにディエゴは本気ではない。そんなディエゴを倒してリベンジと言えるのか?
ディエゴはキッドに負けて以降、二週間前にブレイズに負けるまで五十年間無敗。この一年半、敗戦と敗北……。正義のため、血筋の偉業に続くため、恋人である自分の危機を救うために戦い抜いたフジとディエゴでは勝利の価値など全く違う。
負けていい勝負など一つもない。たった一度か二度の挫折で引退? 冗談じゃない。そんなことがディエゴとラーナにわかるはずない。
「わかる訳ないな。だが俺は最後にテメェに負ける」
そうだ。わかるはずない。
ラーナは鼎の手をそれ以上の力で握り返した。
DD興業に入職したときはそんなつもりはなかったのに、すぐにディエゴの夜伽に指名された。バケモノじみたディエゴの体躯と体力にラーナは心底怯え、死を待つ獲物の気分だった。だが二人はオオカミ王ロボとブランカになった。ラーナは二十八歳。ディエゴは年齢不詳だが、ラーナが生まれる二十年以上前から一度も負けていない。自らの負けを許さないための剃髪の呪い、誇りの巨塔リーゼント。強い自惚れ、無敵の肉体。それですべてを破壊し、奪い、それを勝利としてきた。
そんなディエゴは五十年ぶりに負け、今もまた負けようとしている。勝利も敗北も価値を失ったのだ。五十年。五十年ぶり! それがどれ程の挫折であるか、フジという次世代に繋ぐための自己犠牲がどれだけ悲しいものであるか、フジや鼎にわかるはずもない。
「じゃあもう一度言う。じゃあせいぜい抵抗しろ! お前さんに憧れ、ついていったDD興業のメンバー。お前さんに惚れ、応援したファン。お前さんを愛し、いつも連れ添ったラーナ。報いるつもりなら最後までマジでやれ。それが出来ねぇならお前さんの余生はただの植物と同じだ。何にも応えず、応えられることもない無力な植物」
ぶしゅう! ディエゴの顔面を覆っていたクレープ生地、炭酸水がすべて蒸発し、湯気になった。凶暴に発達した犬歯を剥き出し、ディエゴは笑ってみせた。
「スパーリングという意思は変わらねぇ」
「そうか」
「だが! 仮想ブレイズじゃねぇ。仮想全盛期ディエゴ・ドラドデルフィンのスパーリングだ!」




