第60話 アブソリュートミリオンスーツの最期
フジは心が折れる寸前だった。
マディ・ザ・フロッグの言うインナースペース、プランクブレーン、エーテルの概念をフジは知らないが、これが因幡飛兎身が目を血走らせながら語った「物理的には消失しているのに因幡飛兎身は存在し、でも自分を定義出来ない状態」に近いのだろう。
唯一の救いは、顕真を身近に感じることだ。顕真を身近に感じる、いや、それ以上だ。自分はフジ・カケルである、と考え続けなければ、自分は大黒顕真に吸収されてしまうか、混ざり合ってしまうか……。
「自分は大黒顕真ではない」という確固たる思いのみで、フジは自分を定義していた。自然と、それ以外の全てを忘れていた。体の成長と反比例して低下していく視力で幼少期から何度も替えたメガネ。憧れ続けた姉。……そして、鼎。
これ以上顕真に近づかれると困る。自分が鼎に対して抱いている想いを……。
兄姉はいざという時、フジに「鼎を守ってやれ」とか言うが、あの兄姉はその程度のことしか考えていない。むしろフジと鼎の関係について、フジの前で軽々しく口にしないメッセ、メロン、狐燐の方がよく理解している。姉はどうだか知らないが、頼れる三人の姉貴分は実際、フジの気持ちを正しく理解している。それでも当人であるフジにしか許されない領域はある。これ以上顕真を近くに感じるとそれに触れられてしまう気がする。
逆も然りだ。顕真が抱く姉への想い、マインへの想いを知りたくない。ゲスなことを考えれば、顕真が姉を抱いた時の記憶に触れてしまうかも……。自分の初体験もまだなのにぃ!
だが今のところ、顕真がいる、という感覚はあっても顕真の記憶や感情に触れた感触はない。一方で自分の記憶や感情が顕真に流れているかは不明だ。流れている場合に備えてフジは読まれてもいいようなことを思い出した。
……。
インナースペース。
マディ・ザ・フロッグは、インナースペースはフジが考えているよりももっと自由で、想像力次第でもっと応用を利かせられると言っていた。それをなんとなく覚えていたフジは一つ、思い出した。
年末。碧沈花の思い出の地、イトーヨーカドー木場店。彼女が片思いの相手を誘えず一人で観た『天気の子』で号泣したという場所だ。沈花がホームグラウンドで頑馬を撃破し、戦いが終わった時、ユキは氷の鱗粉を撒く蝶の姿で現れた。あれは、マディ・ザ・フロッグのようにインナースペースに第三の姿、蝶の姿を持っていたからなのでは? マディ・ザ・フロッグもアデアデ、人間、カエルの姿。ジェイドもアブソリュート・ジェイド、寿ユキ、氷の蝶。カエルと蝶は人型ですらない。それでも問題なく機能する姿への変身なのか? 否! カエルは人語を発する声帯を持たないし、蝶は氷の鱗粉を持たない。想像力によって! なりたい姿への変身は不可能ではない!
……カラス。フジがイメージする、新たな自分の姿はカラスだった。卑しく、ずる賢く、落ちた鳳凰が褒めたぬばたまの心。そのカラスに性能をいくらでも盛れるのならば、ポータル技術を搭載してここから……。
そこでフジは気が付いた。今の自分は、インナースペースに“アブソリュート・アッシュ”を持っていない。正確に言うと、今の自分は“アブソリュート・アッシュ”かもしれないし“フジ・カケル”かもしれない。今の自分がどちらであるのかもわからない。どちらであるのかがわからないから、今のインナースペースにあるのがどちらの姿かもわからない。
……そもそも、今の自分はフジ・カケル/アブソリュート・アッシュなのか、それとも大黒顕真/アブソリュート・フォックスなのか、それとも二つの存在が混ざり合ってしまった存在なのかもわからない。
因幡飛兎身の言う通りだ。徐々に自分を定義出来なくなってくる。
次の瞬間、フジは……フジ・カケル/アブソリュート・アッシュを便宜上フジと表記するが、フジは自分のアイデンティティを明確に定義出来るようになった。つまり、顕真と密着していた精神が分離されたのだ。
「ミリオンスーツ!?」
一つのエーテルとなっていたフジと顕真(便宜上)に、流線形をイメージした形状に改造された、友人のかつてのアイデンティティが触れたのだ。ミリオンスーツという別のエーテル……プランクブレーン内においても形状を保っている鎧は、フジと顕真に触れて二人を再定義した。
「付喪神ってあるのかな」
和泉がプランクブレーンに投げ込んだミリオンスーツは何故、フジと顕真のもとに流れ着いたのか。フジが持つACID専用の拳銃に呼び寄せられたのか、フジの所有するエウレカ弾と装甲の一部にエウレカを使用するスーツが磁力のように引き寄せられたか、持ち主に想いに応えたか、或いはフジとミリオンスーツの幾度とない戦闘と共闘で付着した細胞片か何かに共鳴したか……。
「顕真!」
声なき声でフジは顕真を呼ぶ。呼ばねば伝わらないと思った。そして声は帰ってきた。
「フォックスゲートは!?」
「定義出来た! 戻るぞ!」
「ミリオンスーツはどうなる!?」
「……戻れない」
「クソがああああ!」
フジはミリオンスーツの手を握っている感触があった。しかしお手ではない。ミリオンスーツに触れて再定義されることで、プランクブレーンでの事象を疑似的に五感で認識出来るようになったのだ。だが確信がある! 和泉は自分を助けるためにミリオンスーツを犠牲にした! 人々の祈りがこもった地球の切り札中の切り札を! 結局は何にも通用することはなかったが、期待と希望の結実を!
「和泉……」
ミリオンスーツを最前線から退かせることを望んだのはフジだ。ゴア族程度が相手ならまだ通用しても、その後に来た兄の子分たちと戦えば和泉は死んでいた。トーチランド、イタミ社、テアトル・Q、ヒジリ製菓……。いずれと戦ってもミリオンスーツ及び和泉はオシャカと殉職だ。
「……」
和泉を守りたい一心で何度もミリオンスーツを壊してきたが、その先にあることを考えてはいなかった。ミリオンスーツは戦力外だと現実を叩きつけるのなら、地球担当アブソリュートマンとしてその責任を負い地球を守られなばならない。その覚悟は今出来た。だがミリオンスーツを捨てる覚悟はまだ出来ない。
「すまん」
フォックスゲートへの点火でバシッと軽快な音が鳴り、フジはミリオンスーツと離れていく。
「すまなかった!」
次の瞬間、フジは苦痛を覚え、メガネをしっかりと握って離れないようにした。それでもよく見えない。感じるのは苦痛、そして塩気。しばらくして上下左右の概念を思い出し、上の方向から差し込んで来る光に向かって手足をばたつかせた。
「ガッハ!?」
ようやく水面に達し、肺いっぱいに空気を吸い込んだが水滴の付着したメガネでは何も見えない。数拍遅れてバシャッと音がし、今は敵になったのかどうかもわからないキツネが顔を出した。
「顕真! 無事か?」
「なんとかな。お前と違って着物は水を吸うと重いんだ」
「俺に近づけ。バリアーで足場を出して上昇する」
「頼む」
広さ二畳程のバリアーを作りだし、フジは手を探りで顕真も範囲内にいることを確認して上昇させ、海抜二メートル程の場所で停止させた。
「クソォ、見えねぇ!」
「やったぞカケル! 東京だ!」
「なんだ、どこだ?」
「品川辺りだな。ここには霊穴がある。それが出口になったのだろう。少し待て。プロトタイプでこれが可能かどうか……。よし! メガネ拭きだ」
顕真はフォックスゲートから乾いた手ぬぐいを引っ張り出し、フジに手渡した。それでメガネを拭くと、まずは楽しい地獄旅行を共にした水も滴るいい男。辺りを見渡せば見慣れた東京の景色、そして思っていたよりも岸は近かった。
「……」
「……」
「……」
「……」
横浜地下ポータルゲートは龍脈を動力とし、そこに落ちたアブソリュート・アッシュは龍脈を巡り、経絡秘孔……霊穴から出てくるはず。その仮説を立てたナカムラ・ロト、それを信じたのか縋ったのか、行動した望月鼎。クリアになった視界でまず見えたのは、手すりを掴んで身を乗り出すナカムラと、その後ろでフジには読み取りがたい表情をしている鼎、超常の能力で空中に立つ二人に目を丸くするオタサーの面々だった。
誰も何も言えない。
ここでフジが鼎に帰還を告げれば、フジと鼎が付き合っていることがオタサーにバレる。
鼎がフジに「おかえり」と言えば、二人が付き合っていることがオタサーにバレる。
ナカムラがフジの帰還を喜べば、ナカムラがアッシュの正体を知っていること、ナカムラとフジの関係がオタサーと鼎にバレる。
顕真はそんな空気を読み、何も言わなかった。
結果的に誰も何も言わないまま、フジはオタサーが自分たちを見失うまで足場を上昇させ、すぐにポケットの中のスマホを探った。防水加工はしているが、これほどの水没に耐えられるか……。
「ヘイ、メロン。通じてるか?」
「フジくん!?」
「よかった。戻ってきたぞ。フォックスも一緒だ」
「本当によかった……。よし、イツキちゃんのアプリとわたしの分身の座標が一致した。今すぐに狐燐がポータルを開くわ」
「ちょっと待て。これは聞いても誰にも伝えないでくれ……。顕真。ありがとう。お前さんも一緒に来るか?」
「いや、いい。俺は……どのくらいだ? 地獄でお前と過ごし、お前を知った。姉の元恋人である俺の存在は癇に障るだろうが、言わせてもらう。ユキはああいう人だ。俺とお前が消えたとなれば、本腰入れて動き始めているだろう。一緒に行けばユキに会ってしまう。会わせる顔がない」
「俺を助けたんだぞ?」
「フッ……。さっきのお前の問い。答えてやろう。俺とお前は、もう敵同士だ。お前のことは気に入っている。だが、もう敵だ。俺はここでおさらば。そうだな……。悪くなかった。楽しかったぞ。それにお前が地獄に落ちたのは俺のせいだ」
「敵同士、か。じゃあ次は、地獄で身につけた力でお前さんを倒すことが恩返しか」
「そうなるな。参ったな。話し足りない。だからこの辺にしておこう。だがそれを恩返し、というお前の性根が気に入った。……さらばだ」
大黒顕真は空に去った。それを認めたメロンは狐燐に合図を出し、東京の空にマンガ家のテクニックのポータルが開かれた。
そのド派手なポータルは地上にいるオタサーからでも見えた。
……。
一番海に近く、柵から身を乗り出しているナカムラの表情は誰にも見えない。尊敬する先輩にして偉大なる名君だった前キャプテンからの遺言。自分も抱く姫への想い。自分が一番身近に感じる英雄の帰還。ナカムラは誰にも聞こえない声で呟いた。
「ヨシダさん……。あんたならウラオビに誘われた時、怪獣になってアッシュと戦ったか?」