第44話 A♭ C# F# C#A♭ F#
鼎は震える手でスマホを握り、相手をタップして発信音が始まるまでの数秒にすら激しい動悸を覚えた。相手が応答するまでに数秒要したがそれでもその相手と話したかった。
「はい」
「あの……。望月鼎です」
「こんにちは」
「今、少しお時間よろしいですか?」
「もちろん」
透き通るような声質の中に、鼎にはない強い芯。そういう声だと記憶していた相手は、少し透明度が濁り芯も弱くなっているようだった。
「カケルくんのことなんですけど。あのっ……」
「今、家でお菓子を作っていたの。一人で食べるのには少し多い量だし寂しいわ。来る?」
「お姉さんのお家って祖師谷ですよね?」
「ポータルに抵抗がなければ、迎えに行くわ」
「では、お願いします。お邪魔します」
「わかった。準備が出来たら連絡してね。ポータルを開きたい場所を教えて」
「一時間後に和光樹林公園……。一緒にランニングした場所でお願いします」
部屋に来られるのは流石に抵抗がある。ピカチュウグッズだらけでマンガだらけ。幼稚な部屋だ。今は空っぽ同然の弟ケンヂの部屋とは大違いだ。無論、ケンヂがまだ家にいた頃からロックバンドやサッカー選手のポスター、マメに予定の書き込まれたカレンダー、マンガではなくフットサル指南本や小説、エッセイ、参考書など精神年齢はケンヂの方が上だった。
鼎はクローゼットから相手が恋人の姉、つまり寿ユキでも浮かない、オタサーの姫ファッションやフジとのデート用のパツパツブラウスではなく、通常の女子大生的な落ち着いた服をコーディネートし、精いっぱいあなたの弟の恋人は普通でマトモです、とアピールできるよう心掛けた。
指定の時間、場所に赴き、オーロラのヴィジョンのポータルから一気に祖師谷まで運ばれた。ある意味敵地だが、逃げる訳にはいかない。必要なことだ。
「いらっしゃい」
「お邪魔します」
鼎から見てユキは少し疲れているというか弱っているというか……。アブソリュート・ジェイドの持つ無敵の戦力ではなく、鼎が寿ユキに対して抱いていた無敵感、余裕やアルカイックスマイル、重心がブレているように見えた。しかし何があったのかは訊けない。
「コーヒーと紅茶、どちらがお好き? ふふっ、それともアサヒスーパードライ?」
「では紅茶で」
「デザートはメロン風味のババロア。お口に会うかしら」
ユキがキッチンで紅茶とババロアを用意している間に、以前ここに来た時にはあまり観察できなかった最強の戦士兼恋人の姉の部屋を観察する。意外だ……。天井まで届くマンガ専用の本棚が三つも……。少し親近感を覚えた。
「どうぞ」
メロンババロアに高級なティーカップ。それでも! 望月家は世帯収入二千万を超える裕福な家庭! ティーカップのブランドは望月家の方が上だ! 鼎は知らない。望月家には誰かが訪れるが、ユキのマンションには基本的に客は来ない。荒事の際の作戦会議の拠点もメッセの事務所に移った。いよいよ誰も訪れない。
「カケルについて、訊きたいことってなぁに?」
テーブルを挟んで向こう側のソファに座ったユキはティーカップに角砂糖を二つ落とし、ティースプーンを回しながら少し前傾姿勢で上目遣い、少し鼎の緊張をほぐすような笑みを浮かべた。
「お姉さんは、カケルくんが地球に来るまでは一緒に住んでいたんですよね?」
「鼎ちゃんは普段、あの子をどう呼んでいるの? そんなに委縮する必要はないわ。普段の呼び方でいいの」
「フジ。フジが家を出た後、お姉さんは寂しくなかったんですか? すみません、話が前後します。わたしの弟が今年の春、大学進学を機に家を出て一人暮らしを始めたんです」
「それが寂しいのね」
「それに、わたしは弟に追い抜かれたような気がして……。弟の方がずっと大人なんです」
「わたしにはそれが少し羨ましいかもしれない。鼎ちゃんにとって弟さんはどこかで競う仲だったのよ。だから寂しさも悔しさも感じる。それはきっと、鼎ちゃんと弟さんの仲が良く、そして歳が近いからかもね。あの子が生まれた時、わたしはもう大人だったし、一旦家を出て大人のプライドもあったし、姉というよりも親や伯母に近い感覚だった。それにあの子はわたしのことがあまり好きじゃないというか」
「そんなことはないですよ」
「あの子がわたしを慕ってくれているのはわかっているつもりなの。でも親しみじゃなくて憧れや信仰に近いものだと思う。あの子もわたしの前ではどこか委縮しているでしょう」
「それは……。否定できません」
「むしろ、この地球に来て同じ戦士という立場になり、もっと仲良くなったのかもね。でもそれで深まった絆も溝もある。歳の離れた姉弟って難しいわね。切磋琢磨なんか出来なかった。今は、少し出来るわね。この一年であの子は……」
「あの子は?」
「釈迦に説法になるところだったわ。今のあの子の強さ、成長を一番わかっているのはあなただったわね。もちろん、魅力も。弟さんが離れていってしまった寂しさは、弟さんが大人になっていく誇らしさで紛らわすしかない。それは、先に生まれた者の特権よ。いい意味で開き直って上から目線で、デカくなったな、小僧、とでも言ってやればいいんだわ」
「そういうものですか」
「そういうものじゃないかしら? 『北斗の拳』を読んだことがある?」
あの都築カイも、駿河燈も好きだった『北斗の拳』……。
「あります」
「どのお兄さんになりたい? ついてこいと引き離す長男のラオウ? 優しく寄り添い、自分を超えていくその成長を楽しむ次男のトキ? 自分より優れた弟を許さない三男のジャギ?」
「トキになりたかったけど、ジャギになっていました」
「ジャギ、ね。ジャギにはジャギでいいところがある。兄より優れた弟など存在しねぇ! ジャギの名言ね。でもそれはジャギがラオウとトキを認めているから。わたしはまだあなたのお姉さんではないけど、こうして一人の友人として、年上の友人として、妹のように思っている。きっとメロンやメッセもね。どちらかというと妹体質なのね、鼎ちゃんは。ラオウも言っていた。兄弟でも同じ道を歩む必要はない、と。弟さんはいつか離れていく。鼎ちゃんの方も弟さんを大人と認めるのなら、寂しさではなく競ってみてはどうかしら? 同じ道ではなくね。だから北斗四兄弟のお兄さんはどれが良くてどれが悪い、ではなく、どれの気持ちにもなってみるのがいいのかも」
鼎は後輩のタツのことを思い出していた。大学の後輩のタツは偏差値は同レベルだ。その数値で圧倒的に上のケンヂに対する劣等感はあるが、タツには年功序列による上から目線で接している。大学では授業支援アシスタントも始めた。着実に成長はしている。
「……わたしは勝手にラオウになっていたのね。今となっては頑馬がトキだわ。ごめんなさい。鼎ちゃんの悩みに対し、わたしは自分の在り方を語ることしか出来なかった」
鼎を一人の友人と認めるからこそ、大切な弟の恋人と認めるからこそ、これ以上隠すことは出来ない。
「お姉さん。もしかして何か、困っています?」
もう隠せない。ユキは決意を固めた。
「落ち着いて聞いてね。カケルは敵の陰謀に陥り、異空間に幽閉されている。そこから出す手段をわたしたちはまだ持たない」
「……」
「方法に見当はある。わたし、頑馬、メロン、メッセ、狐燐。全員で全力を尽くし、カケルを必ずあなたの元へ帰す」
「……。詳細を教えてください。わたしにも出来ることがあるはずです」
〇
「待っていたよ」
「ハロー、ゾーキング博士。そしてカーネル・アイシィクアーズ」
エリア51の倉庫の一角に開かれたポータルのヴィジョンは羽毛。聖透澄のポータルだ。日本からの訪問者は日本最大手の製菓会社の会長にして怪獣であることをカミングアウトしている老人、そしてスーツにうさ耳バンドでやたら官能的なその会長秘書の因幡飛兎身だ。ここでもヒトミはウソをついた。透澄のお望み通り、そして自身の恨みを果たし、顕真とフジを異空間に飛ばし、さらに横浜地下ポータルゲートを破壊する大仕事はもちろん透澄には伝えた。これにより、ヒジリ製菓のメタ・マイン制作にとって大きな邪魔者であるテアトル・Qは頭を失い、残ったのは烏合の衆。フォックスがいなければ、空中分解する吹けば飛ぶような弱小だ。寿ユキ一派はフジを帰還させるのが最優先、それまでマトモに動けない。それを実行した経緯を説明するには、自分もポータルを使える、と開示するのは不可欠だった。ヒトミが透澄についたウソとは、自分のポータルの性能だ。
ヒトミのポータルの性能はバース、イツキをはるかに上回り、東京からエリア51までなら結ぶことが出来る。さすがに異星を移動するジェイド、異空間を設置するマインとウラオビには敵わないが、隠しておけばどこかで役立つだろうとほとんど無意味に透澄に自分のポータルの性能を低く説明した。
そしてここからは開示した内容だ。センター試験の英語満点、TOEIC満点。ゾーキング博士やカーネル・アイシィクアーズとも英語で問題なく会話可能だ。
「コーヒーを?」
「コピ・ルアクを」
「残念、今はない」
「今はない? マインの遺灰にみたいに?」
ゾーキング博士の口ヒゲがモゴモゴと揺れる。このウサギはどこまで知っている? コピ・ルアクはゾーキング博士がジェイドに出した超高級コーヒーで、ゾーキング博士がコピ・ルアクを秘かに購入していることはカーネル・アイシィクアーズすら知らない。そしてマインの遺灰の一部がアメリカに渡っていること、その遺灰が怪盗ベローチェに盗まれたことが、日本の一企業の秘書が知っていていいはずがない。
「でも盗まれる前にちゃんとマインの遺灰を有効活用してくれてありがとうね、あのアンタレス及びマーヴェリックは素晴らしい。特にポータルドライブは地球人による人造ポータルの不完全さと危険性を考慮し、確実に使えるように転用している。愁眉を開けたよ」
「ジャパニーズ・ジョークはマイクを挟んで二人で行うか、ザーブトンの上に座って扇でやるものと聞いていたが、君はまるでブロードウェイの嫌味なスタンダップコメディアンだ。何故マーヴェリックのことを知っている?」
「一つ謝らなきゃいけない」
「無礼の他に?」
「四月末にアメリカの領空を犯したミストレブル。あれは身内よ」
カーネル・アイシィクアーズは弾けるようにFワードを放ち、親指の力だけで握っていたボールペンをへし折った。しかし分をわきまえている。ペリー来航から太平洋戦争直後……。いや、現在に至るまでのアメリカの無茶ぶりと高圧的な態度と立場が逆転している。
「謝罪の他に言い訳がないと収まらない事態だぞ」
「おかげでマインの遺灰が正しく使われているとわかってよかった。アンタレスにはエウレカ誘導弾が搭載されているよね? つまりアンタレス及びマーヴェリックを作ったアメリカはアブソリュートを仮想敵としている。これでどうだろう? ヒジリ製菓の威力部隊である怪獣チームは、アメリカが怪獣の脅威に晒された時に援軍に応じる。無論、アブソリュートが敵になった場合でも」
「断ると言ったら?」
「じゃあバラすまで。日本に住む怪獣相手に米軍は対アブソリュートにすらなりうる秘密兵器を出撃させたけど、手の内だけ盗まれてノコノコと領空侵犯されました、とね。怪しげなルートで横流しされたマインの遺灰が盗まれたなんてことも世界に知られずに済むよ。もしかして、拒否権があるとでも思ってた? 日本は治安組織である警察からしてアブソリュートとズブズブ。アメリカがそのアブソリュート対策にエウレカ誘導弾搭載のマイン遺灰転用戦闘機なんて作ってると知ったらどうなるだろうね?」
「どうしろと言うのだ。一企業がステイツと同盟を結ぼうなど、ユージロー・ハンマのつもりかね?」
「アァメリカ様は人様にモノを尋ねる態度がなってないなぁ。まぁいいや。アンタレス及びマーヴェリックを有効活用してほしい、ということだよ。日本の治安とズブズブのアブソリュート。加えてアメリカはアンタレス及びマーヴェリックを持ち、独自に怪獣対策をしている。それを公表して。無論、マインの遺灰転用は明かさなくていい。アメリカも怪獣対策をしているという表明をして欲しい。エウレカ誘導弾は強力だ。対怪獣、ということにも出来るしね。しかしどうだろうか。もし、アメリカで怪獣が暴れ、そこに日本とズブズブのジェイド、レイ、アッシュが出しゃばってきたら内政干渉ということにならない?」
「それは、ジェイド、レイ、アッシュがアメリカで戦う場合はアンタレス及びマーヴェリックで攻撃しろという意味か?」
「もちろん、アメリカが日本に正規の手続きを踏んでこの三人の協力を仰ぎ、いくつもいくつも会議と書類の処理を終えてこの三人がやってくるまで、日本の野球ファンが毎朝待っているショーヘイ・オータニの活躍を伝えられる程アメリカが無事ならね。ビックリするのはこれからぁ!」
官能的でセクシーなKawaiiジャパニーズガールは両手を広げ、満面の笑みを浮かべた。
「よく喋るな。コメディアンであることに違いはないらしい」
「要求なんて言わない。お願い。今までそちらに要求したことは、全てそちらに不利益しか与えない一方的なものだったよね。それにマーヴェリックでジェイドに勝てるなんてバカな妄想は流石にしないはず。作ろう、人造アブソリュートマン」
「……何?」
カーネル・アイシィクアーズがようやくポジティブな反応を見せた。
「マインの遺灰から逆算したマーヴェリックの人工知能では限界がある。そこでわたしがお渡しするのは、マインが自分の人格をコピーしたゲーム用AI、その名も“サイバーマイン”! 複製だけどね。奇しくもそちらさんの国の名作『ターミネーター』でスカイネットを作った会社と一文字違いだね、日本語ではね。こいつで可能な限りマインを再現してほしい。さらに、日本……というかヒジリ製菓では既に、豪鬼怪獣ホローガの生体にマイン細胞を移植し、ポータルを再現することにも成功している。それも一体や二体じゃない。安定して生産、供給出来る。それに関するこちらの情報は全て提供する。もし日本に、アメリカによる人造アブソリュートマン製造を阻む勢力があればヒジリ製菓の威力部門が対応する。さらに、盗まれた分のマインの遺灰も補填する」
「君は一体……。何者なんだ?」
「マインの一番弟子。マインとの再会を最も願う者」
「ふむ、どうせ条件があるのだろう?」
「ええ。もしヒジリ製菓による情報提供を受け、サイバーマインを受け取り、アンタレス及びマーヴェリックより先にある人造アブソリュートマンを作るというのなら、ネーミングライツが欲しい」
「言ってみるといい」
「メタ・マイン」