第24話 サシ飲み
「もしもし? ジェイドか? Zだ」
「ゾーキング博士ですね」
「わざわざ私が名を隠したというのに……。率直に言おう。最悪の事態だ」
「最悪……。アブソリュート・フォックスに関係していますか?」
フォックス関連の話だったらもう今回は休みたい。楽しかった思い出が、変わってしまった恋人の新たな顔で上書きされてしまう前に……。
ジェイドのスマホにかかってきた電話の相手は名を隠したが、どうせ傍受されているのだ。それにジェイドのスマホに直でかけられる個人、しかも英語を使うのは一人だ。その時点でゾーキング博士であるとわかっている。傍受されているのは構わない。
「二つニュースがある」
「では、いいニュースの方から」
「残念ながら二つとも悪いニュースだ。マインの遺灰は盗まれた」
「……。誰に?」
「ベローチェとかいう怪盗気取りのポータル使いだ」
「犯人が彼女ならいいニュースですね」
「それは君の都合だろう? 米軍が必死に隠していたものが盗まれることも、そもそもあれの存在がバレていることも大問題だぞ。誰かがバラしたのでも大問題だし、君たちのような超常の間ではちょっとお天気が良いから米軍のトップシークレットでも盗もうかな? とお散歩感覚で気軽にエリア51に忍び込むのかね? もう一つは最悪だ。ミストレブルという怪獣を?」
「知っています。ヴェンレブルの希少種で、非常に危険な怪獣です」
「ステイツの領空にやつが現れた。そのためにスクランブル発進した米軍の秘密兵器が大問題だ」
「何です?」
「アンタレスと呼ばれる戦闘機だ。ポータルドライブと呼ばれる機能を備え、不完全なポータルでのステルス機能、四機のレーダーで接近したコンピューターをショートさせることも可能。さらに装甲はエウレカ。エウレカ弾にエウレカ誘導弾も搭載している。極め付きはパイロットの“マーヴェリック”」
「“マーヴェリック”? 『トップ・ガン』のですか?」
「ああ。だがこのマーヴェリックはトム・クルーズほどハンサムでもなければ、ビルからビルへジャンプする程スタントの修行も積んでいないぞ。人工知能だ。この先は私もまだ知らぬ」
「わたしの想像通りならば最悪中の最悪ですが」
「私も全ては知らぬ。だが君の想像する最悪中の最悪だろうな」
マインの遺灰が盗まれたタイミングはわからないが、そんなアンタレスとマーヴェリック、そんな二つが既に存在しているということは、ゾーキング博士も知らない程前からマインの力は米軍に使用されていたということになる。しかしゾーキング博士にマインの遺灰を渡したのは五か月前だ。そんな短期間でミストレブルとの実戦に投入されるような兵器が完成するとは思えない。おそらく米軍は元からアンタレス及びマーヴェリックの開発を進めており、そのラストピースになったのがマインの遺灰だったのだろう。そして、ゾーキング博士がその新兵器の開発とマインの遺灰が盗まれた事実を最近まで知らなかったのならば、彼は本当にマインの遺灰を悪用せずに収めていただけ、何もしなかったということになる。マインの遺灰……。どう使っても悪用にしかならないオーパーツは、触らぬ神に祟りなしで触らなかったということだ。さすが世界の碩学ゾーキング博士。賢明な判断だ。
「ミストレブルは?」
「アンタレスとしばらく交戦した後、突如姿を消したよ。まるでポータルでも使ったかのようにな。だが地球人がミストレブルを退けたんだぞ。マインの遺灰でも使わなければ踏み入れることすら不可能な神の領域だ」
「わかりました」
世界はジェイドを、アブソリュート最強の英雄を、休ませてはくれない。報告は有難い。でもジェイドにどうしろと? 今のジェイドは報連相の報と連しか受けたくない。
「問題は他のコンピューターをショートさせる機能と、エウレカ弾ですね。怪獣退治のためならばコンピューターをショートさせる機能は必要ないし、アブソリュートを相手にしないのならエウレカ弾は必要ない。対人戦も対アブソリュートも想定しているということですね」
「ああ。君にばかり相談してしまってすまない。だが、私も傍受されていると知りながら結局トップシークレットのアンタレスとマーヴェリックのスペックについて話しているしな。君も、私のことを友人だと思っていてくれているなら気持ちが軽い。……話が逸れるようだが、一つ、質問がある」
「答えられる範疇であれば」
「君とレイとアッシュは地球を守っているな。もし、この宇宙で地球と同じようなレベルの星があり、そこもアブソリュートに守られているとする。そうだな……。例えばそこを地球Bと仮称し、そこを守っているのはアブソリュート・スタローンとアブソリュート・シュワルツェネッガーの二人だとしよう。地球Bが地球に攻め込み、侵略者となった時。ジェイド、レイ、アッシュの三人は、侵略者の星である地球Bを倒すため、そこを守護する同族のアブソリュート・スタローン、アブソリュート・シュワルツェネッガーと戦うかね?」
〇
「体調はどうだ?」
「よくはねぇよ」
日本一の石頭、和泉岳の故郷は東京都の月島にある。もんじゃ屋の立ち並ぶ下町だ。和泉は犯罪者にヤキを入れるのよりももんじゃを焼くのが得意だ。その和泉はフジを誘い、勝手知ったる月島で知る人ぞ知る店でかつかつとヘラを鳴らして慣れた手つきで土手を作っていく。フジは気だるげにライターで石を打ち、倦んだ仕草でタバコをふかした。ちらりと覗いたフジの姿は……。こういった、和泉がフジと過ごす日常でこんな風にフジに疲れやダメージが残っている姿は初めて見た。ジェイドが来る前の地球には雑魚しかいなかった……いや、外庭、マイン、ウラオビがいたが、彼らは大人しくしていたので当時のフジは無敵だった。ジェイドが来てからは、戦いで負ったダメージは全てジェイドに治されていた。
「悪かったな。つくばのゴーグル野郎も巣鴨のパパ活親父も、倒したのにパクれなかった。ジェイド抜きのアッシュなんて所詮そんなもんだ」
「勝っただけでも十分だろう。……俺は一応、日本ではお前たち超常の専門家みたいなものだが、ポータルというものの存在は大きいな」
「人造ポータルを作りたくなる気持ちもわからくもねぇよ。……。なぁ、一つ訊いていいか?」
「いくらでも訊け」
「何か月か前に深浦貞治って野郎をブッ飛ばした。知ってるな?」
「ああ」
「深浦貞治だけじゃねぇ。因幡飛兎身とかいうドM心をくすぐる鬼畜のピチピチギャルもいた。やつらは地球人扱いか?」
「……地球人だ」
「あいつらはどこに収監されている?」
「……」
「やつらは地球人なんだろ? わかった。質問を変える。兄貴の舎弟だったバースとマートンはどうしてる? オーはブラックボックス化したまま修理されず放置と聞いている。確か異星人専門の収容所があるんだったな。メッセもブチこまれてた。だがマインはそこにアッサリとポータルを開いてバースを脱獄させたぞ。まさかノーガードじゃねぇよな? ……ノーガードなんだろうな。お前さんでさえポータルのことを知らされてねぇんだ。ポータル対策なんて地球人が出来る訳ねぇ」
「逆に訊きたい。現実的なポータル対策というものは存在するのか?」
「あー……」
どうやら知らない訳ではないらしい、と和泉は察し、ぐつぐつのもんじゃにヘラを入れる。焦げるまでに回答を得られなかったら諦めようと思っていた。ポータルゲートですら過ぎた力であると、フジも和泉も思っている。フジはポータル対策を教えたいし教えたくない、和泉は知りたいし知りたくない。所詮、二人は末端なのだ。その術を教える権利がフジにあるか? 知ってそれを使う権利が和泉にあるか?
「……異空間設置型ポータルだ」
「何?」
「まずあのクソババア、マイン。あいつはポータルで異次元を行き来する以上に、場所を作って設置する能力があった。ウラオビも持っていたようだな。やつは仲間にもその能力を隠してたから俺が戦ったオネエもウラオビのその能力は知らなかったが……。ポータルで穴を開けられる異次元を、インターネットってことにしよう。マインやウラオビ、それからバース、狐燐さん、犬養、今回の敵の黄色の魔法少女、それからポータルゲートは、そのインターネットで使える自分のIPアドレスを持っているということだ。普通のやつは持つことも出来ねぇ。マインやウラオビはそのネットの海にURLでWebサイトを作れる。どうせお前さんも『前略プロフィール』かなんかの恥ずかしいサイトを持ってたんだろう? だがURLを知らなきゃ誰もアクセス出来ない。誰もURLを知らないサイトにブチ込めば、手当たり次第にURLを打ちこんで偶然アクセスする以外にアクセスする方法はない。だがポータルの世界で使われる文字はアルファベット二十六文字の大文字小文字プラス十個の数字プラス記号とは限らねぇし、何文字使うのかもわからねぇ。あてずっぽうでアクセスは無理だな。ちなみにこれは姉貴でも出来ないことだ。アクセスも、『前略プロフィール』の設置も。要は俺たちが変身に使うインナースペースみたいなものにぶちこめってこった」
「……」
「マジかよ地球人……。やったな? それ。知ってたんだな? やったんだな? 誰で試した?」
「ヒヤリとしたぞ。ああ、お前の言う通り、深浦貞治、因幡飛兎身、女ヶ沢夜の三人を使い、ポータルゲートで偶然掴んだ既存の設置型ポータルへの移送を試みた」
「結果は?」
「お前は地球担当アブソリュートマンだ。知る権利はある。結果から言おう。深浦貞治と女ヶ沢夜は転送後、この方法は危険だとして戻された。今は(検閲により削除)に収監されている。外部からのポータルに関してはノーガードの場所だ」
ノーガード。和泉はまだ知らない。つくばのポータルゲートルームの壁はエウレカ製だった。アブソリュート人であるジェイドのポータルではポータルゲートルームにアクセス出来ない可能性は高く、エウレカ製の部屋に閉じ込めておけるならば対アブソリュートに関しては現状最善の策だ。
「俺が一番嫌いなのは因幡飛兎身なんだが」
「やつはポータル開閉の失敗で時空の彼方に消え失せた」
「俺の感情優先ならば、やつならそのまま死んでくれたなら何も問題ない」
「サルベージの方法は模索中だ。これは人体実験だ。許されんぞ」
「やったのは俺じゃねぇし、無論お前さんでもねぇ。もっとデカい主語の地球人、だろ? ジャーキーで飼われてる俺らみたいなイヌが負うにはデカすぎる責任だ。たかがジャーキーじゃ割に合わねぇ。気にすんな。くたばったのが因幡飛兎身だから俺は別に怒らねぇし、尊い犠牲だったということにしてやらぁ」
地球は地球人が守る。その義務と責任がある。和泉の理想がそうであることはフジも重々承知。だがその先の理想はフジも知らなかった。地球担当アブソリュートマンはアブソリュート・アッシュなのだから、アッシュさえいてくれればいい。地球人はアッシュと共闘するのだから、レイもジェイドも不要。
そんなこと、恥ずかしくて旧知のフジにも言えやしない。だがいつしか和泉は……。フジと背中を預けあって戦うのではなく、こうやってフジに休息とリラックス、リフレッシュを与える程度の共闘しか出来なくなっていた。ミリオンスーツももうない。フジに休息とリラックス、リフレッシュ? そんなこと、あの女の子……望月鼎一人いれば出来ることじゃないか。それでも和泉はフジに尽くさずにはいられなかった。
「俺も、地球人も、最善を尽くす」
〇
「このカフェ。来てみたかったの」
「なんだ?」
「超デカ盛りの“デビルサイズ”、ダイエットやヘルシー志向の“仙人メニュー”がある。しかもマスターご自慢のコーヒー“エンジェルブレンド”は絶品って噂。マスターの愛想もいいらしい」
頑馬とメッセはメッセの探偵事務所から程近い高田馬場まで足を伸ばし、質素ながらも瀟洒なカフェの扉を開けてベルを鳴らした。いらっしゃいませ、と小さく発したのは、金髪の先端をピンクに染めた派手な髪型の若い女性のマスターだ。店の奥からは赤ん坊の泣き声が聞こえる。
「ちょっと、大丈夫? 赤ちゃん泣いてない?」
「友達が見てくれてるから大丈夫。へへっ、マッチョのお兄さんは食べそうですねぇ?」
とりあえず頑馬はデビルサイズのハンバーグとナポリタンを、メッセは仙人メニューのスープカレーを頼んだ。しかしワンオペなので時間がかかるらしい。まずは、と出されたマスターご自慢のブレンドコーヒー。頑馬はブラック、メッセはヘルシー志向のメニューを頼んだくせに角砂糖を七つも入れた。
「こんな時、バースがいてくれたら、なんて思ってるんでしょう?」
「なんでわかった?」
「あんたとバースの間には、誰にも踏み入れることの出来ない不可侵の領域があるのよ。わたしがいても、オーやマートンがいても、あんたたち二人の聖域があった。かつては、それは憧れだった。今は嫉妬ね」
「バースさえいてくれたら、か。言われるまで意識もしない程、俺はバースに依存していたみたいだ。情けねぇ関係だよ。それでも嫉妬するか?」
「もちろん」
ティースプーンを回すメッセの指は、まだカップの底に沈殿する砂糖のざらついた感触をメッセに伝える。
「だがカケルが言っていた。メッセが一緒に戦ってくれることでどれだけ助かったかわからない、と」
「フジに認められるのも悪くないわね。アブソリュート・アッシュを過小評価しているのはアブソリュート・アッシュだけ。でも正当評価されても、過大評価されても、レイを上回ることはないの」
「今はまだ、な」
「わたしにとっては永久によ」
「あのガキが随分と言うようになったな」
油が弾け、肉の焦げる音。
頑馬とメッセの間には決して恋愛感情は生まれない。メッセは頑馬&“虎の子の助っ人”の五人の中では三人目のメンバー。バースに次ぐ古株ではあるが、メッセが仲間になった時は既に頑馬もバースもいい大人で、しかもメッセはまだ十六歳のガキだった。そのガキが成長し、アブソリュートにケンカ売るためのベストメンバーの司令塔になり、今、アブソリュート・ジェイドすら全幅の信頼を置く司令塔へと出世し、さらに彼女を上司のように慕う仲間までいる。兄心を超えて親心すら湧く。アッシュの成長も嬉しいが、メッセの成長だって頑馬にとっては自分のことのように嬉しいことだ。
「言っておくけど、バースに嫉妬している部分はあってもわたしはバースと競ろうなんて思わない」
「いや、お前は十分に強いよ。もうオーを十分に超えているぞ」
「あんたとバースが過ごした青春や思い出には敵わないわ。それにバースにはバースの、わたしにはわたしの、クジーにはクジーの、エレジーナにはエレジーナのやり方がある。わたしはエレジーナのメッセンジャーとして、クジーのバースを超える。それはバースのようなどんな敵も倒す強さだけじゃない。言語化するのは難しいわね。貢献、なんて謙って言う程ユキに忠誠を誓ったつもりもないし、今更あんた相手にもそんなに謙る気もないし、正義を気取るつもりもないわ」
「お前はもう自立した大人だしな」
「まぁ、あれよ。あんたもレイとして、ジェイドを超えなさいよ。競らずに超える、言語化するならこうね。ユキが今、休んでいるのなんでだと思う? 相手が聖なる思い出の中の元恋人だから、なんて思ってる? それもあるわね。でもその程度で戦意喪失するユキじゃないのはわたしもよくわかっている。あんたに任せられるからよ、頑馬。その事実を、ジェイドの補欠にしては自分はよくやってる方だから、なんて思ってるなら大馬鹿野郎ね。もうあんたもフジもユキの補欠じゃない。フジが……。最後に全てを託され、背負ったフジが見事にウラオビを倒したのに、まだ自分とフジをユキの補欠だなんて思っているなら、わたしがミリオンの次女になってフジの姉としてお前ももう一流の戦士だとあいつを褒めてあげるわ」
「メッセ」
「何?」
「お前、いくつになったんだ?」
「今年の六月で三十よ」
「女はクリスマスケーキ、なんて言ったやつこそオオバカヤロウだな。二十九日でこんなにいいケーキはもう残ってねぇぞ」
「大晦日を超えたら、元旦はライスケーキの餅の出番ね。でもわたしなら元旦の鏡餅に映ってもきれいなままよ」
〇
モノがたくさんあるのに、実はここはがらんどうだ。メロンの自宅である吉祥寺のタワマンで、狐燐がその矛盾に気付くのにそう時間はかからなかった。
所狭しとギッチリ並ぶヒーローフィギュア、玩具、ブルーレイ。でっかいTV、周辺器具。高級な食器に家具。そしてアブソリュート・アッシュのTシャツ。でも、これらは全てメロンだけのものだ。皿は種類豊富なのに各種一枚か二枚。箸やスプーンも少ない。
「どうぞ」
「どうも」
メロンが狐燐に差し出したのは、少し深めにへたを切り、直径十センチ程に果肉の断面を露出させたメロン一玉とギザギザスプーンだ。メロンも同じものを皿に乗せ、狐燐の隣に座ってリモコンを操作する。
「何か観たい映画、ある?」
「じゃあ『ドラゴンボールZ 激突! 100億パワーの戦士たち!』で」
「メタルクウラね。いいチョイスだわ」
ギザギザスプーンで行儀悪く果肉を削りながらメロンを掘り進め、中央の空洞にスプーンが到達したところでブランデーを少量注ぎ、後半戦が始まる。シンプルな素材の味から、果汁とブランデーのアルコールが混ざってひどく背徳的で甘美なデザートへと変貌する。
「この部屋もそろそろ引き払うべきかもね」
「どうして?」
「一人で住むには広すぎるし、ここは……」
鹿井響子が網柄甜瓜に改造された後、外庭数に与えられた偽の記憶を保管するための箱庭。ヒーローグッズも家具も食器も全て、外庭が用意したものだ。網柄甜瓜は独身のOLだが、鹿井響子は夫も娘もいる主婦だ。便宜上網柄甜瓜ではあっても、鹿井響子だった前世は捨てきれない。時折押し寄せる寂寥は部屋の広さに比例するように多く押し寄せ、広すぎる部屋だからこそ寂寥からの逃げ場はなく澱となっていった。その澱を少し引き受けてくれる家族もいない。
「わたしのアトリエみたいなものですよ」
「アトリエ?」
「マンガ家やってた頃、鎌倉にアトリエを持っていたんですよ。いろんなものを買いました。ドローンとか、エアガンとか、模造刀とか」
「『東の宝島』ってそんなマンガだったっけ?」
「マンガ家の生態は作風とはあまり関係ないんですよ。で、連載が終わって……。最終巻発売日にサイン会をやって、その晩に婚約者は過労で倒れて駅の階段を転げ落ちて、帰らぬ人となりました。それ以降は、引退したつもりはないのにマンガの連載も恋愛もやれてない。本当は今でも連載くらいは出来る能力はキープしている……。そのはず。恋愛の方はどうっすかねぇ? あれは一回やれただけでも奇跡だ。それにあそこは……。沈花ちゃん。家に帰れなくなった沈花ちゃんはあそこで過ごし、そして死んだ。思い出は何かのきっかけで忘れられるけど、何かのきっかけで思い出す。場所と人は結び付く。忘れたくてもあの場所にいると婚約者のことも沈花ちゃんのことも忘れられないし思い出してしまう。楽しい思い出や新しい関係で上書きしても……。親しい人、好きだったものがなくなる辛さって、当たり前ですけどいつまでも拭えませんね。わたしは鳳落さんみたいに強くはなれないから……。すみません、弱音でした」
「……。わたしのやり方なんて簡単よ。娘が生きていたら同じくらいの年齢だったフジくんと鼎ちゃんにお節介を焼いて母親ごっこをしているだけ」
「でもメロン副所長はそれでめちゃくちゃ頼りにされてるじゃないですか」
「もう、いなくなった娘の代役や投影なんて言葉じゃ片付けられない程あの二人を知ったし、メッセ、ユキ、頑馬が頼りにしてくれてるのも嬉しいわ。本当は贖罪のつもりでもあったのに幸せまで感じるなんて贅沢というか、許されていいのか……。わたしが殺した人にも家族はいたのに」
「……。贖罪、か」
ウラオビに加担したこと、沈花を死なせてしまったこと。ウラオビのことは仕方ないと割り切ることが出来る。全責任をウラオビに押し付け、洗脳されていたと思い込めば少しは軽くなる。それが褒められた方法ではないことはわかっているが、仕方ない。だが沈花のことは……。もっとインターバルを空けて戦わせるとか、やりようがあったはずだ。沈花だって過労死みたいなもの、と考えると、自分が売れたせいで激務にさらされた婚約者も沈花も自分が死なせたも同然などと自分を責めてしまう。
「……寝たいときに寝て起きたいときに起き、栄養の偏りなんて少しも考えず好きなものを食べて……。嫌なことは嫌、の一言で振り払い、好きなことだけやりつくす。良く言えばライオンのように無敵で自由。悪く言えばドブネズミのようにクズで無責任。自分はああは生きられないけど、そういうヒーローをわたしは身近に知っている」
「彼がそんなにお気楽な人間には見えないですけど」
「彼のお気楽さも、彼のコンプレックスも、知れば知る程あなたの糧になると思うわ。今のあなたの贖罪は間違っていない。わたしはそう信じている。わたしは彼みたいになれないし、あなたも紅錦さんみたいにはなれないのよ。それともわたしとメッセと三人で合コンでも行く?」
「磔刑の方がまだマシです」
〇
「顕真」
「どうした金吾」
「久しぶりにサシで飲まないか」