第52話 しんかのきせき
この短い戦いの間に海は凍って白くなり、翡翠色の光に照らされた後に紫の猛毒に侵された。そしてまた透明に戻り、今、赤い血が花開くように拡散していく。
「……」
もう一度立ち上がるとさっきまで信じていた。しかし現実は非情だ。フジの敷いたバリアーの床に触れる寿ユキの体勢は、バリアーと最も多くの面積を触れるうつ伏せ。バリアーの感度が幽かな呼吸や心拍といったバイタルを感知し、もう姉は自力では立ち上がらないと非情に告げる。
「狐燐さん。笛を頼む」
「無理だフジ。重責過ぎる。ありえない……。アブソリュート・ジェイドが負けただって!? 沈花ちゃんに!? わたしでさえ受け入れられないんだ」
「あのままだと姉貴が死ぬし、倒れるジェイドの姿を晒したくねぇ。碧の勝利に水を差したくもねぇしもう勝負は終わりだ。そしてすぐに姉貴に応急処置をしよう。あのままじゃ死ぬ。それだけは絶対に回避すべきだ」
徹夜明けに体育祭をやったぐらいの激しい疲労に襲われながら狐燐は笛を吹いた。
「勝者、碧沈花」
そしてギリギリの体力を振り絞ってポータルを開き、フジ、ユキ、沈花と自分を含めた四人を鎌倉のセーフハウスに転送した。鳳落は学生時代に不摂生で倒れた時を思い出す体調不良に魘されながら仁王立ちで持ちこたえ、沈花の肩を叩いた。
「どうせ狐燐はジェイドが敗れたことにビビったんでしょう? アタシがアナタを褒めてあげる。すごいわ沈花。……フジ。……。感情よりも喫緊の話をしましょう。ジェイドは自分で自分を治せないのよね? ジェイドの他に、あなたの知人に治癒を使える人間はいる?」
「地球にはいねぇな。プラなら治せるだろうがプラはポータルを使えない。いいよ、構わねぇよ。碧が姉貴を治すと俺の気に障るとか考えてるんだろう? それこそ感情の話じゃないか。いいんだ、もういい……」
フジはソファに腰を下ろし、天井を見上げてから顔を手で覆ってため息をついた。押し寄せる感情、考えなきゃいけないことが多すぎる。眩暈がする程の情報量を処理しきれず、忙しすぎて泣くことすら出来ない。
「碧、お前の“取り立て”を使うと、“取り立て”られた人間どれくらいの期間、戦えなくなる?」
「人によるよ。でも数日は無理かも。鳳落さんが異常なんだ。ユキさんも解毒と応急処置が済んだから死ぬことはないけどすぐに医療の専門家の対応が必要だ」
「姉貴が負けたとなると地球に馬鹿共が押し寄せ……。兄貴に代役はさせられねぇ。あいつも傷ついてるし兄貴をそんな風に扱うのは酷だ。そうなると俺と……。ああ!? もう無事なのって俺とメロンだけか!?」
「フジ」
「うっせぇ。なんだその髪の色。星のカービィにでも憧れてんのか? 見境なく食ってパクりやがって」
「フジ……」
沈花は明らかに致命的とわかる量の血を吐いてフジの隣に倒れ込み、フジは飛びのいて彼女を見下ろした。左腕の接合面からも何か奇妙な液体と血が滲み、左目は本来の弾力を失ってどろんとした黒い球になっている。服に損傷はないのに血の汚れ。古傷が開いて出血している。そのダメージは意識の有無だけでユキと同等、或いはそれ以上に深刻だ。無理もない。強豪怪獣のメッセに蹴られ焼かれ痺れさせられ、アブソリュートの歴史で屈指の実力者レイの肉弾凶器、肉弾突撃、肉弾無双をしこたま食らった。そしてアブソリュート最強のジェイドを倒す。蓄積したダメージは尋常ではない。
「おい碧」
「最後の我儘聞いてくれぇフジ……」
「……」
「わたしと戦って」
……。ニィ。
「敵討ちなんてしねぇぞ」
「ユキさんの解毒でついにフュージョンエンジンが壊れた……。もう“取り立て”は使えないし、集めた力もエンジンが壊れたからキープ出来ない。このままじゃ戻る。あの時、大宮で戦ってフジに負けた時の偽ジェイドに」
「いや、戻らねぇ。フジ・カケル、メッセ、レイ、ジェイドと戦って集めた経験値は驕らず怠らなければどこへも行かない。それにその体でどうやって戦う?」
「一か八かの賭けだ。ヒール・ジェイドじゃなくてゴア族の姿に変身すればこの姿のダメージを一回だけチャラに出来るはずだ。それでコンディションを整えて……。わたしはユキさんに勝ったけど自分が最強だとは思わない」
「当たり前だ」
「王座は防衛してこそ価値がある。最強のチャレンジャーとして……。いや、今のところ直接対決はフジが全勝か。最強のライバルとして、我儘を聞いて」
「雑音を消すならそれしかねぇよなぁ」
フュージョンエンジンが壊れたということは倒すと今度こそ碧沈花は蘇らない。そして「アブソリュート・ジェイドがいる」ということで保たれていた地球のパワーバランスが崩れる……のか? 沈花のフュージョンエンジンの治癒でジェイド、レイ、メッセを回復させ、地球を守ってもらうというプランはもう成り立たないし、そんな情けないことばかり考えてしまうのも恥ずかしい。そもそも和泉とユキの考え方は同じだ。地球人が地球を守る。ジェイドの手もレイの手も借りず、本来の地球担当アブソリュートマンであるアッシュの手だけはしぶしぶ借りる。英雄と地球人の真価が試されている。
それに姉が敗れたという衝撃的な事実。今、触れる話題がそれだけだと確実にフジは廃人と化してしまう。しかしどこか安堵もしていた。姉は孤独ではなくなった。敗れればジェイドに親近感を覚えて接触を試みる者もいるだろう。もう一度文句なしの最強を目指すという姉のモチベーションも保てる。それに姉は楽しんだ。あんな顔は久々、人間らしい表情を垣間見ることが出来た。
戦いを義務から楽しみに切り替えるそのタイミングこそがジェイドの心の隙だった。
「振り出しだ」
もう残っている味方はメロンと和泉だけ。随分と懐かしいメンツだ。フジは思い出していた。
頑馬が虎の子の助っ人を率いてやってきた時、フジは姉の力を借りず和泉とメロンだけを頼って頑馬と虎の子の助っ人を全員倒すつもりだった。
これは卒業儀礼だ。ジェイドとレイへの甘えを断ち切る。二人が来るまでは地球で最強ぶってイキり倒し、そのお山の大将の自信で鼎を口説いたが、実際にはフジが知らなかっただけで地球には外庭数、駿河燈、ウラオビ・J・タクユキがいた。こいつらはフジをどうでもいいものとしてロクに相手をせず、ジェイドとレイが来るまでアクションを起こさなかった。アブソリュート・アッシュなど倒しに行く程の脅威ではなく、むしろジェイドを釣るためのエサでしかなかった。だからジェイドとレイがいない今、真価が試される。そういう時に結果を出してこそ真価だ。
「それから鼎ちゃんと話したいよ……」
〇
「みんなぁー! こんにちは! 今日はアブソリュートマン:レンマに会いに来てくれてありがとう!」
2020年12月25日(金)。
東京都練馬区石神井公園。最寄り駅の西武池袋線石神井公園駅では、虎威狐燐のバズリツイートによって一躍時の人となったアブソリュートマン:レンマと鯉住音々によるヒーローショーが行われていた。しかしそれはネオンの知人フジ・カケルによる陽動作戦である。
寿ユキ、飛燕頑馬と違って顔出ししていないフジはもう世間に顔もバレているとはわかりつつも多少の隠ぺい工作はしたかったのだ。
そして石神井公園三宝寺池の畔でラーメンを流し込んだ一組の男女が池の外周を回って地形とグラウンドコンディションを確かめてから白く濁った息を吐いた。
「一週間経ってお前さんに対する感情はいろいろある。姉貴が負けるなんて前提で考えたことはなかったから頭が真っ白になりそうになったが、姉貴は俺の全てじゃねぇ。鼎が上手く……。あいつぁ大人になったぜ」
「大人の階段上ったの?」
「なんでお前さんにそんなこと訊かれなきゃいけないんだよ。やってねぇよクソ」
「大切にしてやってくれよぉ、鼎ちゃんのこと」
「言われなくてもわかってる。鼎視点じゃあ地球最強の守護者が敗れたことによる不安はある。メッセの考え方を借りたよ。王貞治のシーズン記録をバレンティンが抜いた時のエキサイト。その不滅の記録の誕生に野次馬根性で乗っかってそのままクズのトラッシュ様で火事場泥棒いただくぜ」
「ありがとね、フジ。最後にわたしと鼎ちゃんを会わせてくれて」
「もういい。さっさと始めようぜ。お前さんの力が抜けず、錆びず、衰えないうちに」
あのコウモリ女。どっちの肩を持ったんだろうか? いくら沈花と仲が良く、恩があったとしても本気で「フジに勝て」とまでは言わなかったはずだ。フジに送った言葉が本音だと思いたい。
「極限でこそ試される、鍛えられる」。
「お姉さんへの劣等感から卒業するチャンス」。
「余裕がなければクズのふりは出来ない。余裕のないクズはただのクズ」。
「ちゅーるの切れたウチの猫みたいな顔してる」。
「この戦いでいい結果を出せたらご褒美にちゅーるをあげる」。
ユキになくてフジが持っているものを数える方が難しい。だが一つは簡単に挙げられる。鼎だ。理解者で、支えで、モチベーション。鳳落の言ったように何のために戦うのかわからなくなった時、心が後ろに向いてきた時は「鼎のため」と思えば少しは力が湧く。誰からの共感も得なくなってしまったユキにはそういう親しい人がいるとは思えない。誰かのため、とは言っても平和を願う人々や穏やかに暮らしたい人々、といったヒーローの使命の域を出ない抽象的なものだろう。少なくとも今は。
「この戦いで超える」
「超えられない。わたしはユキさんに勝ったけど、誰もが認める最強はユキさんのままだ。フジがユキさんに勝っても同じだよ」
「セアアッ!」
振り払うような大振りのハイキックは上体をのけぞらせた沈花の回避で空を切る。ユキのハイキックと酷似したフォームの蹴りだった。フジとユキ、身長差約20センチの角度の違いはあれど、沈花のハイキックとは異なる、蓄積された試行回数と歴史の上澄みをすくった奇麗な蹴り。アブソリュート拳法のお手本という方程式で自らと敵の体格や間合いを計算し、意図的に外して威嚇、または付け焼刃でフジに挑んで敗れてから研鑽を重ね、メッセ、レイ、ジェイドを倒すまでに至った沈花のゴア族カンフーへの鞘当て、或いは距離が近くなり過ぎたフジ・カケルと碧沈花の間になければならない壁や距離を再確認し、線を引き直したキックだった。
「なんでぇなんでぇ。お手本通り過ぎてつまんないよ。教習所でハンコでも捺してもらうの?」
「鼎のやつは免許取りたてだが意外と運転が上手い。知らなかったろ?」
「みんんんなしてそうやってわたしにやきもち焼かせようとしてくるんだもん、困っちゃうなぁ」
「この蹴りだってあいつには出来ねぇさ」
あいつ。あいつは学科も実技も修了していない。だから自分の方が上のはずだ! なぁ? 都築カイ……。
都築カイは寿ユキという最高の師匠を持ったが何一つ成し遂げないままこの世を去った。カイに落ち度はないが、カイを利用してしゃぶりつくした駿河燈のせいでユキは愛弟子を喪うという大きな傷を負った。そしてフジは姉の愛を横取りされたような劣等感、アブソリュート・ジェイドの指導を受けたアブソリュート・シーカーはそう遠くない未来にアブソリュート・アッシュを追い抜くだろうと危機感に苛まれた。そのカイが生きたままだったら事実として自分が勝っていると強く気持ちを保てただろう。しかしもうカイはいない。でももういないカイがまだいたら、自分はもう姉からの愛も戦士としての実力も追い抜かれているのかもしれない。そんな恐怖に値するほどの逸材が都築カイだった。碧沈花と同じように前向きで、失敗を恐れないメンタルを持つ若者。都築カイが死んだことでIFの畏怖を払拭するチャンスは永久に失われた。
そして寿ユキが心を許せる唯一の人物……最強のジェイドをよく知らないが故に畏れず接していたカイこそが、ユキの孤独を消してくれるはずだった。ユキのこの敗北を一番慰められるのは都築カイで、寿ユキは都築カイのために敗北で泣けただろう。
フジは自問自答する。何が足りない? 何故自分はジェイドにもレイにもなれず、シーカーにもなれなかった? 血筋か? 血筋はジェイド、レイと同じだ。教育か? アッシュもジェイドと同じくレジェンドからマンツーマンの指導を受けているしレイは義務教育すら終えていない。環境か? 当初は戦士になる予定ではなかったジェイドよりもアッシュの方が英才教育を受けていたしジェイドという明確な目標もあった。
「シッ」
「チッ」
互いにアブソリュート拳法、ゴア族カンフーの型で利き足の膝を上げて足を細かく振ってフェイントを入れながら牽制しあい、自分の視線の直線上にある相手の目の色とその奥の思惑を探る。
「グッドなスメル。いぃーいにおい。香辛料と火の通り具合が絶妙だ、フジ・カケル。最高に贅沢な時間になるよ。メッセ副隊長、頑馬隊長、ユキさん。楽しむってテーマで戦ってきたけど実際に一番楽しいのは今だ! 心ッ底! 生きてるって気がする! チエッ!」
沈花のローキックをカットし、続くミドルキックもお手本通り防御する。手堅い防御がアッシュの身上、まずは攻撃の芽を摘んで戦意を削ぐ。未熟ゆえにまずは出来ることから確実に実行し、「出来るはず」が「出来ること」になったと確認する。まずはその進化の軌跡を確認することから戦いは始まる。沈花も同じだ。レイ戦以降急激に伸びたゴア族カンフーのエンジンをかけることから始める。
しかし完全に防ぎ切った沈花の蹴りにフジも唸らずにはいられない。蹴りの芯を通してこの戦いに至るまでの努力、成長、経験がわかる。メッセから得た忠義で教えに忠実な技への忠誠を、レイから得た気迫で威力と威厳と威圧を、ジェイドから得た敬意で敵を知り最適の位置を。
こいつはもう第三のビールでも豆腐バーグでもマンボウの大トロでもない。代用品や偽物じゃなくヒール・ジェイド……。いや、“碧沈花”として確立された。
「未熟な頃に二度も負けた相手を倒すために知恵、力、勇気の化け物を倒してリベンジ成功とか任天堂やハリウッドも疑うドラマチックじゃねぇか。そうはさせねぇ。あんまり調子に乗るなよピノキオ。姉貴に勝ったならせめてそれにふさわしい気品を見せろ。今のままだとただのラッキーなガキだしジェイドに勝ってアッシュ如きにがっつくな」
「伸びてるのは鼻じゃなくて鼻の下だよ。恐れる敵がいないことを嘆いたり戦うまでもない相手からの挑戦を拒否して選んだりなんてユキさんもしなかったでしょう? それにわたしはただのガキさ。好きな人をデートに誘えず一人で観た『天気の子』で爆泣するただの女子大生」
「俺の好きな映画は! 『キックアス』と『少林サッカー』だ!」
バキィッ!
フジのキックは稲光を放って沈花を『少林サッカー』のワイヤーアクションの如く吹っ飛ばした! これは強化形態“オーバー・D”への依存を断ち切る新スタイル成功のエフェクト! 強化形態でボーナスタイムを作るのではなく攻撃や防御、移動の一瞬の動作を強化して長持ちさせ、性格の変化も最小限に抑え込む。奇しくも沈花との初戦で起きた“オーバー・D”の動作不全をきっかけに磨いたメソッドだ! 理想と現実、作戦と実行、閃きと判断が渾然一体となった理想の攻撃! ペロペロペロペロペロ! これはご褒美のちゅーる三本分の価値があるキック!
新たな威力の蹴りは沈花を落ち葉とぬかるんだ泥の上に滑らせて欄干に激突させる。そして木に下がっていたカエデの生態表示の看板が落ちて来てピンクの頭を直撃した。ドリフじみた天才的ハプニングだ。やはりこいつは持っている。
「イテテ……」
「いつまでも這いつくばって何してる? 埋蔵金でもあったか? それともワニでも泳いでたか? この池じゃ30年前からワニがいるって都市伝説が流れてるからな」
「へへっ、フジ、楽しそう。……」
「ああ、マジで時間や嫌なことを忘れられる。今一つ殻を破れなかった頑馬のやつもお前さんと戦ってアップデートされたことだろうよ。お前さんは必死のパッチじゃ戦わないってのがポリシーらしいが万能だな、碧パッチ……。ああ。いつまでも憧れるばかり、敬うばかりではいられねぇからな。これはチャンスだ。せっかく姉貴も兄貴も雲で顔が隠れてたのが見えるところまで降りてきたんだ。あの二人が負けたお前さんに俺が三連勝して急上昇してみろ。同じ高さで向き合った時、やつらが顔真っ赤にしてほざく楽しかったからそれでいい、とか言う言い訳、聞いたこともねぇほど震えたいぃーい声色と響きだろうな。今まではやつらの鼻にぶら下げた命綱でブランコを漕いできたが今度はへし折ってやる。それが孝行だろう」
「泣けるね。いいキックだ。こっちからもプレゼントがある」
距離が離れた。フジのメガネの焦点が沈花の顔から50cm程の地点の紫のネイルで結ばれる。そしてこれから放たれる見慣れた必殺技の従者である輪がいくつも連なり、沈花の輪郭をぼやけさせる。
「ケイオシウム光線ッ!」