『お人よし侯爵家』の事情・中
メイドたちにクヴァインの両親が訪ねてくると聞かされて、アンジェリカは露骨に嫌な顔をしていた。
「あのいけ好かない花婿(仮)の妻らしく振舞わなきゃいけないなんて……虫唾が走るわ」
窓際に置いた長椅子に寝そべりお気に入りの本を読んでいるアンジェリカの傍ではギィズが竪琴の手入れをしている。
「お嬢さま、ドレスは薄い水色でシルク素材にしましょうか。ビジューもフリルも控えめでよろしいですか」
「ああ、そうね。えっと……夜会ではないから露出は控えめの方がいいわね」
「承知いたしました。髪飾りはお気に入りの鳥の羽ですか?」
「あ、まって、まって。こっちのパールにしてくれる?」
アンジェリカが宝石箱から取り出した髪飾りは、派手好みの彼女にしては珍しい控えめなデザインだった。メイドたちは首をかしげるが、ギィズは小さく笑った。
「いいと思うよ、姫。その心遣い」
「気付いても言わないでくれるとありがたいんだけど……。ねぇ、ギィズ。あなたも一緒に……」
いけません、と、慌ただしく着付けをする使用人たちが合唱する。
「つまんなーい!」
髪も結いなおし、化粧も控えめに。チコリたちの手によってどんどん『令嬢』が『妻』へと変わっていく。
「どう? ギィズ」
「美しいよ。海の中で輝く真珠のようだよ。そうだね、一曲出来そうだ……」
海を知らないからよく分からないわ、と、アンジェリカが笑う。その傍でギィズが竪琴を奏で始める。甘く優しい旋律に、アンジェリカもメイドたちも、思わず聞き入ってしまう。
が、ほどなくしてその音は止まった。ほぼ同時に、ギィズが、すっとアンジェリカから離れた。
「どうしたの?」
ギィズが窓の外を指さした。
「若旦那さまがいらしたよ」
「え、何しに来たのかしら。滅多にここには来ないのに」
正装したクヴァインが、少し緊張した面持ちで離れの入り口に佇んでいた。入ろうかどうしようか迷っているのがありありとわかる。
「さ、姫」
そっと促されて、アンジェリカはいやいやながらドアへと向かう。
「んもう! あんな男、そこで待たせておけばいいのに……」
ドレスさばきも荒々しく、アンジェリカはクヴァインを招き入れる。
「レディ・アンジェリカ、お迎えに来ましたよ」
と言いながら、クヴァインは素早く室内に目線を奔らせた。
「……なぁに? 男が増えてるんじゃないかと心配でもしてるのかしら?」
腰に手を当てたアンジェリカが器用に片方の眉を跳ね上げて言う。
「ち、違いますよ。ギィズさんがいなくてよかったと思って……」
「ギィズならそこに……あら?」
さっきまでアンジェリカの後ろに佇んでいたはずのギィズの姿がいつの間にか消えている。
「ギィズ? どこ?」
探しに行こうとするアンジェリカの腕を、クヴァインが思わず捕まえた。
「なにするの!」
「あ、ご、ごめんなさい。でも、わざわざ夫であるぼくの視界に入らないようにしてくれたギィズさんの心遣いを無にしちゃいけないと思って……」
はっとしたようにアンジェリカがクヴァインを見た。
夫や妻と愛人が鉢合わせた場合、夫や妻は愛人を『始末』するのが社交界の習わしだ。昔ほど愛人関係にやかましくないご時世だが、それでも褒められたことではない。
昔のように伴侶と愛人が決闘することは皆無だが、ギィズとクヴァインが鉢合わせたなら、クヴァインはギィズをこの屋敷から追い出さなければならない。
「……そうよね、軽率だったわ。えっと、その――ありがとう」
いいえ、とクヴァインは微笑む。その、思いのほか邪気のない笑顔に、アンジェリカは思わず見とれてしまった。
「……あなた、顔は良いのね。顔だけは――認めざるを得ないようね」
へ? と、クヴァインの目が丸くなり、メイドのチコリが盛大に咳ばらいをした。
「お嬢さま! お支度の仕上げが残っています。お座りください」
「チコリ、怖い顔ね」
「お嬢さま、発言にはお気を付け下さいまし」
はいはい、と、アンジェリカは肩を竦めた。
「えっと……支度が済むまで、ここで待っていますね」
「……ええ」
髪飾りとネックレスをつけ、ボタンが山のようについた手袋をはめられ、鳥の羽で出来た扇子を持つ。適度に香水を振りかければ完璧だ。
「……お待たせ」
アンジェリカの美しさに、クヴァインの目と口がまん丸になった。
「ああ、本当に、絵画から抜け出た女神……いや、妖精……。頭のてっぺんから足の先まで、こんな美しい造形を目の前で見ることが出来るぼくは、王都一の幸せ者ですね……本当に美しい容姿だ……」
アンジェリカは、むっとしてクヴァインの足を踏みつけた。あだだ、と、クヴァインは飛び上がる。
「な、なんでしょう?」
「ちょっと、アンタ」
「は、はい!?」
「容姿だけ褒めてるように聞こえるんですけど?」
あ、と、クヴァインは硬直してしまった。
「え、えっと、いえ、そんなつもりは……」
「いいわよ、どうせ。あなたが一番興味があるのはお父さまのお金ですものね。わたしは二の次。それで結構よ。こちらもそのつもりだから」
「は、はぁ……」
「ちょっと! 少しは否定しなさい!」
チコリをはじめとした使用人たちは、何とも言えない顔つきで『新婚夫婦』を見ていた。
「お嬢さま……中身を褒めてもらえるほどにお付き合いをなさっていないことに気付いてください……でもある意味、お似合いの夫婦かもしれませんね」