『お人よし侯爵家』の事情・上
娘婿と娘の愛人、使用人たちがそろって「良い人」と評するラベージ侯爵夫妻。
彼らは善人過ぎてかえって疑われたりいらぬ調査をされたり嫌がらせにあったりしているが、どんな人たちも最終的には「本当に良い夫妻なんだな……」とつぶやかざるを得なくなる。
王都の人々はこっそりと『お人よし侯爵さま』などと呼んでいるのだとか――。
「ああ、チコリ、あなたにちょっとお願いがあるのだけれど……」
アニスと一緒に花を活けていたチコリのもとへやってきたのは、侯爵夫人である。落ち着いた深緑色のドレスは数年前に仕立てたものだ。それを今年の流行に合わせて少し直して着ているのだが、少しも古い感じはしない。
「今日はこれからお客さまがお見えになるのです」
それはそうだろう――この屋敷に来客のない日は一日だってない。
「ほどなくして、シラントロ伯爵家がお見えになるから、アンジェリカの支度を……」
「承知いたしました。ギィズさんはどうしましょう」
アニスが、はい、と手を挙げた。
「薔薇園で一緒に働いてもらいます。庭師見習いにしては優男すぎますが、まぁ、一時しのぎにはなるでしょう」
お願いね、と、夫人がアニスに頷いて見せる。
「それから、ティータイムの頃には、タラゴン伯爵とルバーブ男爵がお見えになるわ。時間をずらしてあるけれども、かち合わないように……みんなでおもてなしをお願いね」
どういう用件で――とは、アニスもチコリも聞かなかった。承知いたしました、と、膝を折って頭を下げる。チコリは屋敷内の導線をさっと思い描いた。両者が絶対にすれ違わないよう、お互いの姿が絶対に見えないよう、さりとて不自然でないように。
「念のため、執事のチャービルさんか、メイド頭のアルケミラさんに相談しておきます」
「ああ、そうね。あなたたちが動きやすいようにしてちょうだい。任せるわ」
「はい」
両家とも、かつてはこの屋敷の『ご近所さん』だった。その屋敷は今はもうない。売れるものはすべて売りつくした。そして屋敷跡は今、ラベージ侯爵領となっている。
「奥さま、お隣さんが戻ってこられるのでしょうか」
「そうね。とくにルバーブ男爵は事業に熱心だと伺っていますからね。いよいよ土地をお返しする時なのかもしれません」
穏やかに微笑む夫人だが、チコリもアニスも「そんなはずない」と内心思っていた。
タラゴン伯爵家もルバーブ男爵家も、過去の栄光が忘れられなかったのか派手な暮らしを続けていることで有名だ。王都から離れた場所にある領地から税金や農作物などの収入があるとはいえ、手掛けている事業が大成功という話も聞かない以上、一度手放した土地を買い戻す余裕があるはずがないのだ。
それでも夫人は、土地を元の持ち主に戻せるかもしれないからと、書類の用意までしている。
それを知ったアンジェリカなどはっきりと、
「お父さまもお母さまも、お人よしすぎるわ。あんな人たちがお金を返済することも、家を建て直すこともあるはずないわ」
と、言い放った。
「困った時だけすり寄ってきてあとは知らんぷりなのよ。お父さまが、能無し貴族の彼らをやしなってるようなものじゃない! お父さまだけが、苦労して彼らは遊んで、おかしいじゃない! お父さまも、もっと怒ったらいいの。貸したお金を返せって取り立てたらいいのよ!」
あまりにもあんまりな言い方であるが、大間違いというわけでもないから苦しいところである。
「あんな人たちを助けることにつかうくらいなら、わたしがお父さまのお金を有効利用して差し上げますわ!」
と、わかるようなわからないような理由をつけて、豪遊するのだ。もとより両親の言うことを聞くような娘ではなく、両親は内心頭を抱えている。
「アンジェリカが言うような人たちではないと思うのです」
少し悲しそうに微笑む夫人は一見すると何の苦労もせずに暮らしてきた貴婦人である。
そして、この屋敷を切り盛りする主も、苦労知らずの紳士に見える。
たしかに夫妻はともに、マイゼンターク王国王都シュラハの出身である。
王国の富裕層のほとんどがこの王都で生まれ育ち、結婚して子を産むため、王都の住人は9割方が富裕層である。
だがそんな中にあって夫人の両親は異国からの難民だった。両親はお腹に子を宿した状態で祖国を追われて難民となりマイゼンタークへ逃れてきた。とんでもない苦労だったと聞く。
その後、シュラハ唯一のスラム街で生まれた少女と、王国の名門侯爵家の子息はひょんなことから出会い大恋愛の末結婚するのである。この国で『石投げ婚』と呼ばれる一大ロマンスは国中の女の子の憧れるところである。
一大ロマンスの果てに生まれた子がアンジェリカである。両親や祖父母からは似ても似つかぬ侯爵令嬢、どうしてこんな娘ができたのかと、国中の注目の的である。