第九話 逃亡
「――冷えるなあ」
もう何度目になるかわからない、一言一句同じ台詞を口にして、僕は両手のひらをこすり合わせる。
「もう少し寒いところまで移動します。安全面を考慮しますと、そちらの方がよろしいかと」
いい加減うんざりしていても不思議ではないのに、まあこのあたりは人ならざるものの利点だろうか、ハルカは律儀に同じ説明を繰り返した。
シ・シ=デビルと呼ばれる害獣は、亜寒帯から南北極までの寒冷地帯には姿を見せないという。単純に、温暖な気候の方が餌に困らないということもあるし、何より進化の過程で薄くなった体毛が、寒気を遮る役目を十分には果たしてくれないことも大きく影響しているらしい。とにかく、僕たちは北へ向かい、環境が良さそうなオアシスを調査して、定住する場所を決定する。また、ゆくゆくは、かつて栄えた都の異物の――あれば、の話ではあるけれど――回収にも着手していく、というのが、ハルカの立てた中期的計画の概要だった。
しかし、それはそれとして、僕たちを乗せたこの四角い動く箱の中は、お世辞にも快適とは言いがたい環境だった。具体的には、空調まわりが決定的に足りていない。何でも、ハルカが回収できた中では修理でどうにかなるレベルの風化にとどまっていたのがこの機体だけだったという話で、しかもその元々の用途は戦車のようなものだったらしく、それはつまり、僕よりずっと年上の、超が付く旧型品であることを意味していた。
「……にしても、もうちょっと何とかなったんじゃないの、この寒さ」
「そう言われましても」
さして困ったふうでもなく一言を返すと、ハルカはフロントガラスの方に視線を移す。
「寒い、ということは、それだけ安全でもある、ということですので。当面は、ご辛抱いただくほかないかと」
似たような説明を重ねて、手元の操作盤に置いた手の動きを早めていく。その後ろ姿を見るに、交渉の余地も、状況が改善する見込みも、ないものと見た方が良さそうだった。
「……はー」
ため息をつくついでに、かじかむ両手に息を吹きかけてみる。少し聞こえよがしに過ぎたか、ハルカはちらりとこちらを振り返ったけれど、何も言わずにすぐまた正面へ向き直った。
いよいよ寒さが耐えがたいレベルに達しようとしていたところで、ハルカはついに、ずっと細かく動かし続けていた手を操作盤から離した。
「お待たせしました。ここまで来れば、というあたりかと思います。いったん降りて、テントに移ることにしましょう」
その言葉に呼応するように、車は静かに制止する。やれやれ、と小さく息をついて、すぐさま座り心地の悪いシートから腰を浮かせかけた僕を、小さな手が押しとどめる。
「すみません。安全を確認してから、のお話です。念のため」
何となく母性を感じさせる、妙に優しい声色でそう付け足すと、少女は僕に手のひらを向けたまま車外へと滑り出ていった。
「――まあ、それもそう、よね」
独りごちる僕の顔を、ハルカと入れ替わりで侵入してきた冷気が小さく粟立たせた。
「問題ありませんでした。どうぞ、外へ」
二〇分そこらで周囲の安全確認を終えたハルカは、車の乗降口から上体を覗かせてそう告げると、呼吸を整えでもするかのように、細い肩を小さく上下させた。また妙に人間くさい動きをするなあ、などとぼんやり思いつつ、早速新たな住処へと足を向けることにする。
「……寒っ……!」
改めて、身を切るような空気の冷たさに全身を震わせる。風がほとんど吹いていないのがせめてもの救いではあったけれど、それでも夕暮れ時の亜寒帯の低気温は今まで体験したことのないものであることに変わりはなかった。オアシスを形成する針葉樹や、それを取り巻いて広がる草原のくすんだ色合いが、寒々しさを助長しているようにも感じられる。半袖のシャツとハーフパンツなんていう格好では、いくらも耐えられそうにない。
「……ねえ、もう少し厚手の服は」
「ありません」
背筋をまっすぐ伸ばしたまま、小さなアンドロイドは即答する。まあそうだよね、あるならとっくにくれてるよね――と心の中で恨み節を炸裂させつつ、僕は入道雲のような白い息を吐いた。
「ご安心ください、遠からず防寒対策を講じますので」
「うん、まあでも――」
「そもそも、つい何十時間か前までは、もっと低温の場所にいらっしゃったではありませんか」
言われてみれば、と納得しかけて、いやいや冷凍冬眠は別だし、そもそも感覚として覚えているわけでもないし――と思い直す。けれども、それが彼女なりのジョークなのだとしたらあまり無粋な返しをするのも何ではあるので、とりあえず曖昧にうなずいておく。
「――あれ、そういえば」
話の流れの中で、ふと抱いた疑問を持ち出してみる。
「あの、僕が入ってた機械、それに、あの場所――あのまま放っておいて、良かったの?回収してくるものとか、なかったのかな」
そうですね、では取りに戻りましょう――などと言われたらそれはそれで面倒ではあったけれど、あまり大事な忘れ物があるようだと後々より大きな支障が出ることになりかねないので、素直に懸念を伝えておくことにする。
「そうですね――」
しばらく考え込むような間を置いた後、少女は僕を見据えると、はっきりした口調で言い放つ。
「問題ありません」
そう断言する根拠が続いて語られることを期待して黙っている僕を、彼女は不思議そうな目で見つめ返す。
「えっと――」
このあたりのギャップはどう埋めたものかな、と思案しているうちに、どうやら向こうも問題の所在を把握したようだった。
「根拠、でしょうか」
「……うん」
二度、三度と目をぱちくりさせると、ハルカは深々と頭を垂れた。
「申し訳ありません。どうにも、その――演算のみで人類の思考に寄り添う、そうした実地の訓練が不足しているものですから」
「いや、まあ……そんなに気にしなくても」
フォローの言葉をかけられてからきっちり二秒後に、小さな頭はゆっくり持ち上げられた。
「ともあれ、あの場所は――あくまで冷凍冬眠の状態を保つことと、あなたの患っていらしたご病気の治療法を究明する、それだけの用途に特化した施設です。折に触れ修復はしてきたとはいえ、建造物そのものの老朽化もかなり進んでいましたし、もう役目は終えたものと判断して差し支えないかと」
そう言われれば、そういうものかと納得するほかなかった。
「なお、すでにご承知おきのことかとは思いますが――現在のエイジさんの健康管理、異常があった場合の加療等は、すべてこのインターフェースにて行いますので、ご心配には及びません」
「はあ……」
ぼんやりした返事を口にしつつ、彼女が言う検査のことを思い出して、僕はわずかに顔が火照るのを感じていた。
テントの中でようやく暖を取り、遅めの夕食を済ませたところで、往診の時間はやって来た。
「失礼します。お休みの前に、健康状態の確認を」
わかっておりますとも、というように、大きく首を縦に振ると、僕は酔いそうになるくらい目を泳がせつつ、両手のひらをハルカに向ける。
「それでは――はい、ありがとうございます。そうですね――今日も少し、脈拍が高めのようではありますが。特に問題にするような所見はありませんね」
心拍数を上げているのは誰だよ、と思いつつ、僕は引き続き彼女から外れたところに視線をうろうろさせていた。
「さておき――明日からは改めて、この針葉樹林の状況を確認しつつ、生活基盤を整えていければと思います。体力が要求されますので、できるだけ早くお休みいただければと」
事務的に予定だけを告げてすぐさまきびすを返しかけた少女は、思い出したようにこちらを振り返ると、
「では、おやすみなさい」
と付け加えるだけ付け加えて、こちらの返答も待たずに去っていった。
「……生活基盤、ねえ」
空調の効いているテントが生活の場としてメインになるとしても、文明のまねごと程度のことでもするなら外に出る必要は色々出てくることだろう。改めて、こうして辺鄙なところに追いやられるようでは、もはや「万物の霊長」なんていう呼称は過去の栄光以外の何物でもないんだな――どういうわけか、今頃になってそんな考えが頭をよぎったのには、もう苦笑する以外なかった。