第四話 利器
オアシス内を軽く散策し、近い水場を一通り案内してもらったあたりで、早くも空は夕焼け色に染まり始めた。
「それでは、今日はテントに戻りましょう」
小さくうなずきつつ、聞こえないように小さく、ゆっくりと息を吐く。さすがに体の調子は万全にはほど遠く、小一時間出歩いただけですでにへとへとになっていた。
「そういえば、食べるものって、その――どうするの?」
ようやく息を整えて足を動かし始めたところで、ずいぶん空腹になっていることに気づく。
「ああ、お食事でしたら、フードプレートがありますのでご心配なく」
そういう大事なことは早く言ってくれよ、という苛立ちより、安堵する気持ちの方が勝る。起き抜けに飲まされた無味に近いゼリーとか、果物ぐらいしか食べられない食生活を覚悟していたので、「数えるばかり」という未確認の利器にそれが含まれる――食べ慣れたものが引き続き食べられるという知らせは、僥倖と言うほかなかった。疲れからうつむき加減にはなっていたけれど、ほんの少し、口元が緩むのを感じた。
「どうなさいましたか?」
怪訝そうな声をかけられて、足下のあたりをうろうろしていた視線を上げると、十歩分ぐらい前方でハルカがこちらを振り返っていた。その爪先が向いている先、鬱蒼とした木立の狭間には、すでにテントの青い色が覗いている。
「何でもないよ」
一言だけ返すと、僕は小走りで少女の隣に並んだ。
テントの入り口をくぐると、早速ハルカは三五cm四方ぐらいの金属板を出してきて、僕に手渡してくれた。
「へー、ずいぶん軽くなったんだなあ」
僕が眠りにつく前に普及していたモデルだと、ちょっと片手で持つのが難しいぐらいの厚さと重さがあったのに、出てきたものは「板」の名に恥じないだけの薄さと携帯性を実現させていた。それが僕の知る人類の文明における、最後の遺品なのだと思うと、改めて失われたものの大きさに目眩がしてくる。
「どうぞ」
「あっ、ありがとう」
手渡された水筒を受け取り、板の上のくぼみに注ごうとしたところで、僕はふと違和感を覚えて動きを止める。
「いかがなさいましたか?」
「いや、うん……」
新式のフードプレートには、出てくるメニューを選択するためのインターフェースの類がどこにも見当たらなかった。ボタンはおろか、本体に文字が浮かんだりする様子もなく、インジケーターのようなものさえ認められない。本当に、ただの金属板に、大・中・小各一つの円形の凹があるだけにしか見えないし、ユーザーから何かの操作を受け付けるようにはできていそうにない。
「お入れしましょうか」
「あ、いや……えーと、これ……どう選ぶの?」
どのみち自力でどうにかするのは無理らしいので、素直に尋ねてみる。しかし、問われた側のハルカは、不思議そうな顔をするばかりだった。
「選ぶ、とは?」
本当に質問の趣旨を理解できなかったらしく、逆に問い返される。
「あの、メニュー……何が食べたいか、とか。選ぶ方法は?」
数秒の間を置いて、ようやく僕の真意を理解したらしいハルカは、小さく首を横に振った。
「選択は、できません。ユーザーの現在の栄養状態と趣向、過去数日間のメニューを考慮して、自動的に最適なものが生成されます。もちろん、今回が初めての使用ですので、学習は追々、ということになりますが」
うへえ、と思わず間の抜けた声を出してしまう。あの頃は想像もしていなかった、何百年かの未来。その時代に成し遂げられた、技術革新と合理化の偉大さを思うと、なおのことその主たちが滅び、自分だけが生き残っていることの意義を見失ってしまいそうになる。
「エイジさん、そろそろ召し上がりませんか?」
しばらく一人で感傷に浸らせてほしいような気もしたけれど、何だかんだで空腹はピークに達しつつあったので、とりあえず考え事は後に回すことにする。床に置いていた水筒を握り直すと、僕は反対の手をフードプレートに添え、一番小さくて深いくぼみへと水を注ぎ込んだ。
二、三秒待つと、平らな形状に落ち着いていたと思った小さな水面に、かすかな振動が生じ始める。やがてその水が板の内側へ染みこむように、かさを減らしだすのに合わせて、残り二つのくぼみには白っぽい泡が立って膨らんでいく。それから何秒も経たないうちに、泡の塊は白パンとハンバーグのような固形物に姿を変えていた。
「……すごい。めちゃくちゃ早いな……」
かつて僕が使っていたものより、所要時間は体感で五分の一ぐらいまで短縮されているように感じられる。思わず惚けたような声を出す僕を、ハルカはすました顔で見つめていた。
「さあ、お早めに」
「ああ、うん」
差し出されたフォークを受け取ると、僕は早速、食事に取りかかった。
「……っ!」
最初の一口をほおばった瞬間、口内に満ちた芳醇な味と香りが喉の奥まで到達し、声帯を震わせながら鼻の方へと抜けていく。そのハンバーグはまるで、専門の施設で作られたもののような――あるいは、それ以上にうま味を凝縮した何かであるような――、いずれにせよ、これまでの人生でも五指には入るような、豊かな味わいで僕を満たしていった。
白パンもふわふわと柔らかく、使われているはずのない小麦の香りと、ほんのりとした雑味さえ再現されている感じがする。僕はしばし、それらの深みのある味を堪能することにした。
「――本当に、かけがえのないものが、消えてなくなったんだなあ」
半分ほどをノンストップで平らげたところで一息つくと、頭の中にもやもやと去来していた感情が言葉になって出ていく。実際のところ、二〇〇年そこらでこれだけめざましい進歩を遂げられた文明の主が、道を誤ることなく、七万年の間ずっと高みを目指していたなら――いったいどんな世界ができあがっていたのか、想像もつかない。今一度、失われた文明の途方もない価値を思って、小さく目眩を覚えた。
「――僕に、何ができるんだろう」
深く息を吸って、絶品料理の後味を楽しみつつも、僕はいよいよ自分が生きていることの意味がわからなくなっていた。もちろん、僕が死ぬまでの間に、かつてあった人類の所産をすべて取り戻すなんて、望むべくもないことではある。けれど、かつてこんなにも素晴らしい力を持ち、幸せな世界を築きつつあった人たちが存在していたことを、後世に――いつかこの星にやって来た宇宙人に?それとも、すでに地球のどこかに芽吹きつつあるのかもしれない、次なる文明の主に?――伝えていくためには、いったい何をするべきなんだろう。
「――あなたには、あなたにしかできないことがある。私はそう信じています」
初めて会って話してから、まだいくらも経っていないはずの――まあ、向こうからすればとっくに見知った顔ではあるのだろうけれど――小さな女の子の姿をした文明の遺物が、例によってあまり明確な根拠のなさそうなフォローを入れてくる。
「僕は――」
重ねて弱音を吐きかけたところで、ハルカが何となく悲しそうな顔をしていることに気づき、慌てて口をつぐむ。
「――まあ、何かしら――探してみるよ。まだよくわからないけど」
取り繕うようにそう続けると、ハルカの表情が今度はどことなく華やいだように見えた。