第一三話 異変(上)
眠りから覚めると間もなく、まるでずっと待機していたかのような迅速さで、ドアの外から声がかかった。
「おはようございます。重要なお話が、あるのですが」
僕が挨拶を返すのも待たず、何やら切羽詰まったような早口でまくし立てているあたり、ただごとではない様子が窺える。僕は急いで上体を起こすと、マットレスの足下付近にあるパネルで部屋の戸を解錠する。
「どうぞ」
僕がそう告げるのも待たず、またお決まりの「失礼します」などといったフレーズも口にすることなく、ハルカは早足でベッドサイドまでやって来る。これまでニュアンス程度の変化しか見せたことのなかったその顔は、悲痛な、と呼ぶほかないような表情を浮かべていた。
「――本当に、どうお伝えするべきか、わからないのですが――この星は、残り約六日で、滅びる運命を免れ得ないようです」
あまりに唐突だったので、その言葉の意味を正しく理解するのには少々の時間を要した。けれど、つい昨夜までは確かに彼女の中にあった、何か希望めいたもの――僕を教え導き、人類の営みを再び世に示すといったモチベーションのようなものが、影も形もなくなっているのは見て取れた。
「申し開きのしようもないことなのですが――完全な観測範囲外から、超重量の小惑星と推定される物体が、地球軌道へ向けて猛スピードで接近していることが、つい先ほど――一時間と四五分ばかり前ですが――明らかになりました。今からおよそ一四七時間後に、地表を直撃する可能性は、ほぼ一〇〇%。その結果、地球が恒久的に生物の生存に適さない環境に変容する確率も、ほぼ一〇〇%――そう算定されています」
ふふ、と口から息が漏れ出たことで、自分が笑っているらしいことに気づく。どうしようもない状況に陥ったとき、人は笑うことしかできなくなるという話を聞いたことがあるけれど、いやはや、本当だったんだな――そんなことを思うと、また何か妙なおかしみが胸元のあたりからこみ上げてきた。
「このような状況で、申し上げることではないかもしれませんが――せめて最期には、心安らかに、楽しいひとときを過ごしていただけたらと思います。そのために、私にできることは何なりとお申し付けください。何かご希望はございませんか」
もうすぐ死ななければならない、ということを悟ったとき、真っ先に脳裏をよぎったのは、父さんの笑顔だった。七万年という時間の長さを考えれば、また人類の遺産は断片的にしか保存できなかったとハルカ自身が認めていたことを考慮すれば、特定個人に関する物品やデータがそのまま残されている望みはほとんどないようにも思える。それでも、今の僕はそれを求めずにはいられなかった。
「父さんに――ケイジ・エラに関するものは、何か残っていないかな?持ち物でも、写真やテキストでも、何でもいいから」
僕の要望を受け、何秒か考え込むような(検索するような?)間を置いて、ハルカは小さくうなずきを返した。
「一つだけ、ございます。お父様から、お預かりしていたものが」
そう言ってこちらに背を向けると、少女は足早に室外へと歩み出る。彼女に託されたのがどんなものなのか気になったので、後を追って部屋を出てみると、銃などの保管に使っている厳ついケースを開け、中を探る彼女の背中が目に止まった。
「お待たせしました。どうぞ」
そう言ってハルカが差し出したのは、野球ボールぐらいの大きさの金属球だった。受け取って手のひらで転がしてみると、小さな穴の中に折りたたまれた円形のツマミが顔を覗かせる。深く考えるまでもなく、それを起こして引いてみると、球のちょうど中央にできたわずかな隙間から、猛烈な勢いで白い煙が噴出した。思わず取り落とした金属球は、ガシャガシャと大きな音をさせながら二度、三度とテントの硬い床を跳ね回ると、壁にぶつかった弾みで真っ二つに分かたれた。
「……これ、大丈夫なやつ?」
煙でわずかに霞む目をこすりつつ尋ねると、
「有害なものではないようです――科学的には、ですが」
と、あまり安心感が上乗せされない雰囲気の答えが返ってくる。やれやれ、と小さくため息をつきつつ、ようやくクリアになってきた視界の果てへと目を凝らしてみると、二つの殻の間には、リップクリームほどの大きさをした円筒形の金属塊が転がっていた。
「……あれは……」
「わかりません」
僕が疑問を言葉にし終わらないうちに、ハルカもまったくそれの正体をうかがい知れない旨の返答をよこしてきた。まあ、どのみち眺めているだけでは何も起こらないだろうと判断して歩み寄り、つまみ上げてみる。親指と人差し指の間に挟んで一秒ほどで、小さな円筒のところどころが、うっすらと緑色の光を放ち始めた。
『――認証完了。間もなく起動します。手のひらや床など、平らな面に置いてお待ちください』
ハルカの話し声と比べても、だいぶ抑揚の乏しい機械音声が告げる。置いて、と言われても、正しい向きさえ判然としなかったので、とりあえず手のひらに転がしておくことにする。何秒か待つうちに、ぼんやりとした光の一部が線上のはっきりとした光に収束し始め、やがてそれに沿って筒の表面に亀裂が生じていくのが見て取れた。あれよあれよといううちに、それは小さな人型ロボットに姿を変えて、僕の右手のひらに立ち上がっていた。
「――久しぶりだな、エイジ。まずは――おめでとう」
まず、何に対する祝福だろうかと考え、難病を克服したことだと思い至り、同時にこの機械音声の主が誰なのかを悟る。
「――父さん」
「久しぶりだな、エイジ――と言って、まあ、自覚としては最期にお前の寝顔を眺めてから、昼寝ぐらいの間しか空いていないように感じるが」
それはお互い様だよ、と軽口を叩こうとして、言葉より先に涙があふれ出る。そう、このロボットは、電脳化した父さんの筐体に相違ない。顔にあたる部分にはぽつんと一つカメラがあるだけだし、針金のように細い手足にはいささかの人間らしさも見出せない。それでも、僕はまるで、生きていたときの父さんと話しているような感覚に包まれていた。
「――本当に、良かったな」
目下の状況もすっかり忘れて、僕はそのいかにも作り物じみた、それでいて父さん特有の抑揚を持った声の余韻を、しみじみと味わっていた。