閑話.魔族の王と
魔王は、生まれながらにして、魔族の王であった。
眼前には、ひざまずく多くの魔族。
魔王はそんな彼らに、一声命じる。
それだけで、多くの人族の血が流れた。
そうやって、数多の命を奪い続けた。
だが、その人族たちが何を思い、何を考え、何のために生きているのか。
魔王は実際のところ、彼らのことがよく分からなかった。
なぜなら、魔王の前に現れる人族はいつも、物言わぬ死体。
もしくは、単純な悪意だけを向けてくる戦士たちだけだからだ。
そんな彼らも、すぐに死体へと変わる。
だから魔王は、考えることをやめた。
どうでも良かったのだ。
何も考えず、殺して、殺して、殺し続けた。
そんな殺戮の日々が、もう数百年も続いていた。
だが、ある日。
魔王の前に、人族の勇者たちが現れた。
彼らの強さは、凄まじかった。
今までの人族とは桁違いの強さである。
一人、また一人。
配下の魔族が彼らの前に倒れ伏す。
残るは、魔王ただ一人となった。
彼らと一人で戦った魔王は、善戦した。
だが遂に、こちらに切っ先を向ける男の前に、魔王は膝を突く。
その英雄が、最後に言った。
――神に祈れ。さすれば救いを授ける。
だから魔王は、こう言ってやった。
――クソ食らえ。
その後、魔王は何とか逃げ延びる。
体を切り刻まれた魔王。
脚だけが、当てもなく、ただ動き続けた。
どこをどう歩いたのかは分からない。
一体、どれくらいの月日を歩き続けたのかも分からない。
あの人族たちから離れられれば、どこでも良かった。
だがそれも、もはや限界である。
それ以上進むことを拒否する身体に見切りをつける。
広い大地の上に、手足を放り投げて倒れ込んだ。
誰もいない草原で、魔王はその最後を迎えようとしていた。
そこに、一人の少女が現れる。
魔王は殺すかどうか迷った。
だが考えている間に、少女は逃げ去った。
おそらく、冒険者か誰かを呼びに行ったのだろう。
今のこの状況では、真面に戦うことなどできない。
ついに自分も、ここで最後かと死を覚悟する。
だがしばらくすると、少女が再び現れた。
そして彼に、黒いパンを一つ差し出した。
お世辞にもおいしそうとは言えない、干乾びて硬くなったパン。
だが魔王は、何も考えず頬張った。
口の中に広がる、ほのかな麦の香り。
――もっとよこせ。
少女は黙って頷き、走り出す。
三度現れた少女は、魔王に差し出した。
不味そうな黒パンに水。そして小汚い布切れ。
だが魔王は、気にせず口にした。
魔王を黙って見つめる少女。
少女を睨み返す魔王。
――わたしはリリア。あなたは、何者なの?
――魔王。
――そう、マオウさんと言うのね。
そうじゃない。
だが魔王に、訂正するつもりはない。
名前など、どうでも良いことなのだから。
その日から、毎日のように少女の配給は続いた。
決して裕福そうには見えない、貧相な出で立ち。
自分たちの食糧ですら、確保が困難ではないのかと思った。
――もうここへは来るな。
自分に構う必要などないのだ。
彼女の助けなど、不要であった。
――どうして? あなた、怪我をしているのに?
それでも、少女が訪れない日はなかった。
魔王の意志とは無関係に、会話は少しずつ増え始める。
知りたくもない少女に関する情報が、魔王の頭の中を占領していく。
十三歳になるリリアは、両親と兄の四人家族。
父は戦争に行っているため、今は三人で暮らしていた。
十六歳の兄はそんな父に憧れ、剣を振る毎日。
だがこんな田舎に、剣術を教える者などいなかった。
少女の興味は当然、目の前の人物にも向けられた。
マオウさんは今まで何をしていたのか、と聞いてきた。
もちろん魔王は、王だと言った。
冗談と受け取った少女は、愉快そうにいつまでも笑っていた。
馬鹿にされている気がするのに、不思議と怒りが湧かなかった。
過去の自分であれば、すでに少女の首は胴体から離れていただろう。
しかしそこには、不愉快さなど一つもなかった。
いや、むしろその逆である。
彼女の笑顔に釣られ、口角の端を僅かに上げた自分がいた。
驚いた魔王は、急いで表情を戻した。
自分の中で変わろうとする何かに、初めて恐怖したのだ。
そしてまた、日は過ぎ去った。
魔王は体の状態を確認するため、魔力を解放する。
顕現した大剣を、運動代わりに振り回す。
巻き起こる暴風に、周囲の草木が顔をしかめる。
驚いた小動物たちは、一目散に逃げ出した。
気が付けば、無心で剣を振り続けていた。
開いた傷口に、魔王は舌打ちをする。
またしばらく、大人しくしておく必要があった。
ふと村のある方を見遣ると、少女が立ち尽くしていた。
小刻みに震える体。
いつも大切そうに抱えている、粗末なぬいぐるみ。
それが何を象ったものか判然としないぐらいに、強く握り締められていた。
戦争へ行く前に、父が初めてプレゼントしてくれたものだと言っていた。
――それ、ちぎれてしまうぞ。
あの剣気に当てられて、逃げ出さなかったのは見事であった。
いや、ただ体が動かなかっただけなのかもしれない。
――マオウさんは、とっても強い人なのね。
どこかの王国に仕える、騎士さまなの?
興奮した少女は、平穏を取り戻した草原の上ではしゃぎ回る。
――人でもないし、騎士でもない。俺は王だ。
あまり理解はされていないが、その強さだけは認知されたようであった。
――怪我が治ったら、国へ帰るの?
魔王に、帰るべき国などなかった。
もはや全てが消え去ったのだから。
――帰る国などない。
――じゃあ、これから何をするの?
――何もしない。
――暇なのね?
――暇だな。
――じゃあ一つお願いがあるの。
――断る。
少女はそんな魔王を無視する。
そして、兄に剣術を教えてあげて欲しいと頼み込んだ。
すこぶる面倒だ、と魔王は思った。
それから、幾日が過ぎ去ったころ。
再び顕現させた大剣を、確かめるように振り回していた。
今度は、傷に障らないよう、力を抑えて。
だが、溢れ出す闇の魔力に、魔王以外の周囲は迷惑顔であった。
そんなところへ、少女が兄を連れて来た。
少女以外の、初めての来訪者であった。
その兄の名前は、ファーガソンと言った。
最初は戸惑っていた兄であった。
だが、眼前の圧倒的な力に、一気に魅せられた。
それから兄も、妹と共に毎日のように訪れた。
魔王から見て、兄の剣術は全くその体を成していなかった。
もちろん魔王に、剣術を教えてやるつもりなどなかった。
最初はただ、傍観していた。
だがそれも、限界であった。
不愉快極まりなかったのである。
下手糞な剣舞を目の前で見せられることに。
――小僧。剣術の前に、先ず体を鍛えろ。
それが、始まりであった。
今考えてみても、不思議である。
なぜそんなことを言ってしまったのか。
見るのが嫌ならば、すぐにこの地を去れば良かったのだ。
いや、目障りなら殺してしまえばいい。
だがそれでも、指南紛いのことばを口にした。
もはや魔王は、自分のことがよく分からなくなっていた。
それから、多くの時間が過ぎ去る。
ようやく様になった兄の剣術。
試しに魔王は、素手で相手をしてやった。
振り下ろされる刃を指で止め、がら空きとなった胴に蹴りを入れる。
それでも折れることなく、兄は何度も打ち掛かって来た。
児戯にも等しい剣筋ではあったが、成長の跡を感じることができた。
わずかに弾む心。
そんな感情が、魔王に気まぐれを起こさせる。
――小僧。魔術を教えてやる。
驚いたことに、魔術に関しては意外と早く習得してしまった。
もちろん基礎程度ではあるが。
元々、その才を持ち合わせていたのかもしれない。
月日が矢のように経過する。
そのころには、少女の兄は村一番の戦士となった。
魔王の軽い準備運動程度であれば、相手を務めることができるほどに。
魔王の中には、すでに教えるべきことがたくさんあった。
これはまだ早いから、先にこっちを教えよう、などと考えていた時であった。
そんな魔王を見た少女が声をかける。
――とても楽しそうね、マオウさん。
満面の笑みで言われたその一言に、魔王は動きを止める。
楽しそう? 俺が?
一瞬、何を見てそう言っているのか分からなかった。
だが、自分の顔に手をやって気が付いた。
頬を緩ませ、歯を見せ、口角を上げている自分。
笑っていたのだ。
命を刈り取る前に見せる、無慈悲でいやらしい笑みではない。
自然に沸き起こった、嘘偽りのない表情。
それは、魔王にとって初めての経験である。
感情を、激しく揺さ振られた。
ある日、少女は魔王に問いかける。
――マオウさんって、もしかして魔族なの?
今頃気が付いたのかと、内心苦笑する。
――そうだ。
――じゃあ、人族と戦うの?
英雄たちに敗れ去った自身の姿が脳裏をかすめる。
――分からん。
――じゃあ、これから何をして生きていくの?
――分からん。
今更、魔族を集めて英雄たちに挑もうなどとは思わなかった。
そんなことを考えさせないほどに、圧倒的な力を見せつけられたのだから。
今考えてみても、どうして生き残ることができたのか不思議であった。
――なら、人のために生きるというのはどう?
――魔族の俺が? くだらん。
笑えない冗談だと思った。
魔族の王が、人のために生きるなど。
天と地がひっくり返ったとしても、それだけは有り得ない。
――ダメ?
――当たり前だ。
――でも、マオウさんは兄に剣術を教えてくれたじゃない?
その瞬間、魔王はことばを失う。
天と地がひっくり返った。
すでに自分は、人のために生きていたのだ。
矛盾する心と体に、均衡を保てなくなった精神。
魔族であろうとする自分と、受け入れ難い現実。
その間で、激しく揺れ動く。
出口の見えない混沌へと迷い込む魔王。
もう、やめてくれ。
頭がおかしくなりそうだ。
どうして自分は、こんなにも悩まなくてはいけないのだ。
そうだ。
この少女のせいだ。
目の前にいるこの人族のせいだ。
こいつさえいなければ、何も考えなくて良かったのに。
魔王の手が、自然と少女の細い首へと延ばされる
――どうしたの、マオウさん?
少女の声で、はたと我に返った。
――もう帰れ。そして二度とここに来るな。
それからというもの、魔王は少女から姿を隠し続けた。
自分を呼ぶ声に耳を塞いだ。
寂しそうに村へと戻る背中を、ただ見つめていた。
そんなことが、何日か続いたある日。
少女とその兄が血相を変えて近付いて来る。
声高に叫ぶその声は、隣村が魔物の群れに襲われたことを伝えていた。
魔族が人の村を襲う。
結構なことではないか。
今まで何度も、そう命じてきたのだから。
次はきっと、少女たちの村だ。
――マオウさん、お願い。わたしたちを助けて。力を貸して。
少女の悲痛な叫びが、草原を吹く風の中へと霧散する。
何度も、何度も繰り返し叫ぶ少女。
少女のその声に、堪らず魔王は姿を現した。
そして、左手に嵌めた指輪を抜き取る。
魔王はそれを、無造作に兄へと投げつけた。
もはや、英雄たちと事を構えるつもりはない。
そんな自分には不要の長物であった。
――俺は戦わん。それでどうにかしろ。
使えようと、使えまいと、そんなことはどうでも良い。
魔法なら、すでに教えていた。
そして魔王は、彼らの願いに背を向けた。
どうして魔族の自分が、人族のために?
怖ければ、逃げればよいのだ。
力がなければ、戦わなければよいのだ。
かつて、英雄たちに敗れ去った自分のように。
魔王はただ一人、誰もいない草原に立ち尽くした。
風が、音と臭いを運んで来た。
女たちの悲鳴。
剣戟の衝突音。
何者かの下卑た高笑い。
そして、懐かしさすら覚える、濃密な血の臭い。
少女の笑顔が、頭に浮かぶ。
この期に及んで、無駄な思考は不要であった。
気が付けば、体は自然に村へと駆け出していた。
村は、血の狂宴であった。
そこら中に打ち捨てられた人の死体。
大地は、血で黒く染まっていた。
そこら中に溢れる死体と魔族。
一番の激戦地と思われる村の中心部へと向かう。
そこには、見覚えのある一振りの剣が無造作に転がっていた。
周囲には、いくつもの魔物が打ち捨てられていた。
近くにいた魔族の一人に尋ねる。
――その剣を持った少年はどうした?
すると、端的な答えが返ってきた。
喰った、と。
魔王の心に、わずかなさざ波が立つ。
――そうか。
最後まで激しく抵抗した少年。
彼は、激昂した魔族たちに四肢を引き裂かれたそうだ。
虚ろな目で、魔王は周囲を見渡した。
そして魔王は、少女を見付ける。
衣服を剥かれ、犯され続けた少女。
その手足は、もはや失われていた。
魔王を見つめる瞳に、希望の光が灯る。
それは吹けば消えそうな、小さな、小さな灯火であった。
軽くなった少女を抱き上げる。
マオウさん、ありがとう。
彼女の弱々しい目だけが、そう伝えている。
生まれて初めて、頬を伝い落ちる何かを感じた。
こんな自分にも、涙は流れるのだなと思った。
人のために。
約束ね。
糸よりもか細い、囁くような少女の声がかろうじて聞こえた。
それは、少女の祈りを集約した必要最小限のことばであった。
そして少女の身体から、熱は失われた。
――そのガキ、おかしなことを言っていたよな。
――あぁ。マオウさんが来てくれるだったか?
――誰だよ、マオウさんて。
――まさか、魔王様のことか?
――なわけねぇだろう。
そんな雑音が、魔王の頭の中を掻き回した。
ぐるぐる、ぐるぐる、と。
魔王は問う。
――どうして、この村を襲った?
いや、どうしてこんな片田舎へとやって来た?
問われた魔族たちは、顔を見合わせる。
そして、答えた。
闇の魔力に惹きつけられたのだ、と。
長い時間をかけ、ようやくこの地に辿り着いたのだ、と。
そこで魔王は、理解する。
自分が魔族を引き寄せ、少女たちを死に追い遣ったことに。
そう、王の発する魔力を目指し、彼らは集結したのだ。
だが、そんなことは知らなかった。
知ろうともしなかった。
もはや誤魔化しようのない気持ち。
魔王が少女たちに抱いていた感情。
その二人を失って、ようやく頭が心に追いついた。
心と体が同時に、悲鳴にも似た雄叫びを響かせる。
気が付けば、魔王はそこにいる魔族どもの首を刎ね飛ばしていた。
驚いたまま宙へと舞い上がる表情たち。
その一人の腹へと、腕を突き入れた。
そこに感じたのだ。
闇の魔力と、それに翻弄された少年の存在を。
取り出した指輪を、再び指に嵌める。
心は、すでに決まっていた。
魔力を解放し、魔族を寄せ集める。
蜜に群がる虫を捻り潰すように、命を強奪していく。
一人として、逃すつもりなどなかった。
狂いそうになる苦痛と惨たらしい死を、等しく彼らに与えた。
与え続けた。
別に、彼らが悪い訳ではない。
だがそれでも。
そうせずにはいられなかった。
そうするしかなかった。
かつて少女の村があった場所。
やがて、そこが魔族の墓場と呼ばれるようになるまで。
魔王は、闇を放ち続けた。
そして。
全てを狩り尽した魔王は、旅に出る。
途中で出会う人は皆、興味深かった。
人とは、こんなにも多様な生き物なのかと知った。
それを指し示してくれた少女のことを、魔王はいつも思い出した。
心の中で、少女が微笑みかける。
魔王は。
人生に行き詰った戦士に、助言をしてみた。
野盗に襲われた商人を、救い出してみた。
冒険者を目指す少年に、手ほどきをしてみた。
夢を見る幼い子どもたちに、旅の冒険譚を聞かせてみた。
皆、少女と同じように。
目を輝かせていた。
もちろん、魔族に近い心を持った者もいる。
そんな時は、躊躇いなく殺した。
そうして、人々の希望と絶望を背負いながら。
魔王は、数百年の時を過ごした。
そしてある日、かつて自分に仕えた魔族の末裔と出会う。
過去の大戦で身寄りを失くした幼い少女。
その瞳は、暗く閉ざされていた。
今の魔王に、放っておくことなどできるはずがなかった。
――わたしと共に来るか、ラドミア?
――はい、魔王さま。
人の世界で生きることを決めた少女に。
魔王は、人族の名前を与えた。
リリア。
それが、その日から少女の名前となった。
――では、魔王さまのことは何とお呼びすれば?
――わたしか? そうだなぁ。
少し考える素振りをする。
だがすでに、頭の中には一つの名前を思い浮かべていた。
――ファーガソンだ。これからは、わたしをそう呼びなさい。
――承知しました、ファーガソンさま。
夢の中で、硬いパンを差し出した少女が、嬉しそうに笑う。
魔王も、気恥ずかしさを含んだ笑みを漏らした。
それから魔王は、多くの年月を少女と共に過ごした。
少女には、自分の全てを教え込んだ。
生き抜くために、暗殺などという後ろ暗い仕事もさせた。
柄にもなく、ぬいぐるみを与えたことだってある。
そんな彼女は、父親とも言える魔王の背中を見て育つ。
いつしか彼女は、困っている者にその手を差し伸べ始めたのである。
そんなある日。
必要以上に他人と関わろうとしないリリアが、珍しく声を弾ませる。
記憶を失った冒険者がいるのだと。
彼についての話題が、自然と食卓を賑わせる。
リリアが小躍りするように屋敷へと戻ったのは、それから数日後であった。
そして今、自分を父と呼んだその青年の後ろ姿を、魔王は見つめていた。
やがてその姿が遠く霞み、見えなくなるまで。
いつまでも、いつまでも。




