3.遭遇
初めは小さかった水の流れるような音が、次第にはっきりと耳の奥へと届き始める。
その音に目覚めさせられるように、混濁した意識もやがて鮮明なものとなり、俺は重い瞼をゆっくりと上げた。
先ず目に飛び込んできたのは、抜けるような青さに澄み切った大空と、まるで天空を旅するように緩慢な速度で流れる白い雲たち。
なぜだろう。どこかで見た景色のような気がする。
どうしてそう思うのか、よく分からない。どこにでもある景色といえば、そうなんだけれど。
俺は確か大型トラックにはねられて死んだはずだ。目の前に迫る某自動車メーカーのエンブレムは、今でも頭に焼き付いて離れない。
そして次に目を開くと、原っぱのようなところで俺は寝転んでいた。川のせせらぎの音が聞こえることから、近くに小川が流れていることが推測できた。
ふと自分の腕や体を見ると、前腕を覆うガントレット、胸当などを装備していた。
驚いた俺は思わず勢いよく飛び起きた。よく見ると装備は革で作られており、表面は硬質な輝きを放っている。それに、胴部分の一部に穴が空いており、そこからは非常に鍛え上げられた腹筋が顔を覗かせていた。俺はこんなに体を鍛えた覚えはない。どこにでもいる中肉中背のサラリーマンだったはずだ。
もしかして俺は、異世界に転生してしまったのだろうか。しかも、騎士もしくは冒険者のような戦闘に係る仕事に従事する何者かに。
次に周囲を確認しようと辺りを見回すと、そこには想像を絶するものがあった。
少し離れたところに、女性の遺体が横たわっている。どうして遺体だと分かるかというと、胸元から上がないからだ。まるで何者かに喰い千切られたように、本当に何もない。首と同時に引き千切られて衣服がなくなったせいで、残った乳房の下半分はだらしなく外に放り出されていた。そして彼女の下半身にできた水たまりが、履いているズボンの色彩を一層色濃くさせている。そこに、人間の尊厳なんてものは欠片もなかった。
その光景を目の当たりにしたとき、足がすくみ、胃が裏返りそうな不快感に襲われた。堪らず崩れ落ちた俺は、四つん這いのまま全てを地面に吐き出した。
「う、うぼぉえぁあああ!! お、おぁえぇぇぇぇ!!」
マジかよ、くそっ。
こんなのは、本当に。本当に人間の死に方なんかじゃない。他の物語に登場する転生者は、どうしてこんな光景を見て平然としていられるんだよ。俺にはとてもじゃないが、無理だ。
どこの誰かは知らないけれど、どうか安らかに眠ってください、と心の中で手を合わせておいた。
未だ涙で滲む地面を見つめていると、胸元から鎖に繋がれた金属製のプレートが飛び出ていることに気が付いた。
気を取り直してそれを観察してみると、当然日本語や英語ではない言語が彫られていた。でも俺はそれを読むことができる。しかもそれはシルダード語と呼ばれるものだ。なぜかそんなことが分かる。
アレン・マクスベル 男性
シルバーフォックス級
彫られている内容はただそれだけだ。それと小さな宝石のようなものが埋め込まれている。
おそらくアレン・マクスベルというのが、この体の持ち主の名前なのだろう。そして、俺の厨二心をくすぐる階級らしき名称。やはり俺は、冒険者か傭兵に転生したようだ。
それにしても不思議だ。なぜ俺はこの世界の言語が理解できるのだろう。
もしかすると、この体の脳に蓄積された言語の記憶によって、文字を読んだりすることができるのかもしれない。もしそうだとすると、この腰に装備した剣を扱う程度の基本的な剣術を、体が覚えていてくれると助かるんだけど。でもそうなると、他の知識が一切ないことが気になるな。
まぁ色々と考えてはみたものの、たぶん転生したときに神さまが与えてくれる、いつものご都合主義的なやつだろうという結論に至った。
さて、これからどうするか。
とりあえず近くの小川で顔を洗ってから、まだ酸っぱさがほのかに残る口の中をすすぎたい。
俺はゆっくりと立ち上がると、水の流れる音のする方向へと歩き始めた。
小川は割とすぐ近くにあった。その場にしゃがみ込み、両手で水をすくおうとしたとき、こちらを見つめる一人の男の顔が水面に浮かんでいた。
これって、俺だよな? 何ていうか。一言で表すと、超絶イケメン冒険者だ。ハリウッドスターかよってつっこみを入れたくなるぐらいの。これだけ男前な顔をしていたら、異世界ハーレムも夢じゃないかもしれないな。
一瞬、俺の脳内でよからぬ妄想が膨らむ。だが、原っぱで横たわる哀れな女性の姿を思うと、どことなく居心地の悪さを覚えて、すぐにその妄想をかき消した。
小さくため息をついた後、俺は冷たい水で顔をごしごしと洗い流した、その時だった。
「ウゴォォォォォォォォ!!」
この世の生物とは思えないような咆哮が背後から聞こえた。
頬を伝った水滴が、顎からぽつりと滴り落ちる。
俺の全身は粟立ち、体は硬直した。
それでも何とか、その声の主がいるであろうと思われる方向へ、俺は静かに顔を向けた。
そこには、頭部から二本の角がねじれるように飛び出た、四足の獣の姿があった。片方の角には、赤黒い血液がべったりと付着している。
この世界ではあの生物を何と呼んでいるかは知らないけれど、前世の記憶にある特徴と一致する生物の名前をあえて言うなら、それはベヒモスと呼ばれている魔物だ。
そしてその獣の足元には、首のない遺体が変な体勢で崩れ落ちていた。
たしか、先ほど周囲を確認したとき、大きな背嚢が三つあったはずだ。つまり俺たちは、三人パーティーの冒険者だったんだろう。それを、あいつに全滅させられたんだ。
「最悪……。俺の転生人生、即行詰んだ……。」
ベヒモスは姿勢を低くすると、明らかな臨戦態勢となる。
そして俺の胴体よりも太い肢で大地を蹴り、唸り声を上げてこちらに駆け出した。
その巨躯とは裏腹に、猛烈な速度で俺との距離を縮めてくる。
やばい。これはマジでやばいやつだ。このままだと確実に殺される。
早く逃げないと。いや、そもそも逃げ切れるのか。少なくとも、あれは人間の出せる最高速度を軽く超えているぞ。俺なんかが降り切れるわけないじゃないか!
ベヒモスの大地を踏み砕く振動が、足の裏を通して伝わってくるまでの距離に迫る。
恐怖から体は委縮し、まるで脳からの命令を完全に無視しているように指一本動かせない。
そして俺は、自分が食い殺されることを待つだけの、ただの小動物に成り下がった。
せっかくの転生人生が始まろうとしていたのに。
ほんと、短い生涯だったな。
来世は、戦いのない平和な世界だといいな。
そんな益体もないことを考えながら、俺は静かに瞼を下げた。




