29.テスラ
俺は柔らかいベッドの上で上質な毛布に包まり、部屋の天井を見つめていた。
そこへ、部屋のドアを小さくノックする音が聞こえた。
開かれると同時に、俺はベッドの上で上半身だけを起こし始めた。
「朝食をお持ちしましたよ。体の具合はどうですか?」
テーブルへ朝食を置いた人物は、心配そうな表情で俺を見つめてくる。
口ではそう言っているが、きっと彼女はもっと別のことを心配しているのだろう。
つまり、俺の精神的な部分の方をだ。
あの戦いから一ヶ月が過ぎ去った。
完璧ではないけれど、体の方はかなり調子を取り戻していた。
魔導回路を極限まで酷使した俺は、次の日から一週間は真面に体を動かすことができないぐらいに衰弱していた。
だがそれも、彼女の必死の看病と、教会から呼び寄せた簡単な回復魔法を使える神官のおかげで、普段の生活をする分には何の問題もないぐらいまでには回復したのだ。
手足の焼け爛れた傷も、ほとんど消えて元通りとなった。
さすがは魔法の世界だ。
そこへ、当然のようにベッドの上へと上って来た黒猫が、様子を窺うように俺の顔を覗き込む。
そんなに見つめなくても、体は本当にもう大丈夫だ。
それよりも問題なのは、俺の心の方だ。
ほんの数ヶ月という間ではあったが、一緒に連れ添った大切な仲間。
いつも笑顔で、底抜けに優しく、たまにドジっ子ぶりを発揮する少女。
そんな彼女、テスラが死んだのだ。
この一ヶ月、毎日彼女のことを考えていた。
とてもじゃないけれど、立ち直れそうになんかない。
魔神を倒したことの喜びや達成感、勝利の余韻など、瞬く間に塵となって消えてしまった。今となっては、そんなことはどうでも良い。
「ん~、まだあんまり良くないかな。もう少し眠ることにするよ。」
「そうですか。でも、朝食だけはちゃんと食べておいてくださいね。」
言外に、一人にしてくれとほのめかす。
きっとリリアは、俺の体が回復していることには当然気が付いているだろう。
それを理解した上でなお、俺を気遣って調子を合わせてくれているのだ。
「あぁ、分かった。ありがとう。」
ぎこちない笑顔を張り付けた彼女は、小さく頷く。
「それでは、また後で。」
入り口まで向かったメイド服のリリアは、部屋の扉を開いて退出しようとした。
だがすぐに立ち止まると、顔だけをこちらの方へと向ける。
いや、正確にはこの黒猫の方を、だ。
「ニュート、行きますよ?」
すると黒猫は、にゃお~と小さく鳴き声をあげると、開かれた扉の隙間からそそくさと立ち去った。
そしてまた一人となった俺は、重力に逆らわずに後ろへ倒れ込むと、ベッドの上で大きく息をはく。
この一ヶ月、もはや日課となってしまった決戦の日の夜のことを思い返す。
俺の目の前に、あの時の光景が鮮明に浮かび上がる。
ΔΔΔ
ことばへと昇華しない声を上げながら、魔神は少しずつ滅び去ろうとしている。
砂で固めた彫刻像が崩れるように、さらさら、さらさらと。
だが憎悪に満ちたその暗い瞳だけは、俺を捉えて離さない。
死を迎える間際まで、俺の姿をしっかりと焼き付けるように。
最後のお別れの時まで、この魔神に付き合ってやる義理など俺にはない。
死ぬんなら、勝手に一人で死にやがれ。
全身を走る激痛に耐え、体を引きずりながら俺はテスラの方へと向かった。
ほとんど意識を失っているように見える少女の視線は、遥か遠くで輝く星々の方へと向けられていた。
悲鳴を上げる手足に構わず、俺はテスラの上半身を抱き起した。
「テスラっ! すぐに教会へ連れて行ってやるからなっ!
だから、もう少しの辛抱だぞっ!!」
当然だが、彼女からの反応はない。
それでも俺は、言うことを聞かない体に鞭を打って彼女を抱きかかえようとする。
こんなにも細く、小さい体なのに、今は鉛のように重く感じる。
もはや強化魔法の効果も消え、これ以上の魔法発動は体が受け付けようともしない。
だからって、こんなところで諦めてたまるかよ。
体を引きずってでも、テスラを教会へと連れて行ってやる。
俺が必死に足掻いていたところへ、リリアの肩を借りた状態でファーガソンさんがゆっくりとこちらへ近付いて来た。
「アレン君。残念ですが、このトレヴルージュに、彼女の傷を治せるだけの神官はいません。
もしいるとすれば、サント・ヘイルーン法国のような大国の高位神官ぐらいでしょう。」
どこまでも暗く、沈んだような声で、ファーガソンさんはそう教えてくれた。
「じゃ、じゃあ、このままテスラを見殺しにしろって言うんですか!?」
「…………。」
責めるような言い方をファーガソンさんにするのはお門違いだ。
そんなことは分かっている。
でも、叫ばずにはいられなかった。
「う…………。くっ…………。」
激しい苦痛のためか、俺の叫び声のせいかは分からないが、テスラが微かに意識を取り戻した。
「テスラっ!! 大丈夫かっ!? 今助けてやるからな!!」
大丈夫なわけがないだろ。
一体どうやって、彼女を助けるっていうんだよ。
どうしようもないことぐらい、俺にだって分かってはいる。
でも、そう言わずにはいられなかった。
「それと、さっきのやつは、俺たちがぶっ倒したから安心しろよ!」
俺は少しでも、彼女の中から憂いを取り除きたかった。
テスラはそんな俺のことばを聞くと、苦悶に歪む表情の上に無理矢理作った笑顔を張り付ける。
震えながら、弱々しく上げられた小さな右手。
力が抜けて大地へと落ちるその前に、俺はその手をしっかりと掴んで握り締める。
手のひらを通して伝わるほのかな温もり。
だがやがて、それも熱を失い始める。
嫌だ……。
嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ!!
こんなところでお別れなんて。
絶対に嫌だ。
まだあの時の答えも聞いていないのに。
こんなの。
あんまりじゃないか。
どうか。
どうかお願いします、神さま。
テスラを助けてください。
俺を転生させられるなら、この子の傷だって簡単に治せるはずだろ。
それにテスラは、俺みたいな無神論者とは違う。
ずっと神に寄り添って生きてきた神官だ。
そんな子を助けずに、何が神さまだよっ!!
頼むから、彼女を助けてくれよ……。
そのためなら、俺の全てを捧げてもいい。
だから。
お願いします、神さま。
どうか、テスラを。
「あ…………、れ…………、ん…………。」
その時、俺の名前を呼ぶ声が聞こえた。
それは、苦しさに耐えて絞り出された、吐息のように弱々しいものであった。
「っ!? テ、テスラっ!?」
彼女のか細い指を握り締める俺の手に、力が込められる。
「い…………、の…………、て…………。」
「い、の、て? いのって……。祈って?」
ショック症状のように体を痙攣させた後。
最後の力を振り絞るように。
穏やかな笑みを浮かべる。
「祈ればいいんだな!? 分かった!
君のために祈るよ。
ずっと祈るから……。だから、しっかりしろテスラ!!」
だが、俺のことばを聞いた彼女は、安心したように静かに瞼を下ろす。
その瞬間、テスラの身体が光を帯びる。
やがて、少女の存在が希薄となり、その全身が光の粒子へと変わり始めた。
目の前で起こった理解不能な現象に、疑問の欠片すら今は思い浮かばない。
この大地へ繋ぎ止めておくことのできない彼女を、俺はただ黙って見つめていた。
腕に感じていたテスラの重みは、もはや無く。
汚れを知らないその魂は、黒天へと昇り。
このアースガルルドの広い夜空へと霧散し、やがて全ての光は消え去った。
溢れる絶叫。
決壊する涙腺。
俺はただ、いつまでも、いつまでも、獣のような叫び声を上げ続けた。
ΔΔΔ
もはや涙は枯れ、目の前で起こった出来事に呆然とする俺の耳に、目を覚ました獣人とリリアの押し問答が聞こえていた。
「お、お願いしますニャ! 何とか命だけは助けて欲しいニャ!!
さっき言った悪口のことも全部謝るからっ!!」
「それはできません。ここで敗者を始末するのは、当然のことです。
それに悪口のことなど、どうでも良いことです。」
「残念ですが、そういうことです。ラドミア、やりなさい。」
「そ、そんニャ~……。」
目に涙をいっぱいに浮かべた全裸の少女は、手を合わせて懇願するように二人を見上げていた。
「リリア…………。」
三人の視線が、同時に俺へと集中する。
「その子、やっぱり見逃してやるわけにはいかないかな?」
「っ!? 何を甘いことを言っているのですか!?
ここで殺さなければ、この獣人はいつか必ず報復に来ますよ? それに、テスラさんのことも…………。」
「ア、アレンちゃ~~~んっ!」
助け船を出した俺へ、表情を崩した獣人の少女が人懐こい顔を向ける。
勘違いするなよ。別にお前の命を助けたいわけじゃない。
俺は、ただ……。
「今は、もうこれ以上誰かが死ぬところを見たくないんだ……。
だめかな、リリア?」
「…………。
ですが、やはり賛同はできません。
ただ、アレン君がどうしてもと言うなら、彼女をわたしの眷属にして隷属させるという方法もありますが……」
そこで、唾が地面へ吐き付けられる音が、リリアのことばを止める。
「そんなの、絶対にごめんだニャ!
ヴァンパイアになるぐらいなら、死んだ方がマシニャっ!」
「そうですか。では殺しましょう。」
「ま、待つニャ~。やっぱそれも嫌だニャ~!」
本当なら俺だって、今すぐにでもこいつをぶっ殺してやりたい。
こいつらさえ来なけりゃ。
テスラはきっと。
心が闇色へ染まろうとすることに抗いながら、溢れ出そうになる罵声たちに蓋を被せる。
「おい、獣人の女。お前に最後のチャンスをやる。
いいか? 俺の質問に頭を使って、よく考えてから答えろよ。」
自分でもぞっとするような暗い声音であった。
一瞬で表情を強張らせた獣人の少女は、黙って首を上下に大きく振る。
「ここで、俺に八つ裂きにされて殺されるか、リリアの眷属となって従うか、好きな方を選べ。それ以外の選択肢は、お前には用意されてねぇんだよ。
今の俺は気が短いんだ。さぁ、早く選べ。」
絶望に満ちた表情の少女は、三人の顔を見回した。
そして悔しそうに眉根を寄せてうな垂れると、ただ一言。
「眷属に……なるニャ…………。」
そう呟いた。
ΔΔΔ
目が覚めると、いつもの部屋の天井が視界に広がっていた。
窓の外を見ると、陽はすでに沈んでいる。
あれから随分と眠ってしまったようだ。
手をつけずにいた朝食は、いつの間にか片付けられていた。
するとそこへ、朝と同じようにドアがノックされる。
開かれた入り口には、こちらを窺うような表情をしたリリアの姿があった。




