28.神殺しの英雄
少しずつ、本当に少しずつ結晶化されるように。
まるでまだ、発動させた術者に躊躇いを感じているように。
それらは、俺の周囲に姿を見せ始めたのであった。
だがそれは、やがて決意する。
俺に力を貸すと、決めたのだ。
濃密な赤は、俺の周囲にある空気を塗り替える。
そして俺の指示を待っているかのように。
流動しながら、踊るように漂っていた。
ファーガソンさんを生み出した神さま、ありがとうございます。
この力、少しお借りします。
魔族を生み出した悪神に感謝するなど、この世界の神官が知れば俺は確実に異端者扱いとなってしまうだろうな。
だがそれでも、あの魔神を倒せるなら、悪神だろうと何だろうと祈ってやるさ。
俺はあるイメージを頭に思い描き、手元に血霧を集中させる。
そしてその両手に具現化されたのは、ダガーナイフのような双剣であった。
ファーガソンさんは言った。
この加護魔法は、武具を具現化させるのだと。
ならば、大剣以外にも可能なはずだ。
今の俺は、剣や盾で魔神と打ち合うほどの剣術なんか体得などしていない。
それに甲冑も不要だ。どうせ敵の一撃が当たればそれで終わり。
ならば、どう戦うかは決まっている。
この数ヶ月、俺の目の前で何百、何千回と見てきた動き。
リリアの戦闘スタイルで行くしかない。
「なっ……!! ベリドの野郎、一体何を考えてやがるっ!!」
憎悪に塗れた魔神からは、大きな歯ぎしりが聞こえた。
倒れたテスラの方に視線を向けると、ほとんど動かなくなった彼女の姿が視界に入った。
時間がないが、二重の加速と強化魔法による連続した波状攻撃で行くしかない。
速度で圧倒し、手数でダメージを稼ぐ。
俺は神経を集中させ、大気中のマナを圧縮させて取り込む。
そして更に限界まで圧縮。
負担は大きくなるが、こうでもしないと魔神相手には真面に戦えない。
濃厚な燃料を、魔導回路へと注入。
そして詠唱。
全身を雷のように駆けまわる、圧倒量の魔力。
自然と理解ができた。
今、英雄の領域へと自分が足を踏み入れたということに。
ほんの少しペダルを踏み込んだだけで、一気に噴き上がる回転数。
モンスターマシンのエンジンが、俺の体を支配しているような感覚。
そして、死へのカウントダウンが開始される。
終わりを迎えるのは、俺か、暴牛の魔神か。
あるいは、大切な仲間の命か。
いくぞ。
そう思った瞬間であった。
色を混ぜるときの絵の具のように視界が歪み、一気に急加速。
気が付けば、甲冑の隙間に見えた膝関節部を切り裂いていた。
迸る黒い鮮血。
そして視界の端から迫る、薙ぎ払われた片刃の大剣。
姿勢を低くして回避。
頭の上を、闇よりもなお黒い刃が過ぎ去る。
そんな光景を他人事のように眺めながら、腕の関節部の肉を裂く。
更にもう一枚の黒刃が迫る。
相手の動きに合わせて、手首の肉を断つ。
浅い。
だが、選択は間違えていない。
最短で最速の、悪手を許さない最善の一手を決め続ける。
一つでも間違えれば、それはこの場にいる全員の終わりを意味している。
そこからは、限りなく王手に近い何百という指し手を打ち続けた。
神経は、次第に擦り減らされる。
意識が、やがて曖昧なものとなり始める。
圧縮された濃密な時間だけが、雲が流れるようにゆっくりと経過する。
あぁ。長い。
一秒がとてつもなく長い。
こんなにも長く感じる一秒なんて、後にも先にも、今この瞬間だけだろうな。
加速を続けているせいで、時間の感覚が麻痺してしまった。
あれから、一体どれぐらいの時間が経過したんだ?
もう一時間以上、こんなことを続けているような気がするよ。
でももしかすると、まだ一分すら経っていないのかもな。
とてもじゃないけれど、更に一分も同じように動き続けるなんて無理だ。
だからって、足を止めるなよ。
絶対に立ち止まるんじゃねぇぞ。
そんな余裕、これっぽっちもねぇんだからな。
腕を振り続けろ。
脚を動かし続けろ、アレン。
俺は魔神の眼前に着地する。
そして両手に持った暗紅色のダガーを、魔神の両膝へ真横から突き立てる。
ハーゲンの苦痛に呻く声が漏れ出た。
真上から振り下ろされる二枚の黒刃。
雷光の如く、真後ろへと一気に飛び退る。
憎、怒、殺、悪、恨。
俺が知る限りの負の感情全てを目に宿した魔神が、こちらを睨み据える。
「ちょこまかと動きまわんじゃねぇよっ、クソがっ!!
黙ってぶっ殺されろっ!!」
俺の攻撃力自体は小さい。
だが、効いていないわけではない。
なぜなら、俺の剣撃は神聖化されているからだ。
神格級の強化魔法は、ただ単に筋力を強化するのではない。
筋肉、神経、動体視力、骨格という身体的な強化に止まらず、魔力変換の最効率化と変換速度の上昇、そして発動魔法の強化まで及ぶ。
それに加え、発動魔法や武具の強化と神聖化が自動で付加されるようだ。
闇属性化の魔法で上書きしない限り、このダガーは魔神や魔族たちの弱点である神聖属性を帯び続ける。
この適用範囲の広さと付随する効果が、神格級と呼ばれる所以なのだろう。
空になった両手に、俺は次のダガーを顕現させる。
そして、ビルの屋上から飛び降りるように、一気に加速度を上げて駆け出した。
水平方向から迫る、ワンパターンな薙ぎ払い。
俺が言うのもなんだが、こいつは剣術というものを体得していないのではないだろうか。
勢いに任せたでたらめな剣筋、圧倒的なパワーで押し切る強引な戦い方。
この短い間に感じたのは、そんなことだった。
もし俺にもっと剣術の才能があれば、もっと楽に戦えたのかもしれない。
俺はその薙ぎ払いを回避すると、階段を上るように魔神の体を蹴って駆け上がる。
狙うは首元。
そこへ、二本の赤い牙を突き立てようとした。
心の中に生じたわずかな余裕。
戦う前には考えられなかった自分が善戦している状況。
そして敵を圧倒する加速度がもたらした自らの優位性。
長い道のりの果てに見えた、わずかな光明。
理由を挙げれば切りがないのだが、その全てが俺の中に慢心を生み出した。
離れて、という誰かの声が聞こえたような気がする。
鼻先を掠めた危険を知らせる空気。
警告音を大合唱する第六感。
直後。
目の前が、太陽のような眩さに包まれる。
「〈絶対防…………〉」
高速で魔法を切り替え。
だが気が付けば、俺は突如として現れた爆風によって空中を投げ飛ばされていた。
海の上で仰向けになり、ただ力を抜いて漂流するように。
そして地面へと叩き付けられる。
不完全な防御壁は、顔や内臓を庇った腕と脚を守り切ることはできなかったようだ。
それに気が付いた瞬間、味わったことのない激痛が腕と足を駆け回った。
高温に熱せられた鉄球を押し付けられたような。
何百本ものナイフを一斉に突き立てられたような。
そんな地獄の痛み。
「がぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!」
絶叫。
少しでも声に出して、痛みを発散させたい。
そうでもしないと、気が狂いそうになる。
とてもじゃないが、正気を保てそうにない。
こんなことになると分かっていたら、装備を外さなかったのに。
「まさか、自分が勝てるとでも思ったんじゃねぇだろうなぁ?」
涙で滲む視界には、全身を炎に焼かれている魔神の姿があった。
その光景は、俺に勝機が無くなったことを意味していた。
近接で戦えば、常にあの業火にさらされることになる。
よほど俺の攻撃が気に入らなかったようだ。
「さっきまでの威勢はどおしたよぉ? 来ねぇんなら、こっちから行くぞ?」
ハーゲンが姿勢を低くして構える。
まずい……。
まずい!
まずい!
まずい!
まずい!
まずい!
絶対にあいつを近付けちゃだめだっ!!
あいつがここに到達した時点で、俺の死は確定する。
考えろ。
考えろ。
考えろ。
くそっ。いてぇ。
考えろ。
考えろ。
考えろ。
マジでいてぇよ。
そして俺は、一つの結論に行き着く。
それは、勝算が全く見えない泥沼のような作戦。
自分の死がほんの少し先延ばしされるだけの、限りなく延命処置に近い作戦。
それ以外、何の意味も持たない戦い。
でも、やるしかない。
諦めるわけにはいかないのだから。
集中力の切れた俺は、すでに全ての魔法がリセットされているニュートラルな状態。
燃えるような激痛を何とか抑え込み、左手の中指に嵌めた指輪に祈りを込める。
俺の最後の願いを聞き入れるように、赤い粒子たちは俺と魔神を包み込む空間へと一気に広がった。
この中庭に立ち込めた濃密な血霧によって、周囲一帯が俺の領域となる。
意識を集中させ、一つの武器を思い浮かべた。
すると俺の直上に、片刃の大剣が生み出される。
切っ先は、燃え盛る炎の中心を向いていた。
マナを一気に限界まで圧縮。
詠唱するは、二重の強化魔法。
そして。
「〈万物転移〉っ!!」
詠唱と同時、暗赤色の大刃は魔神へ向かって大砲のように一直線に射出される。
そこに残るは、猛烈な速度で大気を切り裂く風切り音のみ。
唯一、俺の中で謎であった魔法、万物転移。
何かを移動させる、というぐらいの情報しか知り得ることができなかった。
それ以外に情報がなかったというよりは、意図的に秘匿しているような印象を受けた。
でも今の俺には、それで十分であった。
やりたかったことは、武器を相手に向かって投げつけるという単純な戦法なのだから。
武器射出による防衛線を張り、それ以上敵を近付けないためだ。
動きを止めた魔神は、鍔元に近いところで双剣を十字に交差させ、飛来した大剣を受け止める。
そしてすぐに、上方向へと弾き上げた。
踊るように宙を舞った大剣は、赤黒い大気へと霧散する。
もちろん、これで終わりではない。
俺の眼前には、半円状に並んだ五本の大剣をすでに待機させていた。
俺の指令と同時に、それらは吸い込まれるように敵へと発射される。
ハーゲンが水平方向へ回避すると同時に、数本の大剣を打ち落とす。
だが、その移動した先に霧を結集させると、すぐに顔面へと撃ち出した。
体勢を崩した魔神は、体を捻りながら紙一重のところで躱す。
おしい。
後もう少しだった。
今の俺では、同時に具現化させることのできる武器の数は限られている。
それに攻撃パターンも、相手に向かって一直線に飛ばすような制御しか行えない。
ジェットコースターのように自在に動かすには、集中力を欠くこんな体の状態では不可能だ。それに武器の数も減らす必要がある。
赤霧を集束させては、発散させる。
ただ、それの繰り返しであった。
出来る限り相手の隙をつくように、かつこちらへと近付けさせない方向とタイミングで攻撃。
全神経を、それだけに集中させる。
もちろん、腕と足を襲う激痛とも闘いながら。
最初の一撃目から数えて、数百という赤刃が乱れ飛んだ。
同じ作業の繰り返しによって固定化される攻撃パターン。
それを理解した魔神に、わずかな余裕が生じる。
そして俺との距離が、次第に近くなる。
肉薄する黒い嵐。
脳裏を過る数分先の未来。
自分の置かれた立場に、焦る心。
乱れを生じる剣閃。
全てが、悪循環。
負のスパイラルに陥る。
迫る剣戟を払い落しながら、獲物を見つめる愉快そうな視線。
後もう少しだぞ。
満身創痍の術者の心を揺さぶる言動。
目前へと迫る金属の衝突音。
停止する思考。
失速する刃。
地に落ちる視線。
闇の淵へと沈む心。
……………………。
ごめん。
みんな、ごめん。
やっぱり、ダメだった。
精一杯頑張ってみたけれど。
ただの悪足掻きだったよ。
テスラ。
ほんと、ごめんな。
いつしか、鎮火していた赤炎。
目の前を、漆黒の影が覆う。
俺は力なく視線を上げる。
「死ね。〈地上の子ら〉のガキ。」
そこには、下卑た笑みを浮かべる魔神の姿。
哀れみも称賛もない、ぞっとするような仄暗い瞳。
そして。
大上段に構えられる一振りの黒刃。
大型トラックに轢かれたあの日。
本来なら、俺の人生はそこで終わっていたのだ。
ならばこの数ヶ月は、言わばおまけのようなものだ。
そう、ただのボーナスステージ。
そう考えると、お釣りがくるほど俺は十分に頑張ったじゃないか。
もういいだろう。
剣と魔法の世界を、存分に楽しませてもらったよ。
人族の分際で、ここまで悪神を追い込んだわけだし。
俺を転生させた神さまだって、良くやったと言ってくれるさ。
…………。
…………。
…………。
本当に?
本当にそう言えるのか?
できることは全部やったのか?
まだだよな?
まだやれることがあるよな?
アレン。
頼む。
もう少しだけ頑張ってくれ。
最後の最後までやり切って、それでもダメなら。
その時は、俺もお前もここで終わりだ。
潔く死んでやろうじゃねぇか。
でもまだだ!
諦めるな。
諦めるなよ、アレン!!
諦めんなぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!
「〈血鎖〉っ!」
水面に落ちた雫が起こす波紋のように、その凛とした声が俺の心を一気に震わせた。
魔神の足元から大地を突き破る、数十の黒鎖が俺の瞳に映る。
それらは、暴牛の角、腕、胴体、脚へと次々に絡みついた。
まるで土地神の呪縛のように、魔神を大地へ縛り付けようともがき回る。
俺はリリアの方へと視線を向ける。
彼女は両手を大地に力強く押し付け、必死の形相で魔神を睨み付けていた。
自らの短剣で切り裂いたと思われる血だらけの両腕からは、まるで血液が生き物のように流れ出ていた。
「アレン君っ!!」
彼女の叫びに、俺は我に返った。
そうだ。
ぼけっとしている場合じゃねぇ。
何が起こっているのかはよく分からない。
でもきっと。
これは、リリアが命を削って生み出した千載一遇のチャンス。
これを逃せば、本当に俺たちは終わりだ!
「この死に損ないが!! 邪魔すんじゃねぇぇぇっ!!
うらぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
猛牛の如く、全身を使って鎖を引き千切ろうとする。
纏わり付く黒鎖が、音を立てて紙テープのようにもろく崩れ去った。
そこに生まれた隙は、時間にしてわずか数秒程度。
だが俺には、それで十分であった。
デルタ結合。
独立した三つの魔導回路を、トライアングル状の一つの回路へと繋ぎ合わせる。
これが俺の行った二つ目の実験。
だがこの時点では、一つの魔法を単純に三倍にするだけだ。
言うなれば、これは前準備。
この世界の多くは、回転運動や波の振動によって表すことができる。
音や光、電気もそうだ。
ならば体内の回路を流れる魔力も、突き詰めて考えるとそれは振動によって伝わっているのではないかと考えた。いや、俺がそう設定したのだ。
そしてその振動数を、俺は魔導波数と定義した。
その値が大きければ大きいほど、より早く魔力へと変換されて魔法の発動に至り、より強大なものへと変化を遂げる。だがその分、損失も大きくなり、魔導回路は一気にオーバーヒートする。
そして物体には、その振動が増幅される固有の振動数が存在する。
つまりそれを利用すれば、自分の意志とは無関係に魔力が膨大に増幅される。
共振魔導波数。
それが、俺の研究していた三つ目の実験。
この数か月間、俺は自身の共振魔導波数をずっと探し続けていたのだ。
そして、遂に見つけた。
独立した三つの回路でそれぞれ振動させるより、一つの回路で行う方が簡単かつ増幅率は大きくなる。
極限に圧縮されたマナが、一つの大きな回路の隅々まで行き渡る。
そして俺は、共振して跳ね上がる魔導波数へと一気に引き上げる。
もう少し。
後もう少し。
…………。
ここだ!
「〈強化〉っ!!」
魂が、咆哮する。
心が、昂る。
体は、熱を帯び始める。
力を、抑えつけることができない。
そして俺は。
今この瞬間。
神を超える。
頭上に顕現させた深紅の大剣。
柄を両手で握り締める。
鎖を振り解くことを忘れた神は、ただ茫然と見つめる。
目の前に起こった奇跡を。
腹の奥底から飛び出た絶叫と共に、振り下ろされる全身全霊の大牙。
俺のありったけを、邪神に叩きつける。
後のことなんて、どうでもいい。
ただこの刹那に、己の全てを懸ける。
胸から暴れ出した鼓動が、全身を駆ける。
衝撃波は、この大地を龍のように翔ける。
聞こえたのは、暴牛を象った神の断末魔。
ざまぁみやがれってんだ。牛野郎。




