27.りんご
「だ、誰だよ……。お前……。」
それが、ようやく絞り出すことのできた俺のことばであった。
だが不良少年は、そんな俺の問いかけなど聞こえていないかのように無視すると、一人で不満を爆発させる。
「クソがっ! 簡単にぶっ殺されやがって。
たかが老いぼれ魔王一人も殺せねぇのかよ。ほんと使えねぇーわ。
てめぇ生み出すのに、一体俺様がどれだけ神力を消費したと思ってんだよ。」
そう言いながらも、やつは俺たちの方へと着実に近付いて来る。
その途中、半分になったブエロを踏みつけると、構わずこちらへと向かって来た。
それは憎しみを込めてわざと踏むというより、足を置いたところにたまたま遺体があっただけという感じで、その行為自体には何の感情も含まれていないようであった。
だが逆に、その少年の行動が俺の背筋に戦慄を走らせた。
日本人である俺にとっては虫唾が走るような行為であるはずなのに、怒りよりもなお不気味さが勝り、それ以上動くことができないでいた。
だが、そんな少年に躍りかかる二つの影があった。
「ったくよぉ、こんな地上に来るだけでも神力使うってのに、無駄にしやがって。クソっ。」
文句を垂れ流しながら、少年は頭を軽く下げてファーガソンさんの蹴りを回避すると、正拳を顔面へとクリーンヒットさせる。
俺たちの隣を特急列車のように過ぎ去ったファーガソンさんは、屋敷の壁へと激突する。
「ファ、ファーガ……っ!!」
恐怖と驚きで、それ以上声を出すことができなかった。
「まぁ~た最初からちびちびと溜めんのかよぉ~。ほんとだりぃ~わ~。」
リリアが斬り付けた短剣は、面倒くさそうな顔をした少年の二本の指で簡単に止められた。
そしてそのまま武器を奪い取ると、手のひらでくるりと回しながらリリアの胸へと突き立てる。
「リ、リリアぁぁぁぁぁっ!!!」
黒いものを吐血したリリアは、力なく地面へと崩れ落ちる。
「そういうわけだからよぉ~、早くそれをよこせ、〈地上の子ら〉のガキ。」
先ほどまで独り言のようにつぶやいていた少年は、そこで初めて俺を睨み据える。
「こ、断る……。これは、誰にも渡さない……。」
最大限の勇気を振り絞り、俺は何とか自らの意志をことばへと変換する。
「はぁ~~……。」
心底面倒だという顔をした少年は、長い溜息をついた。
そして次の瞬間には、俺たちの方へと向かって猛烈な速度で飛び掛かる。
「〈絶対防御〉っ!」
久しぶりに聞いたその声は、恐怖に満たされた俺の心を優しく包み込むようであった。
いや、包み込んだのは俺の心だけではない。
ドーム状の光の壁が、俺たち二人をこの世界から完全に隔絶させた。
そして外の世界では少年が壁を殴りつけながら、口汚いことばで俺たちを罵倒している。
そんなことはお構いなしに、テスラはいつもの優しい笑顔で俺へと向き直る。
俺も無言で彼女を見つめ返した。
するとテスラは、そんな俺にそっと両手を差し出した。
彼女のその小さな手のひらの上に、光が集まり始める。
そして一際大きく輝いた後に現れたのは、ただのりんごであった。
どこだろうか。
俺はこんな光景を、いつか見たような気がする。
だが全く思い出せない。
でも確かにあった。それだけは間違いない。
その時、きっとそうしたように、俺はりんごを手に取った。
女神のような笑顔に見守られる中、俺は真っ赤な果実に齧りつく。
その瞬間、彼女の持つ魔法に関する情報が俺の頭の中へ雪崩のように入り込んできた。
セフィロトの樹みたく、彼女の魔法を表す見たこともない幾何学的な模様や図形。
何重にも編み込まれた複雑な術式。
魔術の理を指し示した神々のことばによって紡がれた小宇宙の世界。
そんな莫大量の情報が、まるで俺の遺伝子と結びつくような、頭の中にアプリケーションがインストールされたような、そんなとても不思議な感覚となって俺と結びつく。
ことばを見て理解するのではない。
感覚が納得するのだ。
俺の中に入り込んで来た魔法はどれも、派手さはないものの、使い方によっては強力なものと成り得る可能性が秘められていた。
それに、俺の体内に張り巡らされた魔導回路も強化されたような感じがする。
おそらく、大出力の魔法に耐えられるよう、強制的に成長を促されたのだろう。
こんなすごい魔法を、俺に与えてくれるのか?
でもどうして?
これであいつと戦えってことだよな?
頭の中に浮かんでくる数々の疑問。
でも彼女に今伝えたいのはそんなことじゃない。
「テスラ、ありがとう。どれもすごい魔法ばっかりだな。」
彼女は俺のことばに少し驚いたようであったが、やがて表情は次第に変化していく。
どういたしましてと言うように、白い歯を見せた満面の笑顔へと。
だがそんな俺たちは、次の瞬間には絶望の淵へと叩き落とされる。
肉を引き裂くような、鈍い小さな音が聞こえたのだ。
ふと見下ろすと、テスラの胸から一本の腕が突き出ていた。
彼女自身も、一体何が起こったのか分かっていないような表情をしていた。
「テ、テスラアアアアアアアアアアアアアッ!!」
気が付けば、いつしか光の壁は、俺たちの周囲から消え去っていたのであった。
テスラの胸から生えた腕が引き抜かれると、彼女は人形のように地面へと倒れ込んだ。
音を立てて口から大量の血を吐き出した彼女の視線は、夜空を彷徨っているかのように定まることはなかった。
「なんでこの女がこんなとこにいんだよ。まぁどうでもいいか。
ここで潰せたのはラッキーだったな。」
付着した血液を振り払うように、少年は上下に小さく腕を振っていた。
この時、俺の中で何かがブチ切れた。
「〈強化〉っ!!」
俺の感情に呼応するように、圧縮されたマナが全身の魔導回路で膨大な魔力へと変換される。
嵐の如く吹き荒れる天災にも似た魔力を目の当たりにした少年は、目を見開いて俺を見つめていた。
俺はそんな顔面へ全力のストレートを捻り込む。
だがその拳は、空を切るだけに終わる。
後ろへ飛び退って回避した少年は、膝を突いて地面へと降り立つ。
俺の心の中は、狂乱した感情で埋め尽くされていた。
ぶち殺すぶち殺すぶち殺すぶち殺すぶち殺すぶち殺すぶち殺すぶち殺すぶち殺すぶち殺すぶち殺すぶち殺すぶち殺すぶち殺すぶち殺すぶち殺すぶち殺すぶち殺すぶち殺すぶち殺すぶち殺すぶち殺すぶち殺すぶち殺すぶち殺すぶち殺すぶち殺すぶち殺すぶち殺すぶち殺すすぶち殺すぶち殺すぶち殺すぶち殺すぶち殺すぶち殺すぶち殺すぶちすぶち殺すぶち殺すぶち殺すぶち殺すぶち殺すぶち殺すぶち殺すぶちすぶち殺すぶち殺す
てめぇだけは、ぜってぇにぶち殺してやるぞ。
荒れ狂う俺の感情とは裏腹に、頭の思考回路は冷静に沈着に、敵を屠る方法だけを模索している。
「〈超加速〉! 〈超加速〉!」
「三重だとぉっ!?
ったくよぉ、クソ面倒くせぇじゃねぇかよおおおお……ごへっ!!」
俺の拳がやつの顔面を打ち抜き、その忌まわしい声を止める。
すぐにカウンターの蹴りが敵から放たれる。
だがすでに、俺は後ろへと回り込んだ後だった。
そして、急所の一つである肝臓を破裂させるように、ボディーを叩き込む。
情けない音のような声が漏れ出ると、四つん這いとなって地面へと突っ伏した。
こんなもので終わらせてたまるかよ。
そのまま腹部を蹴り抜き、後方へと吹き飛ばす。
そして先回りして待ち構えた俺は、ハンマーのように打ち下ろした拳で顔面を大地へとめり込ます。
この異常なまでに圧倒的な速度は、まるで自分が光の粒子にでもなったかのような感覚だ。
体への負担は感じるが、耐えられないというほどではない。それが強化によるためなのか、それとも神格級魔法故の特性なのかは分からないが、更に速度を上げても耐え切ることができそうであった。
「おい、立てよクソガキ。まだ終わりじゃねぇぞ。」
怒涛のラッシュ攻撃に、相手は成す術なく倒れ込んだままだ。
だがその体がぴくりと反応すると、震える腕でゆっくりと立ち上がろうとする。
そこからは、何かをぶつぶつとつぶやく、くぐもった声が聞こえた。
「〈調子に乗んじゃねぇぞ。地上の子らのガキが。俺を誰だと思っていやがんだよ。この魔神ハーゲンに楯突いたこと、後悔させてやるからな……。〉」
それは、俺が知ることのない言語であった。
ただ、何となく言っていることは予想ができる。
てめぇ許さねぇぞとか、そんなところだろう。
お前がどこの誰だかは知らねぇけどよ、テスラにしたことはきっちりと落とし前をつけさせてもらうからな。
俺が次の攻撃へ移ろうとした時であった。
目の前の少年は突如として、発狂したように金切り声を上げ始めた。
すると、見る見る体が膨れ上がり、俺の二倍ぐらいの巨人へと化した。
そしてその傷だらけの顔面は、人ではない獣の形相へと徐々に歪めていく。
周囲には闇の瘴気が漂い、それらが全身を纏う黒色の甲冑へと具現化する。
その両手には、片刃の大剣をそれぞれ手にしていた。
黒衣の巨人の頭部からは、牡牛のような二本の雄々しい角が天へとそそり立つ。
嫌な予感のした俺は巨人から距離を取り、闇属性化の魔法を展開させる。
まるでラスボスじゃねぇか。
こいつは、あのブエロと同じ獣人の魔族なのか?
それにしては、纏う魔力量が段違いだ。
もしかすると、それ以上の存在なのかもな。
だが例えそうだとしても、俺はあいつを絶対にぶっ潰す。
しかしそんな俺の決意は、すぐさま打ち砕かれることとなる。
殺し合いの場において、始まりの合図というものは存在しない。
だがそれにしても、それは唐突であった。
黒衣の巨人が手にしていた大剣が、ノーモーションから投げつけられた。
「〈絶対防御〉っ!!」
加速魔法の一つを、すぐさま防御壁へと切り替える。
反射を使わなかったのは、防御力を重視してのことだ。
反射の魔法はあくまでも、壁に当たった対象のベクトルを反転させるだけだ。
そしてその耐久力には限度がある。
あいつの攻撃力と俺の防御力を測り兼ねている現状では、防御壁を選択する方が賢明なのだ。
だがそれでも、俺は耐え切れずに魔法壁と共に押し飛ばされと、そのまま屋敷の壁へと激突した。
「ぐはっっ!!」
喉の奥から、大量の血の塊が噴き散った。
背中を強打したことによって、呼吸の方法を忘れたように一瞬息が止まる。
テスラから継承した魔法がなければ、俺は確実に死んでいた。
「だ、大丈夫……ですか? アレン君……。」
瓦礫の中から聞こえたファーガソンさんの声がする方へ、苦痛に歪ませた顔を俺はゆっくりと向ける。
「いや、俺なんかより……ファーガソンさんの方が……大丈夫なんですか……?」
「なんとかね。そ、それより、聞いてください。
あれはおそらく、獣人のブエロを生み出した……神です。
外見から察するに……魔神、ハーゲンかと。」
なんと。神ときたか。そりゃ桁違いに強いはずだわ。
「か、神? なんでそんな存在が……こんなところへ……。」
「目的は……きっと、その指輪でしょうね。
そんなことより、君は早く、ここから逃げなさい……。
今の君ならきっと、それができるはずです。」
俺が逃げ出す?
ここにいる全員を見捨てて?
大きな息をはいた俺は、ゆっくりと体を起こし始めた。
「へへ……。そういうわけには、いかないんすよ……。」
立ち上がった俺は、一歩を踏み出そうとしてすぐに躊躇った。
相手が魔神だと聞いて急にびびっちまったのか、アレン?
でもこんなとこで、縮こまっている暇なんかねぇぞ。
それに早くしないと、テスラが死んでしまう。
あいつを倒して、すぐに教会へ連れていけば何とかなるはずだ。
完全に回復することは無理でも、命を繋ぎとめることはできる、俺はそう信じる。
なのに、その一歩が出ない。
敵から放たれる殺気が、俺の生存本能を刺激する。
はっきりと目に見える死という領域に、どうしても踏み出すことができない。
「どうしても行くというなら、わたしの加護魔法を使いなさい。」
振り向くと、瓦礫の中から顔を出したファーガソンさんがこちらを見つめていた。
「でもそれって、俺には使えないんじゃ?」
「きっと、大丈夫ですよ……。
君の思う通りに、使ってみなさい。
あれは、甲冑や大剣を纏わせるだけの魔法ではありません。
その本質は、召喚した血を、武具へと具現化させることです。」
そう言うと、俺を見守るようないつもの小さな笑顔を向けた。
なら一度、試してみるか。
できるかどうかは分からないけれど、やってみるしかない。
「ははっ! 無駄なことはやめとけ。
ベリドが、てめぇみたいな〈地上の子ら〉に力を与えるわけがねぇだろ。」
俺が死地へと踏み込むことを待つ暴牛の魔神は、嘲るように言い放った。
だが俺は、そんな不愉快なノイズを無視した。
そして一言、詠唱する。
「〈血塗れの王〉っ!!」




