25.父親
男が最後に見た光景は、獅子の顔を持つ魔族が振り下ろした、銀閃の輝きであった。
そして次に気が付いた時には、男は常闇の只中にいた。
先ほどの攻撃で、命を落としたのだろうということぐらいは簡単に察しがついた。
死。
それは何かを決意したとしても、例えどのような過去を後悔しても、もはやどうにもならない状況だということである。
生きてこそ、前に進むことができ、過ちを悔い改めることができるのだから。
ならば、今の自分にできることは、ただこれまでの人生を振り返ることだけだと考えた。
だが男に、これと言って振り返るほどの過去などなかった。
なぜなら、男の人生のほとんどは、凄惨に血塗られた暴力だけで埋め尽くされているからだ。
だがもし、仮に懐古するほどの過去があるとすればそれはただ一つ。
あの少女との約束だけであった。
少女と出会ってからの五百年。
自分の半生を振り返ると、それでも胸を張ってしっかりとやってこれたと言えるのだろうか。
そう自問すると、男は自嘲混じりの笑みを浮かべた。
だが今更、どうすることもできないのだ。
もはや自分の生は幕を閉じた。
するとそこへ、暗闇の中を誰かがこちらへ歩いて来る足音がした。
硬質な金属の触れ合う音。
その足取りからは、まるで何の迷いもなさそうな、己が意志を貫徹することに躊躇いなどなさそうな、そんな泰然とした雰囲気を感じ取ることができた。
そしてそれは、自分の前まで来るとぴたりと止まった。
「もうこれで終いか、ゴルゾラよ?」
その声音は、男がこの数ヶ月を共にした冒険者に向けていたような、優しい口調であった。
「どうやらそのようでございます、ベリド様。」
男は、魔王の一族を生み出した自身の主神に対し、最大限の礼を尽くそうと試みた。
だが今の自分が、立っているのか、座っているのか、それとも寝転んでいるのかさえ判然としないのであった。
すでに自分は、魂だけがそこに存在しているのではないかとさえ思えた。
だが彼の主神は、殊更そんなことを気になどしていない様子であった。
「次へと託したのだな。」
ベリドは語りかけるように問う。
「はい。若く、希望に満ちた、才の輝く者へと託しました。」
「そうか。」
ベリドは短く答える。
それは、十分に納得しているということが伝わるような口調であった。
だが逆に、それが男の中に疑心を生み出した。
「わたしのことを、お叱りにはならないのでございますか?」
「ふっ。今まで散々好き勝手に生きてきた貴様が、今更それを言うのか?
それにゴルゾラよ。貴様が決めたことであれば、予が反対する理由などありはせん。」
ベリドはほんの少し呆れるような顔で、相好を崩した。
「重ね重ねのご恩情、感謝いたします。
では迷惑ついでにもう一つ、よろしいでしょうか?」
その言葉に、さすがのベリドも目を丸くする。
「全く、厚かましいやつめ。申してみよ。」
「ありがとうございます、ベリド様。
わたしのお願いとは、あの若い冒険者のことです。
どうか彼を、よろしくお願いいたします。」
「貴様は、邪神である予にそれを言うか。そこまで気にするなら、貴様が自分で面倒を見よ。こう見えても、予は忙しい。」
「できればそうしたかったのですが、どうやらわたしは、ここで終わりのようです。
どうぞこのまま、ベリド様の元へとお連れ下さい。」
後悔がないと言えば嘘である。
未練がないというわけでもない。
だがそれでも、今の自分にできることは、主神への慈悲にすがる以外なかったのだ。
「冗談はそれぐらいにしておけ、ゴルゾラよ。貴様のような者が近くにいれば、うるさくてかなわん。
それに予は、別に貴様を迎えに来たというわけではない。
貴様があまりにも情けない姿を晒しておるから、笑いに来てやっただけのことよ。」
男には、返すことばも見つからなかった。
神の意に沿わない人生を歩み、あまつさえその力を人族に譲り、そしてその面倒を見ろとまで言っているのだ。
もし自分がベリドであれば、そんな願いなど一笑に付して斬り捨てているところだろう。
そんな男を見兼ねたのだろうか、ベリドは大きな息をつく。
「それにゴルゾラよ。貴様はまだ終わってはおらんぞ。」
「……? どういうことでございますか?」
世話の焼ける男よとベリドは疲れたようにつぶやいた。
だがそれでも、彼は気を取り直すように片手を上げて指を指す。
「見よ、ゴルゾラ。どうやら、貴様の息子が迎えに来たようだぞ?」
愉快そうなその声の存在は、やがてひどく希薄なものとなった。
だが代わりに、男の意識は次第に覚醒してゆく。
そして男の視界には、うっすらとした光が差し込んできた。
それが屋敷から漏れ出た光だということに気が付くまで、しばらくの時間を要した。
「ファーガソンさぁんっ!!」
するとそこへ、懐かしさすら感じる聞き覚えのある声が聞こえた。
最後に別れてから、まだ数時間ほどしか経っていないはずであるのに。
ΔΔΔ
気配を感じた中庭へ到着した時、俺の目に飛び込んで来たのは、大量に出血して地面に転がるファーガソンさんであった。
「ファーガソンさぁんっ!!」
俺は思わず絶叫する。
すると、その前に佇む甲冑の獣人が俺へと視線を向けた。
その瞬間、俺の全身には雷撃を打たれたような悪寒が走る。
生理的な嫌悪感で胸が埋め尽くされ、吐きそうになるのを堪えた。
「何だ、貴様は。……。
そうか、これが例の人族のガキか。」
そしてこちらに歩を進めようとした時だった。
ファーガソンさんが敵の足を掴み、それを阻止した。
「ま、まだ、終わっては……おらんぞ。お前の相手は……、わたし……だ。」
「もはや死に体の貴様が何をほざく。黙ってそのまま死ね。」
ライオンのような顔をしているため、今一つその表情は読みにくいのだけれど、さして興味のなさそうな表情をすると、斧のような刃先が据え付けられた武器を振り上げた。
やべぇ、ファーガソンさんが殺される。
「〈焔球〉っ!!」
こちらに注意を引き付けるため、マナを圧縮して威力を高めた焔を投げ放つ。
だが俺のそんな魔法は、水平に薙ぎ払われた武器によって一瞬でかき消される。
まぁ、そりゃそうだよね。
「アレン君っ!! どうして戻って来たのですかっ!? 早く逃げなさい!」
横を見ると、身に付ける衣服がボロボロになったリリアの姿があった。
だがその服装とは裏腹に、彼女は元気そうであった。
そしてその奥には、全裸で鎖に絡め取られたような少女が空中で固定されていた。
縛りプレイ?
ま、まぁとにかく、彼女の方は大丈夫そうだ。
俺はそのことに安堵する。
「家族に手を出されて、そのまま逃げ帰るなんて俺にはできないよ、リリア。」
「何を言っているのですか! あれはあなたが敵うような相手ではありません!」
で、ですよね。
でもだからって、このまま尻尾を巻いて逃げるわけにはいかねぇんだ。
だが、どうする?
三重魔法でも、俺の使える魔法ではあいつには勝てないぞ。
そんなことぐらいは分かる。
よく考えろ、アレン。
お前が今しなきゃいけないことはなんだ?
それはあの獣人を倒すことか?
違う。
目的はファーガソンさんだ。彼を助けないといけない。
そのためにすること、そして俺ができること。
そこまで考えた俺の頭の中に、あることばが思い浮かぶ。
あれに懸けるしかない。
俺はリリアの問いかけを無視して、神経を集中させる。
そして一言、詠唱する。
「〈解放〉」
その瞬間、俺の左手に嵌めた指輪が一際大きく輝き始める。
そして俺を、いや、この空間全てを暗黒の闇が覆い尽くす。
それはやがて、吸い込まれるように俺へと集束を始める。
刹那の間に、俺の頭の中を多くの光景が流れては過ぎ去った。
それは男たちの、歴代魔王たちの記憶。
彼らが何を思い、何を目指したのか。
そんなことは分からない。
だがそれでも、たった一つだけ最後に残ったものがある。
それは、まるで俺を包み込むような優しい感情。
言われなくても分かる。
この世界での父親のような存在、ファーガソンさんだ。
背中をそっと押すように。
お前なら大丈夫だと、そう言ってくれたような気がした。
全身に溢れる、闇の魔力。
だが少しでも気を抜けば、奈落の底へと吸い込まれそうになる。
そうなれば、俺は完全に暴走する。
「ゴルゾラっ!! 貴様、あのような人族のガキに、系譜を渡していたのかっっ!?」
獣人の魔族は、親の敵を見るような憎々し気な視線を地面へと向けた。
怒声を上げる敵に、ファーガソンさんはただ、小さく笑っただけであった。
獣人は掴まれた手を振り払い、俺へと向き直る。
「小僧、その指輪をよこせ。それは貴様のような者が身に付けて良いものではない。」
俺は相手を挑発することで、ファーガソンさんから引き離そうと考えた。
「これ欲しいの? じゃあ奪い取ってみれば?」
その瞬間、獣人の魔族は轟音を立てて大地を踏み抜いた。
「〈加速〉っ!」
紙一重で、振り下ろされた斬撃を回避する。
斧のような刃が、小隕石が衝突したかのように庭の地面を抉る。
その衝撃で、爆風に乗った石つぶてが四方へと飛び散った。
あれを食らえば、いくら強化していても死んでしまう。
だが安堵したのも束の間、敵はすでに俺の横へと回り込む。
見た目と違って、早いじゃねぇか!
圧縮したマナでも追いつかれんのかよ!?
でもダメだ。これ以上は使えない。
今後の計画のためにも、今はこれで耐え抜け!
それにしても、この加速魔法。
体への負担がでかすぎる。
移動するたび、内臓がその場に取り残される感覚。
今にも気絶しそうだ。
やっぱり、これは強化魔法と併用させる必要があるかもな。
でも泣き言は言ってられねぇ。
もう少しだけ、耐えてくれ!
俺は獣人の斬撃を、上昇した速度、数か月間に及ぶ訓練で身に付けた体術で、回避し続けた。
そして俺は、闇魔法のことばを詠唱する。
今ならいけるはずだ。
「〈暗黒化〉」
俺の詠唱と同時に、左手に嵌めた指輪が輝きを放つ。
すると俺の全身を、黒色の薄い靄のようなものが包み込んだ。
そこで俺は、ある重大なことに気が付いた。
それはこの闇属性化の魔法が、俺の魔導回路を介していないということだ。
つまり、ファーガソンさんからもらったこの指輪が、闇属性の魔力を肩代わりしてくれているのだ。
まるでこれは、バカでかい容量を持った二次電池のような感じだ。
極限状況の今、これはかなり助かる。
ならばここで、全身を強化する。
「〈強化〉!」
その詠唱を聞いた瞬間、敵の表情に驚きの色が浮かんだ。
魔法の内容にではなく、おそらく二つ目の魔法を同時に発動させたからだろう。
いやもしかすると、あいつにとっては三つめの発動と捉えているかもしれない。
体が強化されて少し楽になったことだし、一丁試してみますか。
頼むから、うまくいってくれよ!
「〈焔球〉っ!」
本来であれば、その火力によって赤から青へと炎色は変化する。
だが、今俺の目の前に灯った焔は、漆黒の色に染まり、人魂のように揺らめいた。
よし、成功しているようだ。
獣人の魔族は、驚きから警戒の色へと表情をシフトさせていた。
そんな相手に、俺は闇の炎を勢いよく投げつける。
「無駄だぁぁっっ!!」
今度は武器ではなく、手で打ち払った。
だが構わず、俺は連続で撃ち放ち続ける。
所構わず焔が飛び交い、避ける必要もない獣人の横を通り過ぎる。
「どこを狙っている? 闇に取り込まれて、正気を失ったか?」
「…………っ!!」
だがそれでも、俺はやめなかった。
たまに飛んで来る焔を煩わしそうに打ち払った獣人が、小さくつぶやいた。
「もうよい。死ね、小僧。」
武器を構えた獣人が、体勢を低くした。
もはや、避ける気もないらしい。
瞬間的な蹴足でトップスピードへと加速させた獣人が、武器を振り上げながら空中を飛ぶように俺へと迫る。
「〈巨兵の〉〈焔球〉っ!!」
アーロイ戦で見せた、バカでかい焔球を全力で撃ち放つ。
あまりのでかさに、瞬時に敵の顔色が変わる。
だがその余韻に浸ることもなく、すぐに水平方向へと蹴り出して回避する。
敵を回避させて時間を稼いだところで、俺は即座に魔法を切り替える。
魔法の発動時間を極限にまで縮めて、高速で切り替える訓練をしておいてほんと良かったよ。
だって今、それが功を奏しているんだからな。
「〈加速〉っ!!」
すでに発動させていた加速魔法と合わせて、更に倍化する。
訓練された戦闘機のパイロットでも、操縦の際に発生するとてつもない重力加速度によって、失神することがあるそうだ。
果たして、強化している俺の体は、倍増された加速度の衝撃に耐えられるだろうか。
刃が振り下ろされようとしときには、すでに俺は後方へと飛び下がった後だった。
一気に速度を上昇させた俺は、余裕で敵の攻撃を回避することができた。
斬撃を完全に見切られた獅子顔の魔族は諦めることなく、なおも俺を執拗に追い回す。
それでも、二重詠唱によって圧倒的な加速力を発揮した俺は、もはや何の憂いもなく躱し続ける。
だが、そのための代償は決して安くはなかった。
地面へと降り立った俺は、強烈な眩暈と吐き気に襲われる。
目の前が暗くなり、一気に視野が狭まった。
そして俺は、堪らず地面に手を突く。
くそっ。
まだ強化が足りなかったか。
そんな俺とは無関係に、世界がぐるぐると回る。
気を抜けば、そのまま気を失いそうになる。
どちらが上下左右か分からなくなった世界で、猛り狂いながら迫る獅子の姿が見えた。
早く、どこかへ移動しないと。
そう思い、勢いに任せて無理矢理飛び出した。
だがすぐに足をもつれさせると、そのまま地面へと転倒する。
これは今後の課題だな、そんなことを考えた。
え? 今のお前に、今後なんてねぇだろって?
そうでもないさ。
だって、俺の仕事はもう終わっているんだから。
後は、父親に任せるだけだ。
地面へと寝転んだ俺に、全力で打ち下ろされる斬撃。
だがそれは、半分しか残っていない暗赤色の大剣によってせき止められた。
そのあまりの威力に、衝撃波と暴風が彼らを中心として波紋状に一気に広がった。
そして舞い上がる砂埃の中から、相手を威圧するような声が聞こえた。
「わたしの息子に、これ以上手を出すな……。」
それは威厳に満ちた、父親のような声色であった。




