24.ヴァンパイア vs ウォービースト
急に静けさを増した室内。
蹴破られて大破した、痛々しそうなドア。
先ほどまでの怒号飛び交う騒ぎが嘘のように、静寂だけがこの空間を支配していた。
「家族、ですか……。そんなことを言ってくれたのは、アレン君だけでしたね。」
それが独り言なのか、それとも室内にいるもう一人に話しかけたのか、それは判然としないつぶやきであった。
しかし、そのことばに答える者はいなかった。
返答がないのは、前者と判断したからという理由だけではないだろう。
老紳士がふと隣のメイドを見遣ると、小刻みに震える二つの手が視界に入る。
その手は、自身の感情を必死に抑え込むように、メイド服のスカートを力強く握り締めていた。
「ラドミア。今からでも遅くはない。お前はすぐにアレン君のところへ行きなさい。
そして誠心誠意彼らに謝罪をして、共にこの街を出るのだ。
何もお前まで、この老人に付き合う必要はないのだぞ?」
そのことばを聞いたヴァンパイアの女は、両の手に込められた力をそこで初めて抜いた。
主人の優しさが嬉しくもあったが、そんなことを言わせてしまった自信の不甲斐無さに苛立ちを感じた。
「ご冗談を、ゴルゾラ様。主を置いて逃げ出す家臣など、どこの世界にいましょう。ここで逃げ出せば、私は父に合わせる顔がありません。シュペドラク家の末裔として、地獄の底までゴルゾラ様にお供いたします。」
居住まいを正したメイドは、異論は認めないという表情できっぱりと言い切った。
「全く、父親によく似ているよ。
その一度言い出したら聞かないところは、特に……な。」
そう言うと二人は笑い、小さく頷き合う。
それだけで、意志の確認は十分であった。
後は、客人を待つだけである。
ΔΔΔ
それは、突如として現れた。
中庭から感じる尋常ではない闇の魔力に、ファーガソンは閉じていた瞳をゆっくりと開いた。
「どうやら客人のようですよ、リリア。」
いつもと変わらない、穏やかな口調であった。
使用人に車椅子を押された状態で、老紳士は中庭へと客人を出迎えた。
「貴様が、魔王ゴルゾラか。こちらの用件は、使い魔が事前に伝えてある通りだ。
魔王の系譜をこのブエロに大人しく差し出せ。さすれば、苦しまずに殺してやろう。」
豪奢な甲冑に身を包んだ獅子顔の魔族は、何の抑揚もない調子で言い放った。
「そうそう。早く渡すニャ。わたしたちは忙しいんだからニャ。」
隣には両手を腰に当て、豊満な胸を突き出した格好で立つ獣人の少女がいた。
「そんなものを手に入れて、あなたはどうなさるおつもりで?」
「はっ、知れたこと。我が新たな王となり、この世界に混沌をもたらすのだ。
分からぬのは貴様の方よ。何故に人族の真似事をして、こんなところでくすぶっておるのだ?」
ファーガソンは、つまらなそうな表情で溜息をついた。
「今のあなたに、何を言っても理解できるはずがありませんね。
いずれにしても、系譜をあなたにお渡しするつもりはありません。
欲しければ、あなたの好きそうな力ずくでやってみてはいかがでしょう?」
そのことばを聞いたブエロは、大きく裂けた口の端を吊り上げる。
「ではそうさせてもらおう。ニュートよ、後ろの女は貴様が相手をしておけ。」
「はいはぁ~い、ブエロさま! っということでぇ、よろしくねヴァンパイアのお姉さん!」
獣人の少女は、車椅子の後ろに立つ女に向かって挨拶代わりのウィンクを投げ遣った。
だがそれに、ヴァンパイアの女が反応することはなかった。
「ゴルゾラ様。生意気な野良猫の躾をしなくてはいけないようですので、しばらくの間失礼します。」
戦闘用の装備を身に付けたリリアは、シャツを突き破って生やした大きな羽を、一度だけ大きく羽ばたかせる。
そしてそのまま、野良猫の方へと足を向けた。
「ではそろそろ、わたしも準備をしましょうかね。」
そう言うと彼は、車椅子からそっと立ち上がる。
その瞬間、抑え込まれていた闇が溢れ出す。
立ち込めた暗闇の中から姿を現したのは、着込まれた衣服を今にも突き破りそうな隆々とした筋肉を纏う、一人の屈強な戦士であった。
先ほどまでの老人の姿、いつもの優し気な表情、それらは微塵も存在していなかった。
「〈血塗れの王〉。」
ゴルゾラの詠唱によって、周囲には血色の霧が召喚される。
そしてそれは、暗赤色をした一振りの大剣へと形作られた。
目の前へ顕現した大剣の柄を握ると、その切っ先を大地へと突き立てる。
だがその所有者は、自身の体と大剣を一瞥すると、ひどく残念そうな表情を隠そうともしなかった。
「それが噂に名高い、貴様の加護魔法か。だが、完全ではないようだな?」
「えぇ、そのようですね。やはり五百年の歳月は、少々長かったようです。
まぁこれでも、ないよりはましでしょう。では始めましょうか、ブエロさん?」
その言葉を皮切りに、戦斧を手にしたブエロが猛烈な勢いで地面を疾駆した。
ΔΔΔ
「あっちは始まったみたいだニャ。じゃそろそろ、こっちもやりますかニャ?」
頭の後ろで手を組んだニュートは、主の戦う姿に目も向けずに言い放った。
いや、眼前の敵から目を逸らすことなどできなかったと言う方が正確だ。
なんせ相手は、魔族の中でも最強種と言われているヴァンパイアだ。
そんな魔族を前に、ほんの少しの隙すら、見せることなどできなかっただけだ。
「その意見には賛同します。すぐに終わらせて、ゴルゾラ様の元へと戻らなければいけませんので。」
そのことばを聞いた獣人の少女は目を細めると、表情を険しくさせる。
「そういう、自分の方が強いですよっていう態度がいちいちムカつくニャ。だからお前たちヴァンパイアは嫌いニャんだよ。」
「わたしのことばを、あなたがどう解釈しようと自由です。
時間もあまりありませんし、始めましょうか。
魔族であるあなたの前で、これを使うのはひどく気が進みませんが。」
「んニャ?」
「〈炎灼の女王〉!」
人族の冒険者に訓練で使用していた時とは、段違いの魔力量であった。
それは両手ではなく、彼女の全身を覆い尽くす黒衣となった。
その黒炎はまるで、周囲を威嚇するように燃え盛る。
「炎灼の女王って、たしか処女としか契約しニャいって言われてる変わった精霊だったよね?
ってことはぁ~、お姉さんて、まだ未経験なのかニャ……?」
しかし意外なのは、獣人の少女であった。
圧倒的な敵意を向けれられてなお、その表情は嘲笑の色に彩られた。
余程愉快なのか、彼女の口は止まることを知らないように開かれる。
「何だかかわいそうニャ~。
その歳になっても、ま~だ……オェっ!!」
少女がそこまで口にした時であった。
リリアの右手が、それ以上口汚いことばが垂れ流されることを阻止するように、獣人の少女の鳩尾を打ち抜いた。
卑怯な不意打ち、とは言えまい。
戦いの最中に、リリアはそこまで相手に余裕を与えたつもりはなかったのだから。
警戒はしていた。
ただ、ヴァンパイアの攻撃速度がそれを凌駕していたというだけであった。
そのまま後方へと吹き飛ばされたニュートは、地面に激しく体を打ちつけられた。
そして地面に身体を擦りつけたような轍が作られたところで、ようやく彼女は静止する。
だがもちろん、これで終わりではない。
「〈舞え〉」
契約者の命令に従い、黒炎の女王は小生意気な少女を爆滅する。
だがその衝撃に耐え抜いたニュートの身体は、横たわったまま業火へと包まれる。
身体が爆散しなかったのは、さすが獣人の魔族といったところか。
そんなことをリリアが考えていた時である。
見つめていたその死体が、ゆっくりと立ち上がり始めた。
衣服が焼け落ちてほとんど全裸状態となった少女は、首の骨を鳴らすように頭を左右に大きく振った。
「もしかして、終わったと思ったかニャ? ふ、ふん~。わたしをその辺の獣人と一緒だと思ったら大間違いニャ。何たってわたしは、獣人の中の獣人、戦闘獣人族なんだからニャ!」
そのことを、いかに彼女が誇りとしているかは、その表情や態度から推察することができた。
だがそれを理解したリリアはなお思う、それがどうしたのだと。
そんな獣人種の違いなど些末なことだという以上の感想を、彼女が有することはなかった。
「でも、獣は、獣でしょう……? 何か違いでも?」
その一言は、獣人族の頂点に立つ種族としての自負心と、ヴァンパイアの精霊魔法に耐え抜いたという自尊心を打ち砕くには、十分過ぎるほどに彼女の心を抉った。
ヴァンパイアである彼女が抱く、獣人に対する認識を理解した瞬間、ニュートの額に青筋が浮かび上がる。
「そういうのがムカつくってんだよっっっっ!!
男の味も知らねぇ年増のヴァンパイアがぁっっ!!
その顔面、グチャミソにすんぞコラァっっっっ!!」
リリアは聞くに堪えない罵倒に、大きく溜息をついた。
「誰にでも体を許すあなたと一緒にしないでください。本当に、頭の中も獣のようですね。」
これ以上の問答は不要と、互いが認識した瞬間。
「〈魔獣王〉っ!!」
咆哮とも言えるような詠唱を合図に、ニュートの全身が獣化を始める。
闇の瘴気が漂う中、黒毛に覆われた四肢をしなやかに動かし、両手を地面に突いた。
そして突き出した爪がしっかりと大地を捉えると、大腿の筋肉が張り裂けんばかりに膨張を始める。
一瞬、更に姿勢を低くさせる動きをした瞬間、すでにその場に彼女の姿はなかった。
残されたのは、蹴り出されたときに生じた爆風のような砂煙だけであった。
リリアが全てを理解した時には、ニュートの鋭く輝く眼光が目前まで迫っていた。
そして鋭利な剣と比べても何ら遜色のない爪が、喉元の肉を削ぎ落そうと打ち出される。
だが、リリアは冷静であった。
獣の右手から繰り出される攻撃を、体をいなすように自身の左腕で捌いて軌道を曲げる。
だがあまりの速度に、カウンターへの動作が間に合わない。
一旦、回避だけすることに心を決めた、のが間違いであった。
そこはやはり、牽制だけでも試みるべきであった。
ニュートは、一撃目がいなされた時点ですでに連撃へと繋げる動作を開始していた。
彼女はリリアの横を通過する際、錐揉み状態となる方向に体を回転させると、そのまま脳天を叩き割るような蹴りを繰り出した。
リリアには、両腕で頭部を覆うように防御することしかできなかった。
いや、それができただけでも、御の字と言えよう。並みの冒険者ならば、頭蓋の中身を周囲に撒き散らしているところである。
頭部へのダメージは免れた。だが、腕からは鮮血が噴水のように吹き出した。
表面を切ったという程度の生温いものではなかった。
筋線維の断裂、それがすぐに理解できるほどの激痛と血量であった。
地面へと着地したニュートは、大地に突き立てた爪で勢いを殺すことによってようやく停止する。
「この程度のかすり傷、いくら負ったところで…………。」
そこまで言ったリリアは、自分の置かれている危機的状況をようやく把握する。
そして切り裂かれた左腕に視線を落とした。
そう、治癒していないのである。
不死に限りなく近いヴァンパイアである自分の能力が、無効化されていた。
「やっと気付いたのかよ。あらゆる治癒を拒絶する傷を負わせる。
それがこの精霊〈魔獣王〉の呪いなんだよ。
まぁわたしが魔法を解けば効果はなくなるけどな。」
「わざわざそんな情報を敵に与える必要はないと思いますよ。それに、あなたの体にもわたしの刻印が刻まれていることをお忘れなく。」
「はっ。そんじゃあ、どっちが最後まで立っていられるか、我慢比べといこうじゃねぇか!」
言うが早いか、ニュートは弾丸のような速度でヴァンパイアへと斬り付ける。
彼女の反応速度を理解したリリアは、その場で攻撃を回避しながら、的確に精霊の刻印を叩きつける。
だが黒衣の獣人はそんなことを物ともせず、大地へ着地した瞬間には反転を行い、すぐさま斬り付ける攻撃を行った。
何十、何百合という攻防が繰り広げられる。
リリアを中心として、黒い閃光が縦横無尽に走り乱れた。
だがその間にも、リリアの体は着実にダメージを負っていく。
盾代わりにしていた左腕は、ほとんど使い物にならなくなっていた。
下半身の至るところに負った傷は、内部の筋線維が見えるほどに切り裂かれ、その機動性を奪われた。
だがそれでも、致命傷を受けることだけは何とか避け続けた。
そして相手の獣人も、体中に黒い炎を纏っていた。
ニュートが次の攻撃へ移ろうとした時であった。
「〈狂ったように〉〈舞え〉」
リリアの詠唱が、獣人の各部に刻まれた黒炎を次々に爆砕させる。
堪らず悲鳴を上げて大地へと倒れ伏すニュート。
だがその鳴き声は、爆発音によってかき消され、リリアの耳へ届くことはなかった。
リリアは肩で大きく息をしながら、力なく崩れ落ちる獣人から目を離さなかった。
そして切に願う。
もう二度と、立ち上がってくれるなと。
「こ、こんなもんじゃ、わたしは……死なねぇ……ぞ?」
だがリリアは、目の前の光景に思わず舌打ちをする。
小刻みに震えながらも、緩慢な速度で立ち上がろうとしているニュートの姿がそこにあった。
決して効いていないわけではない。
だが、活動を停止させるには不十分だったということだ。
獣人の少女が立ち上がる姿を確認したリリアは、地面へと膝を突く。
下半身は、一歩も動けないほどずたずたに切り裂かれていた。
両腕は、動くことが不思議なぐらい損傷している。
もはやこれまでであった。
彼女は心の中で観念し、諦めた。
「もう動けねぇんだろ、てめぇは? だったらそこで大人しくしてろ。今すぐぶっ殺してやるからよ。」
「えぇ……動きませんよ。も、もう……動く必要もありませんから。」
「あぁ? 動きません? 一体何言ってやがんだよ。」
不愉快そうに眉間へ皺を寄せたニュートが吠え喚いた。
「ど、どうしました……? 来ないの……ですか?」
「そんな状況でよく言えるよな。まぁいい。最後に心臓を一突きにしてやるよっ!!」
下半身に力を溜め込んだニュートは爆発的な加速力を以って、一足飛びに距離を詰めた。
目標は、心の折れたヴァンパイアただ一人。
人生の最後を悟り、伏し目がちとなったその様子は、まるで肉食獣に襲われる子羊のようであった。
獣人の愉悦に酔いしれるような表情と、血に塗れた爪が目前へと迫る。
そして、ヴァンパイアの心臓をその自慢の爪で串刺しにした、と思われた時である。
「〈血鎖〉」
詠唱した直後、地面にばら撒かれた血だまりから幾本もの赤黒い鎖が射出される。
それらはニュートの体を貫き、空中で彼女を固定する格好となった。
なぜこの獣人は、ここまで馬鹿なのだろうとリリアは内心呆れた。
これから行う攻撃を相手に晒してどうするのだろうか。
彼女の言動から考えると、それがブラフであるとは到底思えない。
そう考えると、このような獣に力を使わされたことが、リリアにとっては何よりも屈辱であった。
そう、彼女は確かに諦めたのだ。
ヴァンパイアとしての固有魔法を使わないということを。
「グァッ!! ガア゛ァァッッッッ!!」
四肢の関節、腹部、肩口のありとあらゆる部位を血鎖が貫通しており、彼女がもがけばもがくほどに、その傷口へと深く食い込んだ。
そしてリリアは、今までの苦しそうな表情を消し去った。
「それこそ、心臓を一突きにしてやろうと思っていたのですが、素晴らしい反応でした。反射的に全ての致命傷を避けましたか。」
それはリリアが心から感じた、掛け値なしの称賛である。
そして実際、彼女は全ての急所を狙った必殺の攻撃を放ったつもりであった。
だがニュートは、刹那の瞬間に視界で捉えた攻撃を、わずかに体をずらすことによって致命的な部位を全て回避したのである。
それは正に、ずば抜けた反射神経と、獣特有の危機を察知する感覚を有した獣人族だからこそ成し得た偉業とも言えた。
「クソッ……。きたねぇぞ。こ、こんな奥の手隠してやがって……。」
「隠しているからこそ奥の手なのです。それに我らヴァンパイアの真の力は、その血液を操るところにあります。再生能力など、ただのおまけみたいなものです。
対策をするなら、こちらでしたね。」
「チッ……。」
息も絶え絶えに舌打ちしたニュートは、心底悔しそうな表情に顔を歪ませ、そのまま意識を失った。
(あなたのせいで、体力を一気に消耗しましたよ、ニュート。これでまた、上質な血が必要になってしまいました。だから、使いたくなかったのです。こんな力……。)
ニュートが気絶したため、彼女の精霊魔法による呪いが解けると同時、切り刻まれた体中の傷が徐々に再生を始めた。
だがそれでも、体力の大部分を失った。
その重い体に鞭を打ち、空中で静止したままとなった獣人のそばまで、リリアは何とか近付いた。
そして、彼女に止めを刺そうと短剣を取り出した、直後であった。
大地が割れたのではないかと思えるような凄まじい衝突音が、彼女の耳をつんざいた。
音の発生源の方向へと思わず顔を向けたリリアに、戦慄が走る。
自分の瞳に映る光景が信じられなかった。
いや、信じたくなかった。
暗赤色の大剣が真っ二つに折られ、その刃は空中を踊るように舞い上がる。
その下には、大地を抱くように倒れ込むゴルゾラ。
「ゴ、ゴルゾラさまぁぁぁぁっっ!!!」




