18.リリア
「リ、リリアさん……!!」
そんな泣きそうな顔をしないでください。
せっかくのかっこいい顔が台無しですよ。
ベヒモスは唸り声を上げながら、わたしの片腕を食い千切ろうとしている。
今更強化したところで、この腕はどうにもならない。
そもそも、痛みで強化のことばを正しく発音できるかどうかも疑わしい。
でもこのままの姿では、二人共こいつの餌になるだけだ。
早く元の姿に戻らないと。
でも、彼の前ではできない。
見せるわけにはいかない。
「に、逃げでっ!! はやぐっ!!」
わたしの叫びで、彼は状況を理解したようだ。
だがそれでも、一向に逃げ出そうとはしない。
それはきっと、彼の優しさと責任感のせいだろう。
でも今は、どうかわたしの言う通りにして欲しい。
「や、やぐぞぐっ!!」
肩口から全身を駆けるように走る激痛のせいで、うまく発音ができない。
だが今のことばで、彼はようやく決断をしたように駆け出した。
そう、それでいいのです、アレン君。
あなたが気に病むことなど、何一つありません。
彼が逃げ去ったことを確認すると、わたしは意識を集中させた。
意識のずっと奥深くに揺蕩う闇、更にその闇の底へ自身を潜り込ませる。
そしてそこにある小さな扉を、勢いよく開け放った。
溢れるような力が、全身を覆い始める。
獣の口内にある腕がすぐに治癒を始めると、その指先から感触が蘇る。
視界が血の色へと変わり、目の前の獣がただの餌にしか見えなくなった。
「たかが獣風情が。誰に向かって牙を剥いている?」
わたしは左手をベヒモスの口の中へ強引に突き入れると、そのまま下顎を引き千切る。
獣は情けない声を上げると、後ろへたじろいだ。
逃がすわけがない。
解放された右手で角を掴むと、もう片方の手で反対の角を引き抜いた。
骨が折れ、肉の引き裂ける音が周囲の木々へと響き渡る。
引き抜かれた角の根元には肉片が付着しており、そこから黒い液体が蜜のように滴り落ちる。
わたしはすぐにそれを逆手に持ち替えると、やつの眉間へと捻り込む。
悲鳴を上げて逃れようとするが、掴まれた角がそれを阻止する。
突き刺した角を左右にゆっくりと動かし、頭蓋の中を掻き回す。
断末魔を上げた獣はそれっきり動かなくなり、体を何度も痙攣させている。
わたしは歪に捻じれた角を引き抜くと、そこに付着した蜜を舌でゆっくりと丁寧に舐め取った。
あぁ、これだ。
この血の味。
旦那様の所有するどのワインも、これに勝るものなど有りはしない。
久しぶりの味に、思わず笑みがこぼれた。
そしてそれは、わたしを愉快な気持ちにさせてくれるには十分なものであった。
「フ、フフ……。アハハハハ……ハ……。」
だがその高笑いは、視界の端に捉えた人族の姿で止めることとなった。
まるで全身の血液が凍ってしまったような感覚を覚えた。
「ア、アレン君……。ど、どうして……?」
ΔΔΔ
リリアさんに似ている魔族は、角に付着した血液をまるで慈しむように舐め取った。
その仕草はやけに煽情的で、あの魔族であれば全身の血を吸い取られても構わないと思えるほどに魅惑的であった。
やっぱりあれって、どう見てもリリアさんだよな?
頭ではすでに結論が出ている。でも心が、それを簡単に認めようとはしなかった。
だが次の言葉で、俺は彼女がリリアさんであることを確信した。
「ア、アレン君……。ど、どうして……?」
それが、こちらに気付いた魔族からこぼれ落ちた言葉であった。
「リリアさん……。お、俺……」
俺の足は自然と彼女の方へと動き出す。
「来ないでください! こんな姿を、それ以上近くで見られたくありません……。」
だが、彼女の悲痛な叫びが俺の足を止める。
それでも、構わず俺は彼女へと向かう。
リリアさんは俺から視線を逸らして俯いている。
先ほどまで左右へと広げられていた翼は、彼女の心を代弁するように小さく折り畳まれている。
血走った目も、決してこちらを見ようとはしない。
そして口元に見える白い牙は、妖しげな輝きを放っていた。
俺は何と声をかけていいのか分からなかった。
そんな俺の心を察したように、彼女は力なく語り始めた。
「わたしのこんな姿を見て、失望しましたか?
魔族であるわたしが人族の真似事をして、命の尊さを偉そうに説く。
本当に、滑稽ですよね…………。」
彼女の声が震え出す。しかし、途中で止めることはせず、懸命にことばを絞り出そうとしているようであった。
「ごめんなさい……アレン君。騙すつもりはなかったのですが、結果的にはそうなってしまいましたね。ただ……互いに知ることがなければ、それが一番良いと思っていたので……。」
今にも溢れ出しそうな涙を目に溜めながら、それでも彼女は、決して崩れ落ちることはなかった。
きっと彼女の高潔さと誇りが、それだけは絶対に許さないのだろう。
俺は何をどう言えばいいのか分からない。
正体を隠して生きることが、どれだけ苦しいことなのかも分からない。
これまでの人生で、彼女がどのような辛酸を嘗めて生きてきたのかも分からない。
彼女の苦しさや悲しみを分かったようなつもりで、慰めのことばをかけることなんて、俺には決してできない。
全然気にしてないよと言ったところで、彼女が心の底から納得するはずなんてない。
俺がしなきゃいけないのは、そんなことじゃない。
きっと、俺に笑われ、罵倒されることに彼女は怯えているのだ。
魔族の姿を見られただけで、これまでの全てを否定されることに震えているのだ。
だから、今は少しでも、彼女の恐怖を和らげてあげたいと思う。
「も、もし、アレン君が望むなら、屋敷に帰って……っ!」
必死に取り繕おうとすることばを遮り、俺はリリアさんを抱き寄せた。
「大丈夫だよ、リリア……。大丈夫だから。
例え君が何者であろうと、俺のリリアへの気持ちは少しも変わらないさ。
誰が何と言おうと、リリアはリリアだ。」
「……………………。
う……。くっ。う……うああぁぁぁぁぁっ!」
今まで張り詰めていた糸が切れると同時、彼女の声にならない声が一気に溢れ出した。
そして彼女は泣きじゃくった。
まるで小さな子供のように、泣きに泣いた。
俺は彼女が落ち着くまで、黙って抱き締め続けた。
ΔΔΔ
俺たちはベースキャンプへ向かって、森の中を二人で歩いていた。
少々の気まずい沈黙の中、特に何かを話すということもなく。
時折、リリアさんがこちらを気にするように見つめてきた。
何度目かの視線で、俺もようやく彼女に顔を向ける。
「え? ど、どうしたんですか、リリアさん? 俺の顔に何か付いてます?」
「あ、いえ……。その……、先ほどわたしのことをリリアって呼んでくれたなと思いまして……。」
あ、そうだった。
自分でも気付かなかったが、咄嗟のことでつい呼び捨てにしてしまった。
まずい。やっぱり、先生に対して礼儀はわきまえないとね。
「す、すみません! ついうっかり。先生に向かって失礼ですよね? ほんと、すみません。」
「あ、いえ! ち、違います! そ、そうではなくてですね……。少し嬉しかったのです。」
リリアさんはほんの少し頬を染めると、俺を下から覗き込むように顔を近付ける。
「わ、わたしとしては……、リリアと呼ぶことを推奨しますよ?」
そう言うと、彼女ははにかむように微笑んだ。
か、かわえぇ。
その笑顔だけで俺はいけそうな気がする。
「リ、リリア……?」
「何ですか、アレン君?」
「リリア?」
「ふふ。だから、何ですか、アレン君?」
「リリア!?」
「…………。あまり調子に乗ると、顔面を凹ませますよ?」
「す、すみません……。」
こうして、俺たちの遠征は終了した。
ΔΔΔ
屋敷へと戻った俺たちは、ファーガソンさんへ今回の詳細を説明した。
「そうですか。リリアの正体を知ってしまいましたか。」
ファーガソンさんに慌てる様子はなく、いつも通りの落ち着いた表情をしている。
「ところでアレン君。君のお察しの通り、実はわたしも魔族です。」
だろうね。
リリアからは何も聞かなかったが、彼が魔族であるということは容易に想像ができた。
「ちなみに彼女は、わたしに仕えるシュペドラク家のヴァンパイア。
ラドミア・シュペドラクです。
そしてわたしの本当の名は、ゴルゾラと申します。
五百年前に人族の英雄たちに敗れ去った魔王の成れの果て、それがわたしなのです。」
ん……?
ゴル……ゾラ……?
今、ゴルゾラって言ったのか?
そう、それは俺の書いたファンタジー小説に登場する魔王の名前だ。
ではやはり、この世界は。
ただ、俺の書いた小説では、魔王ゴルゾラはバリバリの現役だ。
こちらの世界の魔王は、すでに引退してご隠居の身となっている。
時代が全く異なっているのだ。
「魔王、ですか。これはまた、すごい人のところでお世話になったものですね。」
俺は努めて明るく振る舞った。
「随分と落ち着いているように見えますね。他の方なら、お隣のテスラさんのような反応をするのが一般的なのですが。」
テスラは驚きに表情を歪めて、その額には玉のような汗が滲み出ていた。
そりゃそうだろうな。聖職者の神官と魔王とでは、その立ち位置は真逆になる。
いや、そうでなくても、相手が魔王だと分かれば恐怖で委縮するのが当たり前か。
でも俺が異世界人だからだろう。
魔王と言われても、昔の有名人と出会えたときのような感覚だ。
それに彼が、俺の生み出したキャラだと思うと、むしろ親近感さえ湧いてくるぐらいだ。
「もちろん驚いていますよ(違う意味で)。でも、ファーガソンさんはファーガソンさんでしょ?」
車椅子に座った老人は、俺のことばに一瞬目を丸くさせる。
「ほぉほぉ。これは参りました。ん~、そうですね。君には一体何からお話しましょうか。」
彼はゆっくりと背もたれに身を預けると、過去を思い出すように視線を天井へと向ける。
ΔΔΔ
「ブエロさまぁ~! ブエロさまぁ~! ついにやりましたニャ!」
大声を上げながら、転がるように猫耳の魔族が現れた。
だがその主人は、一切部下を信じていないとでも言いたげな訝しむ視線を、無遠慮にニュートへと投げつけた。
「手短に話せ。」
「はい! 放っていたベヒモスの一頭が、すごい魔族の力を感知しましたニャ!」
「それで?」
「もしかしたら……探していたやつかもニャ~と思いまして……。」
想像とは違っていた主人の態度に、さすがのニュートも少々困惑気味の様子であった。
「で、その者は、一体どこにおるのだ?」
「へ? それはまだ分かりませんけど……。」
ブエロは込み上げる怒りを出来得る限り抑え込むと、静かに言い聞かせる。
「ならば、貴様が次にすることはその程度の報告ではなく、すぐにその場へと向かって、周辺の街を調べることではないのか?」
「さすがブエロさま」というニュートの表情が、彼の怒りに油を注ぐ結果となった。
「分かったらさっさと行かぬか!! そして手掛かりを得るまでは二度と戻ってくるでない!!」
「ニャ、ニャー!!」
ブエロの本気の怒りに全身の毛を逆立てたニュートは、逃げるように立ち去った。
そしてその場に再度訪れた静寂の中、大きな溜息だけが闇の中へと霧散する。




