アンマー
奴が来る。
カタン、と音を鳴らして近付いてくる。
どうしてこうなってしまったのだろう。
思えば、夏だというのに異様に肌寒い夜だった。
氷水の入ったガラスボウルの中で泳ぐ素麺を麺つゆで食べていた。
テレビから聞こえるのは生き別れた母と子がテーマのドラマの音。
外では虫や蛙が鳴いている。
俺には何もなかった。
俺は金が欲しかった。
金を手にしてやりたい放題な人生を生きたかった。
だから俺は、押し入ったこの家で晩飯を食べている。
両隣に座るのは、椅子に縛られた両親。
勿論、俺の本当の両親ではない。
赤の他人だが、一夜限りの大事な家族だ。
他所の家へ押し入ったのは初めてだが、罪悪感というものは本当に凄いもので
そう時間が経たないうちに、俺は二人を解放した。
「すみませんでした」
この一言で、二人は頷き
晩御飯を毎日食べにくることを条件に許してもらうことができた。
一夜限りの家族ではなく、本当の家族が出来たみたいで嬉しかった。
そんな俺の黒歴史から一年、俺に妹が産まれた。
血は繋がっていないが、初めての兄妹ができた。
外では何も鳴いていない。
テレビは虫や蛙の鳴き声を鳴らしていた。
妹は眼に障害があった。
一生、その眼が色を映すことは無いだろうと言われてしまった。
悲しかったが、精一杯愛することを誓った。
「アンマー」
妹が初めて喋った。
誰が教えたわけでもないが、確かに喋った言葉。
アンマー、調べたら母という意味だそうだ。
妹が笑った、可愛らしい笑顔で笑った。
嬉しかった、妹の笑顔が嬉しかった。
妹は初めて歩いた。
未だに喋る言葉は一つだけ。
妹は、未だアンマーとしか喋らない。
お母さんと散歩に出かけた妹が帰ってきた。
お母さんはいない。
左手に赤く染まったナイフが見える。
「お母さんは?」
少し震えた声で尋ねると、妹は歪な笑顔で元気に答えた。
「アンマー! アンマー!」
その日、お母さんは帰ってこなかった。
お父さんは元気が無くなり、日に日にやつれていった。
テレビは、生き別れた親子の再会を祝っていた。
外は雨が降っていた。
あれから一月経ち、お母さんが帰ってきた。
やせ細っていたから病院に連れて行った。
お母さんは眼が見えなくなっていて、言葉も発しなかった。
妹は、眼を開きお母さんを見つめていた。
一週間後、お母さんが喋った。
「アンマー」と一言だけ喋った。
翌日、妹と散歩に出かけたお父さんが帰ってきた。
血の気が引いた顔をしながら、慌てて帰ってきた。
左手には赤く染まったナイフが見えた。
お父さんは、妹は死んだと言った。
自分が殺してしまったと。
一月後、お父さんが失踪した。
テーブルの上には、置手紙があった。
手紙には震えた字で、「アンマー」と一言だけ書いてあった。
三日後、妹が帰ってきた。
両手に赤く染まったナイフを持って帰ってきた。
「アンマー、スー」
妹は、歪な笑顔で笑っている。
その眼は俺を捉えていた。
その夜、テレビはつけていなかった。
外では妹が泣いていた。
カタン、と音がする。
階段を上る時に軋む音。
ギィ…、カタン
ギィ…、カタン
誰かが家に侵入していた。
扉を開けて入ってきたのは
「おにい…しーじゃ…」
両手に赤く染まったナイフを持った妹だった。
その眼は、左右に動く俺を捉えて離さなかった。
俺は逃げた。
窓から飛び降りて、妹から逃げた。
町中を走り回り、色んな家へ助けを求めた。
誰一人、手を差し伸べてくれる人はいなかった。
そのまま川原へと逃げて、少し休憩をした。
眼を閉じると、虫や蛙の声が聞こえた。
少し眠ってしまった。
妹が来る前に逃げようとしたが、俺は眼が見えなくなっていた。
「アンマー」
背後から妹の声が聞こえた。
刺された胸部が少し熱い。
「お母さん…」
俺は呟いた。
次に目が覚めたとき、俺は玄関に立っていた。
知らない家の知らない玄関。
両手には赤く染まったナイフを握っている。
「アンマー」
俺は歪な笑顔で兄に笑いかけた。