魔女学校、初日
「セリル、です……。よろしく、お願い……」
囁くように自分の名前を口にしたセリルは、すぐさま手前の床へと目を伏せる。
あまりに味も呆気ない挨拶に、部屋には奇妙な沈黙が訪れる。
互いに戸惑いの眼差しを交わすクラスメイト達の気配に、廊下側の席から様子を見守っていたリンファは、慌てて大きく連続して手を鳴らす。
教室に鳴り渡る彼女の拍手に、やがて他の少女達もパラパラと後に続く。
そして、そのぎこちない歓迎の証が静まったのを見計らい、教壇の端に下がっていた教師はセリルの横へと進むと、鋭い目つきで辺りをぐるりと見回した。
「さっきも言いましたように、セリルさんはつい先日、こちらへと来られたばかりです。なので、彼女が何か困っているようでしたら、皆さんでちゃんと助けてあげるように。分かりましたね?」
良く通る、有無を言わせない響きの指示に、クラスの全員が声を揃えて返事する。
彼女達の反応を見て取った教師は、隣に立つセリルへと席に着くよう命じた。
彼女が示されたのは、教室中央の横列端の、リンファの右隣にある空席だった。
教材の詰まった鞄を肩に下げ、セリルは向かって左の階段を上る。
途中の生徒達の後ろを抜け、自分の席へと腰を下ろした彼女を、すぐさま横からリンファが覗き込む。
「お疲れ、セリル。ナディア先生、話が短いって怒らないかヒヤヒヤだったよ。私の時は逆に、ダラダラしてて長すぎだって叱られたんだけど――」
彼女は笑顔で相手の労をねぎらいつつ、先程の彼女の自己紹介について触れる。
潜めた声での批評は、しかし直後に発せられた咳払いと、教壇の上から注がれる教師の冷ややかな眼光によって遮られた。
言葉のない叱責に、リンファは小さく肩をすぼめ、ちらとセリルを横目に見る。
ぎこちなく引きつった、どこか親しみの滲む苦々しい笑み。
まるで、共犯者か友人に向けるようなその微苦笑に、どう返すべきかをセリルが見定める暇もなく、授業開始のチャイムが高らかに響き渡った。
商会の監督による、筆記および体力測定等の試験が行なわれた日の夜。
共同浴室から戻ったばかりのセリルをステラが訪ね、彼女が魔女学園中等部の配属になったと伝えた。
ウォーディントン商会には、契縛した魔女へと再教育を施す機関として、『魔女学園』と呼ばれる部署が存在していた。
商会本部の真後ろ、多目的用の広いグラウンドを挟んで建つ『校舎』は、中央にそびえる事務棟を中心に三棟の建物に分かれており、それらはそれぞれ初等部、中等部、高等部と区分けされていた。
これらの階級への編入は、基本的に収容直後に行なわれる、筆記試験の結果が参考とされていた。
セリルは一度も学校に通ったことはなく、正規の教育は受けてこなかった。
しかし、生きるために必要な知識として、帝国の公用文字や簡単な算術、そして簡易的な魔術理論を、彼女は長い放浪の中で習得してきた。
そうした独学による成果もあって、セリルは比較的年少の魔女が多いという初等部への加入を、辛くも免れることができていた。
中等部所属の魔女は、教室に集められている限りだと、おおよそ30人程だった。
セリルは今朝の食事の際、現在商会本部で管理されている魔女の数は、彼女が入って57になったとリンファから聞いていた。
つまり、商会が所有する魔女の大半は、ほとんどがセリルと大差ない知的水準にあるということだった。
そうした客観的な事実は、セリルを非常に戸惑わせた。
確かに、彼女は人並みの思考や知識を有してはいると、自負はしていた。
だが、既に学園で教育を受け、自分よりも長い期間を勉学に費やしている他の魔女達と、自分が同じであるはずなどなかった。
実際、初めて受けた授業の内容は、セリルにとって理解のできないものばかりだった。
見たこともない本に出てくる登場人物の、妙に浮世離れした気障っぽい言い回し。
聞いたこともない名前の土地と、そこで行なわれた数百年も前の戦争の歴史。
考えたこともない長い数式と、それをもう一つの数式と合体させて、記号の数字を求める方法。
絶え間なく押し寄せる未知の世界の数々に、セリルは固い椅子に縛りつけられたまま、自分が地平線の彼方まで吹き飛ばされていくような心地になっていく。
やがて、彼女の頭の芯が熱を帯び、視界の黒板が奇妙に波を打ち始めた頃。
教師の声も徐々に遠退きかけていたその耳を、突然に重厚な金属音が叩き付けた。
授業の終わりを告げるチャイムに、黒板へと数字を書き殴っていた中年の教師は、驚いた風に腕時計を顔の前へと上げる。
「ああ、もう、こんな時間か。早いな。続きは次回。この方程式の解は宿題にするから忘れないように」
ぶっきらぼうな口調で指示を出しつつ、彼は書きかけの数列を手早く消していく。
それを合図に、教室を満たしていた静寂と緊張は一気に解け、辺りは椅子が軋む音と溜息、そして浮ついた談笑の音色に包まれた。
「う~~~ん、はぁ終わったぁ……。ダメダメ無理無理、やっぱ数学、私には合ってないって……。てか、こんな計算買い物でも魔法式でも使わないのに、なんで覚えなきゃなのよぉ……」
授業の終了を知った途端、リンファは胸に溜めていた息をブハッと吐き出し、机の上へと崩れるように突っ伏す。
横向きになった彼女の顔は青褪め、色濃い疲労に細かく頬が痙攣を起こしている。
今にも気絶しそうな様子で呻いていたリンファだったが、隣で自分を見降ろしているセリルに気付くと、瞬時に生気を取り戻し、弾かれたように身を起こした。
「よし、じゃあセリル、お昼ごはん行こ! あっ、もしかして他に予定入ってる?」
「え……? ううん、別に、何も……」
「よっしゃっ! だったら、学食行こ! 私の友達を、セリルに紹介したいの! 皆んなにはセリルのことは話してるし、少なくとも悪いヤツらじゃないから、たぶんセリルもすぐに仲良くなれると思うよ!」
そう言うや否や、リンファは素早く二人分の荷物をまとめ、セリルの手を取って席を立つ。
簡単な確認を済ませ、強引に目的地へと伴っていく相手に、セリルは大人しく後を引き摺られていくしかない。
猛烈な勢いで机の間を走り抜けたリンファは、通路にいる生徒達を撥ね退けるように階段を下っていく。
止まる気配の微塵もなかった彼女の進行は、しかし、その下で待ち構えていた数学教師によって、いとも容易く阻まれた。
出入り口の前に立ち、無表情で屹立している相手に、リンファは奇妙な悲鳴を上げ、その眼前にて急停止する。
「げっ……あっ、えと、何かご用でしょうか先生? 言っときますけど私、今日は居眠りはしませんでしたよ!」
「今日だけじゃなくて、できれば明日からもずっとそうしてくれれば、嬉しいんだがな」
不出来な生徒の的外れな弁明に肩を落としつつ、数学教師は視線を相手の後方へと移す。
彼女の背後では、勢い余って先導者に衝突していたセリルが、その黒髪の束に埋まっていた顔を引き剥がしているところだった。
どうにか視界を取り戻した彼女は、リンファの右肩越しに事故の原因を確認する。
怪訝そうな眼差しを送る新入生に、数学教師は軽い鼻息を挟み、淡々とした物言いで告げた。
「セリル、この後すぐに本部一階の総務部へと出向き、待機をしておくように。代表が、お前をお待ちだ」




