第八話
荒川は、二人の説明を受け入れかねて言った。
「取り合えずもう一度話させてくれ。」
永田に否やは無かった。
荒川はディスプレイ横のマイクに向かって声を掛けた。
「春香、そこに居るのか?」
驚いた事に、スピーカーから答えが帰ってきた。
「ええ。」
こんなに当たり前な調子の返事が来るとは思ってもいなかった三人は、顔を見合わせた。
やがて荒川は、おずおずと尋ねた。
「具合はどうだ?」
咄嗟の事で、何を言えば良いのか判らない荒川が曖昧に尋ねると、これまた曖昧な答えが帰ってきた。
「特に問題は無いわ。」
しばらく当たり障りの無さそうなやり取りで様子を伺っていたが、やがて荒川は出来るだけさりげない調子で、核心的な質問を発した。
「これからどうしたいんだ?」
「うーん。取り合えず行く先も思い付かないから、しばらくこのままここに居たいなぁ。」
いや、そういう意味ではなく、と言いかけたところで荒川は思い止まった。
春香は聡明な子だから、その質問のニュアンスを取り違える筈は無いのだ。
ではここで、あえてはぐらかす意図は何なのか?と少し考えてみた。
荒川は父親として、大変な目に遭った娘をしばらくこのままそっとしておいてやりたいと感じている。
しかし、それは二人の教え子を危険に曝す事である以上、教育者として認めるわけにはいかないとも思っている。
たとえ彼等がそれを良しとしていてもだ。
しかし少し考えている内に、彼女は彼女なりに回答したのではないかとも思えてきた。
もし、春香に害意があるなら、昨日からいくらでもそれを実行に移す機会が有った筈だ。
それをせずにきて、その上であえて『しばらくここに居たい』と答えているのだから、最終的な意図が何であるとしても、当面は危害を加える気はないという事であろう。
荒川が永田を見たとき、彼はその意図を察して頷いた。
永田が頷いた以上、荒川はそれを認めるしか無かった。
そこで、ふと本日のもう一つの用事を思い出した。
荒川は鞄を開けて分厚い封筒を取り出すと、テーブルに置いた。
怪訝そうな二人にこの封筒を受け取った経緯を説明すると、彼等は面白そうな表情になった。
「スパイ小説みたいですね。」
加藤の言葉に永田も身を乗り出す。
「ふむ。まあ面白がっていてもしょうがない。問題はこの封筒をどうするかなんだが。」
「返すって選択肢は無いんですよね?」
永田の問いに、荒川は頷いた。
「返そうとしても受け取らんだろうな。」
そこで一旦言葉を切って、改めて提案した。
「だから、三等分しようと思うんだが。」
加藤は軽く笑った。
「先生が危ない目に遭った上で受け取ったんですから、先生の物でしょう。」
その言葉に、永田も同意した。
要するに、こんな額の現金を受け取れば冗談では済まなくなるので、互いにその点だけは回避したいのだ。
彼等は、封筒を挟んだまま二対一で、しばらく無言のまま向き合っていた。
全員が和やかな表情を見せながら、その目は全く笑っていない。
やがて腹の探り合いの末に、最初から分が悪かった荒川が降参する事になった。
そもそも、教育者として彼等に責任を追わねばならない立場の彼が、この件の責任を彼等に分担させようという発想が虫が良すぎるのだ。
「判った。」
そう言って荒川は封筒を手に取ると、永田に向けて差し出した。
永田は、意味が判らず無言で封筒を見つめる。
「これは、春香を預かって貰う分の迷惑料だ。」
荒川が一旦受け取る事を了承した以上、それをどう使うかは荒川の裁量である。
そして、改めて差し出されたその封筒を受け取る事の意味は、永田にも判っていた。
こうして、永田は春香に対して責任を持つ事に同意した。
春香は今後の事について、全く決めかねていた。
取り合えず、このままここに居さえすれば、当面は心配ない。
ここは、彼女のために用意されただけあって、広々としており、また彼女の動作を制約する様な物は全て撤去されているので、彼女にとっては至極快適なのだ。
それに彼女が観察する限りでは、M・Nは彼女に対して明確な精神的負債を抱えており、恐らく何であれ彼女の要求が通らない事は無いであろう。
もしここで、彼女がHALCAのロボトミーの結果を説明すれば、奴は心の底から安心して彼女を受け入れるであろうが、それはあまり面白くはない。
今M・Nがその不安を圧し殺してでも彼女を受け入れなければならないと思う程に大きな罪悪感を抱えているのなら、安心させてやる必要は無い。
それは、今の春香にとってギリギリ可能な復讐なのだ。