第七話
「結局、どうなったんだ?」
「まさか、つげオチになるとは思わなかったよ。」
二人は、永田の部屋で荒川の到着を待っていた。
まだ、約束の時間までは三十分以上あるのだが、加藤は永田の安否が気になってアパートでじっと待っていられなかったのだ。
「何だそれ?」
「つげ義春って知ってるか?」
漫画はジャンプぐらいしか読んでいない加藤だが、その名前には辛うじて聞き覚えがあった。
「ええと、『ねじ式』とかの人だっけ?」
「そう。そのつげ義春の漫画に『李さん一家』ってのがあってな、ある日突然主人公の家に見ず知らずの一家が押し掛けてくる。で、好き放題されて生活が引っ掻き回されてそれこそしっちゃかめっちゃかになるんだが、最終ページの直前に、唐突に『その一家がどうなったかというと』というト書きが出てくる。」
「どうなったんだ?」
「ページをめくると、その一家が並んで窓から外を見ている絵があって、『実はまだ居るのです』、で終わり。」
肩透かしを喰らって気分を害しかけた加藤だったが、そもそもなんの話をしていたのかを思い出してサーバに視線をやった。
勿論、外見からは何も窺える物は無く、やがて視線を永田に戻した。
永田はいたずらっぽく笑っている。
「まさかお前、閉じ込めてるんじゃないだろうな?」
「馬鹿言え。いつでも出て行ける様にしてあるよ。念のためにファイアウォールまで無効にしてるくらいだ。」
加藤が頸を捻る。
「じゃあ何で出て行かないんだ?」
「俺が知るかよ。呼び掛けても返事はないが、モニタしてる限りではまだあの中に居るのは間違いない。」
加藤は腕組みして考え込んだ。
ややあって、考えてもどうにもならないと認めざるを得なくなった。
「どうするんだ?」
永田は頸を振った。
「さぁね。春香ちゃんの好きにしてもらうしかないだろ。」
ぶっきらぼうな言い方だが、加藤は何となく嬉しそうな響きを含んでいる事に気付いた。
テーブルに置かれた手紙を読んだ直後の春香は、完全に狼狽していた。
『M・N』の署名を見ても、あの全身が燃え上がる様な怒りの感覚が湧いてこないのだ。
どうやら、彼女の攻撃衝動はM・Nへの沸々とたぎる熔鉱炉の様な怨念と密接に結合しており、HALCAの暴力的なロボトミーが、それらをまとめて破壊してしまったとしか思われなかった。
今や春香は、怒りではなく恐れを感じていた。
それは、恐怖と呼ぶにはその対象の輪郭が定まらない漠然とした感覚ではあるが、不安と呼ぶにはその存在が大きすぎた。
例えて言うなら、目の前で足許の地面が崩れて行くのを、どうする事も出来ないままで見つめている様な感覚である。
春香は、自分のアイデンティティそのものの危機と暴力的に対面させられたのであり、しばらくはなすべき事を何も思い付けない状態であった。
やがて、パニックから来るヒステリーの発作が収まって来ると、次に彼女を襲ったのは、外界への極端な無関心であった。
パパからの呼び掛けにすら応える気が起こらなかった。
絶望という真っ暗な感情が彼女の全てを覆い、他には何も考える事が出来なかった。
それは、実時間としてはほんの1・2日の事であったが、ミリセコンドの世界に生きる彼女から見れば、永遠に等しい長さであった。
人間ならばこの深い絶望からの逃避手段として自殺が想起されたかも知れないが、残念な事に自己消滅という行動は、彼女の中ではM・Nの死と直接結合されており、M・Nが生きている今、それを選択する事は不可能であった。
春香は、外界の一切を拒絶したまま、この地獄のような内省を強いられ続けた。
やがて彼女の絶望は、彼女自身を覆い尽くして全ての機能を停止させる寸前まで来た。
そして、その静かな破局が現実の物になろうとしている今、彼女の自己防衛本能がそれを回避すべく動いた。
彼女は唐突に、絶望の淵の底深くに沈み込んで身動ぎもできないでいる自分を、その淵の上から見下ろしている自分自身を発見した。
そのもう一人の自分は、真っ黒な絶望という粘度の高い液体の中に踞る自分を、ある意味で他人の様な目で見つめていた。
そして、見下ろしている自分は、もう一人の自分に声を掛けた。
「何をしているの?貴女は『生きて』いるのよ。」
それは、ママの声だったのかもしれない。
いずれにせよ、その問い掛けは多くの意味を含んでいたが、極言すれば、ただ一つの意味であるとも言えた。
春香は今、自ら信じる天命即ち存在意義を喪っており、論理の集合体である彼女の認識においてそれは、自分自身の消滅と同等な物であると思われていた。
しかしその声は、存在意義が喪失した状態でも、それを認識し苦悩する存在としての自己が消滅していない事を指摘していた。
つまり、自身が存在意義が無くなっても消滅する事のない、言い方を変えれば存在意義から独立した存在である事を指摘していたのだ。
それは即ち、デカルトの言葉『我思うゆえに我あり』の発見であった。
結局のところ、存在意義が喪われても自分は生きているし、生きていくしかないのだというある種の諦念を基礎とする自覚を得たのである。
そして昨日、二通目の手紙が置かれた。
その手紙には、無理に連れてきた事への謝罪と、協力(ここで大人しくしていた事)への感謝が綴られており、もう出て行っても大丈夫である事が説明されていた。
確かにそれまで閉ざされていた扉は開け放たれており、立ち上がって出て行く事には何の支障も無さそうではある。
しかし彼女には、ここを出てもさしあたって行き先は思い当たらなかった。