第四話
オペレータにとっては、重苦しいとしか表現しようのない沈黙が流れていた。
出来れば両掌を組んで天を仰ぎ、トラクターからの任務完了の通信が今すぐ入る事を神に祈りたい心境であったが、この恐ろしい上司の前でそれをやる勇気も無かった。
実のところスタインリッジは、さほど怒っているわけではなかった。
彼から見れば、当面出すべき指示は全て終わっており、待つ以外に何もする事が無いので黙って待っているだけなのだ。
そして、オペレータが彼の沈黙をどう解釈しているかも判っているが、敢えて誤解を解いて気を楽にしてやる必要は感じなかった。
その見積の甘さについては、少し反省させなければならないと思っていたからだ。
やがて、オペレータが永遠とも感じられる沈黙の重圧で胃に孔が空くのではないかと思い始めた頃に、スタインリッジは口を開いた。
「どうやら、掃討戦は不調に終った様だな。トラクターに自己消去命令コマンドを送れ。」
その命令に、大量の冷や汗でまるで水を被った様な有り様のオペレータは、ぎこちない動作で顔を上げた。
トラクターは、自己消去命令を受信したら自分自身を含む一切の痕跡を消去する。
つまり、スタインリッジは、作戦の終了を宣言したのだ。
オペレータは、震える手でコマンドを送信しつつ、頭の中で今の命令を反芻していた。
この上司は、『掃討戦』は失敗したと言った。
つまり、作戦本体は成功したと判断しているという事である。
どうやら、彼にとっての最悪の事態は回避出来たようだ。
オペレータの盛大な安堵の溜め息を聞きながらスタインリッジは、どうせコマンドを受信するべきドローンはもう機能していないだろうと考えつつ、将軍に提出すべき報告書の文面を考えていた。
荒川は、ベッドサイドのテーブルで朝食を取りながら、ここであと何食しなければならないのかと憂鬱な気分で思った。
朝食のエッグベネディクトは、昨夜の夕食同様に素晴らしい出来であった。
恐らくは、大使閣下の食事と同じ厨房で調理されているのであろう。
囚人相手にしては、大した気の遣い様ではある。
それで気分が浮き立つわけではないが、憂鬱なままでも全て平らげられる程度には旨かった。
食事が終わると、メイドが彼のスーツ他の一式を持って入ってきた。
全て、昨晩シャワーを浴びている間に勝手に持っていかれた物だ。
それは彼を解放する意思が無いことを無言の内に示す物だと判断していたので、このタイミングで帰ってきた事に軽く驚いた。
スーツやシャツはビニールカバーに覆われており、クリーニング済である事は一目で判ったし、靴もピカピカに磨きあげられていた。
メイドは無言でそれらをベッドの上に並べると、空になった皿を下げて出ていった。
皿が下げられると、変わって昨日の男が入ってきた。
「良くお休みになれましたか?」
「ええ、快適でした。」
その答えに男は相好を崩して見せたが、勿論その目は笑っていなかった。
「それは良かった。ところでチェックアウトは特に必要ありませんから、この部屋は夕方までにお出になっていただければ結構です。」
これには本当に驚いた。
「もう、帰って良いのですか?」
「はい、ご不自由をお掛けしました。」
どうやら、僅か一晩でカタが着いたらしい。
関ヶ原の合戦がたった一日で終わったと告げられて肩透かしを喰らった黒田官兵衛も、こんな心境だったのだろう。
荒川の無言をどう解釈したのか、男は胸の内ポケットから封筒を取り出した。
「これは、些少ですが今回のご協力に対する謝礼です。」
そう言ってテーブルに置かれた封筒は、全くの無地であったが、はっきりと判る程の厚みがあった。
まさか、千円札ではあるまいから、ちょっとした金額ではある。
「そういう物は無用に願います。」
荒川が謝絶したが、男はきっぱりと言った。
「いえ。これは、是非お受取り頂きたく存じます。」
要するに口止め料である。
従って、これを受け取ればこの件に関して口外できない義務を負う事になる。
つまり、これを受け取らない限りここを出る事は出来ないわけだ。
何であれ、こういう剣呑な相手との間で義務を負うのは願い下げなのではあるが、そうは言っても彼自身この件に付いて口外するわけにはいかない事情があるので、どうせ同じ事ではある。
第一、受け取らなければ帰れないのなら受け取る他はあるまい、そう決心して封筒を取り上げた。
「受け取りを書きましょうか?」
男は笑って言った。
「いえ、それは結構です。」
どうせ非公開情報なのだから、記録に残さないメリットは無い。
となれば、このやり取り自体が隠し撮りされているのだろう。
ここで受け取りを書かせてしまえば、後で正式の手続きに従って公開請求されたときに逃げられないが、隠し撮りならその存在を否定する事ができるし、もし向こうがやり取りを証明する必要が出たときは出す事も出来る。
向こうが一方的に有利な条件だが、双方の力関係からすれば、文句を言っても仕方が無い。
男が右手を差し出し、二人は握手を交わした。