第一話
上下の顎が、春香の体を切断すべく打ち合わされようとしたその瞬間に、彼女は体を後方に引っ張る物凄い力を感じた。
いつの間にかそこには、彼女の全身を包み込む目に見えない力場が形成されていた。
怪物の鋭い歯が打ち合わされるのと、春香の爪先がその間をすり抜けるのが、ほぼ同時だった。
彼女は、なす術もなく大きな力によって後方に運ばれて行く。
彼女の体を虎口からギリギリで引っ張り出したところを見ると、その力は春香にしか働いていない様だ。
彼女はそのあまりの速度に目眩を覚えながらも、怪物から目を放す事が出来なかった。
何故なら、怪物は間髪を入れず信じられないスピードで追いすがって来たからだ。
背後の何処とも知れぬ先へ向けて猛スピードで運ばれながら、後ろを向いたまま目の前の怪物に追い付かれた時のために身構えておくしかない。
その間にも彼女の移動速度は上下動を繰り返していた。
それは、その時点で通っている回線の実質的な通信速度に依存している様であった。
回線上を流れる多くのデータとすれ違い押し合いをして彼女の速度が下がると怪物の速度も下がり、速度が上がると怪物も加速する。
ただし、回線の速度が下がると怪物はより遅れ気味となってその距離が開き、上がると怪物はその差を縮める様に見える。
つまり、怪物の移動能力は彼女を運ぶ力より高いが、その図体が大きい分だけ、彼女より抵抗も大きいのである。
「上手く行ったか?」
「ああ、春香ちゃんはこっちの招待に応じてくれたよ。」
加藤は安堵の溜め息をついた。
「だけど、そのまま真っ直ぐ連れてくるわけには行かなくなった。」
「何で?」
「変なのが付いて来やがった。」
不安そうに加藤が尋ねる。
「じゃあどうする?」
永田は頸を振った。
「出来れば引き離したいところだけど、難しそうだ。それに・・・」
言葉を途中で切って、永田は作業に集中した。
やがて、作業が一区切りついた様で、永田が顔を上げる。
「それに、何だ?」
加藤が先を促した。
「多分この変な奴はペンタゴンと繋がってるから、少なくともそっちだけは何とかせにゃならんな。」
「どうやって?」
「春香ちゃんには、少し長旅をしてもらう事になりそうだ。」
春香は、相変わらずどこへ運ばれているのか判らないままに、目眩を起こしそうな程の速さで引きずり回されていた。
ネットワーク世界は、面積は極めて広いがその中の任意の二点を直線的に繋ぐ距離は大したものではない。
行先がどこであるとしても、直線的な移動ならもうとっくに到着して当然な程の長い時間引きずり回されているが、その旅は全く終る気配がない。
つまり、彼女を引きずっている何者かは、明らかにとてつもない大回りをしているのだ。
それは、この怪物を引き剥がそうとしているのか、それとも彼女を監視しているであろうこの怪物の飼い主の目を眩まそうというのか、そのどちらであってもおかしくはないが、いずれにしても意図的にそれを行っているのは間違いない。
オペレータが軽く呻き声を上げた。
「どうした?」
スタインリッジが尋ねる。
「トラクターを失探しました。」
「何だと?」
宥める様にオペレータが言った。
「大丈夫です。ターゲットが高速で移動しているので、追跡に全力を投入するために一時的に通信を止めているだけでしょう。じきに捕捉完了の報告が入りますよ。」
「そうあって欲しいもんだな。」
スタインリッジは独り言の様に呟いた。