焦燥
その時の私は本当に焦っていた。飛び込むように入った病院のエントランスを急いで通り抜け、正面にあるエレベーターのボタンの上階行きを押す。
数十秒すらも惜しくて、イライラしながら待つこと数秒。もうダメだと、諦めて階段へと走り出す。そうは言っても、そこは病院なので、小走り程度に抑えて目的地へと向かう。
非常階段にも使う階段を、上に誰かいないかを確認して一段飛ばしに駆け上がる。
私を突き動かしているのは、一刻も早く目的の病室に到着したいからだ。可愛いと地元では評判の制服のスカートが、多少捲れ上がろうが今の私には些末な事だ。そして、あまり人が使わない階段を4階まで一気に駆け抜けた。
「はぁっ……はぁ……ッ」
喘ぐように呼吸をしながら、廊下を早足で進む。一番奥の病室の扉の前に立ち、震えそうになる手を叱咤して、ドアの持ち手を掴みスライドさせる。
中にいる家族が私に気付き、ほっとした表情で手招きをした。
視界に入るベットの上に横になって、点滴やら心拍計などが繋がれている老人は、私の祖父だ。
「お父さん、紗奈が来ましたよ」
聞こえる様にしゃがみこみ、祖父の耳元で声を掛けたのは、私の母の月城瑠璃だ。
祖父の瞼が震え、ゆっくりと目を開いた。死の間際だと言うのに、祖父、月城流羽斗の瞳は宝石のサファイアよりも綺麗だった。
昔は美しかったと言う、金の髪は今や色が抜け落ちているのに、銀の髪の様で美しい。整った顔立ちも老化したけれど、人を魅了する程の美老人と変化して今に至る。
ーーーー私の初恋は、この祖父だった。
何の気なしに見た、20代の頃に撮られた写真にその人はいた。
笑顔を向ける、その先には自分がいるような気がするほどの写真だった。そして、私は一瞬で好きになって、数時間後には大失恋と言う苦い結果に終わった。
蓋を開けてみれば、何て事の無い単純な理由だった。写真を撮っていたのは、お祖母ちゃんのゆりあで、祖父の流羽斗の最愛の人だったのだから、屈託の無い愛しいと言う感情を込めて笑顔で写っているのは当然だった。
「ルゥトおじいちゃん!!」
祖父の側に駆け寄り、私は左手をそっと包むように握る。
柔らかな春の陽射しのような微笑みを、私に向けてくれる。
「あぁ……紗奈か、約束の通り……僕のお守りを譲ろう。ゆりあの処に逝くのだし……皆に囲まれて、死出の旅路も悪くない……」
「どうし、て……もう少し長生きしてくれないの? 私の成人式の着物姿とか、ウエディングドレス姿とか見てからでも良いじゃない!」
優しい青い瞳が私を射抜く。ぎゅっと胸が軋む。一瞬、呼吸を忘れて、私は祖父を見詰めた。
「とても魅力的なお願いだけれど、そこまでの時間も力ももう残されてはいない。でも、お別れを出来ることはとても素晴らしいとは、思わないかい? 紗奈」
空いている祖父の手が、私の頭を撫でる。
幼子を宥めるように、ゆっくりと……。そして、その骨張った手が私の目の前に降りてくる。瞳に飛び込んで来るのは、その細腕に巻かれているブレスレット。
革紐のようなもので作られていて、数粒の石が通されている。連なっているそれは、元々は別々のネックレスであった。ひとつは、祖母の胸元を飾っていた。もうひとつは祖父が。
祖母ゆりあ亡き後、いつでも側にと言う祖父の意思によりネックレスを2連にして、さらにぐるぐるっと手首に巻いて、今のブレスのようにして飾っている。
祖母が健在な時に一度、そのキレイなネックレスが欲しくて、ねだった事を思い出す。