胎動:魂に刻まれた記憶を思い出した件について
◇◇◇
「貴様の精神を荒廃させる、お前の記憶を思い出してみろ」
緑影の声が徐々に聞こえなくなってくる。
「もっと奥に! おまえの魂に刻まれるほど、苛烈な過去を思い出せ!」
◇◇◇
学生にもそれぞれの役割がある。それが部活であったり、委員会であったりするわけだが、まあ面倒くさいことこの上ないと思う人間も多い。
「おまえら、相変わらずに愛嬌が無いよな」
僕はそう植物に語りかける。というか、言わないとやっていられない。ふと先生に窓辺の植物の水やりは誰がやっているのかと聞いて、好都合だと水やりを押し付けられたのが原因だ。
役割は自らなるものでもあるが、不用意に他人からひょいと渡されるときもある。それを体感中であった。
ここにある植物はサンセベリアにベルフラワー。調べてみたが、それなりに育てやすいものらしい。だから簡単に役を押し付けてきたのだろう。水遣りをしていると、背後からクラスの女が声をかけてきた。
「アナタ、まだそんなことやってるの?」
「任されたからちゃんとやっているだけ」
「ふーん。植物が好きなんだ。じゃあさ」
その女はプチリとベルフラワーをひとふさをもいだ。
「お花の髪飾り! ねえ、似合うでしょ? これでアタシのこと、好きになった?」
「育てているやつを勝手にもいで、嫌いになった」
その女は一瞬だけ呆けて、そしてすぐに怒った。
「植物なんか物じゃないの? そんなの好きになるなんて、アンタ、馬鹿じゃないの? こんなの誰も見ない無意味な物に、何を意地はっちゃうの?」
「前提が間違っている。植物はそんなに好きじゃない。そもそも植物が好き嫌いの話じゃないんだよ。任されたからにはプライドはある。託されたものはやり通す人間でありたいだけ。ただそれだけだ」
自分の行為を無意味だとけなされて、はいそうですかと言う訳にはいかない。
女はキッとにらんで、怒ったようにまた花をひと掴みしてもいでいった。
「アンタって気持ち悪い! 最低!」
そう言い放ってズンズンと歩いていった。
するとその女の取り巻きの男が来た。こっちは友達である。
「勘弁してくれよ。なだめるのは俺らなんだぞ」
「だったなら、まず誰かにケンカ売らないようにさせたらどうだ?」
「でも、これは学校のやつだろ。タダなら別にいいじゃないかよ。許してやってもいいだろ?」
「あのな、家庭用の小規模な園芸は、いろいろ個人でやらないといけないから意外と面倒なんだよ」
たしかにタダでやらせてもらっている。でも、適切な鉢植えを探したり、肥料は何がベストかを悩んだり、毎日の水やりの手間もあった。
「土いじりで汚れたこともあったな。丁寧に育ててきたなんて胸を張れるわけじゃないけど、それなりの手間はたしかにあった。要は丹精かけ続けて育ててきたのを、勝手に壊されたようなもんだ。それに対してアイツは謝罪する気もなさそうだし、ならどこにアイツを許容できる要素があるんだよ」
「まぁ、たしかにそうだけど同じクラスなんだからお互い様だろ?」
「向こうもお互い様で許し合うつもりなら笑って流したよ。だけど最後に花をもいだのって嫌がっているのを知ってるのにやったんだから完全に嫌がらせの領域じゃないか。もうなんとなく気づいているんだろ? アイツが好き勝手すぎるのをなんとかしろよ」
「できれば苦労しないって」
苦笑された。
まあ知ってた。彼女はクラスの中心にいるが、リーダーという意味ではなくて主張が激しくて中心に乗り込んで迷惑をかけていくタイプである。
「まったく。なんでアイツに寄っているんだよ」
「あえて言うなら、金かな……。医者の子供らしいし」
「おまえ……即物的すぎるだろ」
「集っているわけじゃないぞ。そうだなあ。ウチの部室、時計が無かっただろ。マネージャーのアイツが買ってくれてな」
「もしかして、ウワサのピンクの時計事件か?」
「ああ。男しかいないむっさい所だからって、さらっとデカいピンクのヤツを買ってきた」
むっさいからピンクというよりも、単にアイツの趣味だろう。授業中にチラリとアイツを見たとき、ピンクの筆箱から、ピンクのシャーペンと、ピンクのペンが出てきてピンクまみれで驚いた記憶がある。
「そんなに困っているなら、部員全員でカンパして買おうとしなかったのか?」
「そういう話合いをして意見をまとめている最中に、いきなり買ってきてな。いちおう、みんなでカンパして渡そうとしたが、本人が拒否するし。じゃあ、時計を引きとれと言っても、すでに家には時計があるから無駄になる。というか、デカすぎて持って帰れないとか言われると。まあ、なんというか……」
金で釣られているというよりも、恩という建前があって強くいえないといったようである。
みんなのためにと言われて実際に役に立つ部分があるなら、強く言えなくて引き下がるしかなかったのだろう。
「あとは大会前とかにも、でっかいお守りを持ってくる。優勝祈願って書いてあるエラそうな神社の名前が掘られた木の板を部室に飾って貰ったし。なんというかアイツの扱いって、いろいろ重いんだよ……」
「さっきから聞いていれば、押し付けっぽく聞こえるけどな。時計だったり、そのお守りとやらもそうだし、なくても別に文句はないだろ?」
「あったら実際に助かっている。それも、善意だから否定しづらいんだよ。分かるだろ? な?」
「おまえ、なんかタチの悪い宗教みたいなのに入ってるみたいだぞ。教主さまの言うとおりって感じに好き勝手やって、ニュースになって教主が逮捕されるやつ」
「でも、逮捕されるほどじゃないからな。実際に俺達も助かってもいるし、なんというか……」
「あー、もう。分かった。これ以上は聞かないから。さっさと、アイツのところに戻れ。アイツのひねくれを止めてくれ」
「わりぃ。だけど……」
遅いと言う怒鳴り声が聞こえた。アイツが男に怒っているらしい。
「すまない。おひめさまがお怒りだ。用事があってさ。じゃあな、また明日!」
男が逃げるように去っていった。
そして入れ替わるように、またあの女がやって来た。こいつ、さっき去ったばかりなのになんていう顔の厚さなんだよ。自分の行為は正しいと、自分が大好きすぎて全て正当化しているから変体的な行動をとるのかもしれない。
「……はぁ。なんだよ、忘れ物か?」
「アタシって愛されているからみんな言うことを聞いてくれるんだよ。アンタなんかよりも、アタシの方が愛されているの? 分かる?」
ニタニタと他人を見下した笑みで言い放つ女。
そんなことを言いに来たのか。水遣りの邪魔するなよ。面倒なヤツだ。
「はいはい。そうですか。愛しているとかそんなの相手の心が決めることだろ?」
「ふーん。アンタはそう勝手に思ってるんだね」
そう言って去る女。視界から消えるまで、また何かをいばってくるのではないかとその姿を最後まで見送った。
ようやくいなくなって安心したときに携帯電話が鳴った。30分後に来て欲しいと男からメールが入っていた。
◇◇◇
「悪い! 本当にすまない! このとおりだ!」
「おまえに謝られても、言われて傷ついたのは変わらないんだよ。心の傷を弁償してくれる訳でもないんだし……。本人が謝っていないなら、許す許さない以前の問題だ」
「わりぃ」
「……言い方を間違えた。お前は謝る必要が無いって言ってるんだよ」
「すまない……」
「……ったく」
男に悪気は無いのは分かる。だが、なんだろうか。クラスも含めてあの女を知っている全員は、どうして彼女の蛮行を止めないのだとイライラしてきた。
「すまない……!」
「……分かってる」
まったく『すまない』というのは便利な単語である。なんとなくそう思った。
「じゃあ、失礼するぞ。植物の世話があるんだ」
「すまない……。俺も手伝うぞ」
「察してくれ。1人になりたいんだよ」
これ以上、そばにいると罪の無いおまえに八つ当たりしそうでイライラするのだ。
「……すまない。愚痴でも何でも聞くから、このとおりだ」
男が寂しそうに俯いている。おまえが悪くないのに沈んでいるその姿が見たくないから席を立ったのに、どうして見せてくるのだろうか。
しょうがないので、どうやってコイツを撒こうか考える。
「むかし、あったんだよ。これに近いこと。ぶっちゃけ、平気だ」
「そう、なのか?」
「小学生の頃だったはず。まあ、僕の調子が悪くてな。その日の体育はサッカーで、僕のいるチームが負けた腹いせで、そのチームの男子どもにちょっとやられたんだ」
「大丈夫だったか?」
「ちゃんと解決できた。小学生によくある感情の先走りってヤツだ。まあ、今のクラスを見るとこの状況は暗い話題だけど、アイツの腹いせが済んだら勝手に引くんじゃないか。だって、そもそも小学生じゃない。分別のつく年齢だ。僕の無視のされ方だって、実際に授業で困るわけじゃないし、そういった意味では実害もない。じゃあ、大丈夫さ」
「そうか。俺もなんとかしようとするから、すまん」
「分かったってば。じゃあな」
嘘は言っていないが、ちょっとだけ裏切ってしまった。
確かに男の攻撃に比べれば、肉体的なダメージは無い。しかし、精神的なダメージは大きかった。言葉というものは目に見えないから気づきにくいだけで、暴力としては一級品の力があるのだと思い知った。
「陰険って聞くよな、女ってさ。なんだかトラウマになってきたかもしれない……」
将来、女性恐怖症になったらどうしようかなんて気楽に考えた。
◇◇◇
「またかよ……」
朝、水遣りをしにいくと花がへし折られていた。振り返るが、ニタリとしたヤツの顔があった。最初は顔を隠すように笑っていたが、今は堂々とこっちを向いて笑っている。この顔を見るのは何度目だろう。
丁寧に育ててきたわけでなく愛着も少ないが、育ててきたそれをへし折られて気分が良くなるはずはない。
このまま卒業するまでこの教室と付き合わないといけないのかと思うと気が重くなってきた。先の見えない恐怖よりも、先の見えている不幸の方が心の削り方としては効率的なのかもしれない。
思わずため息が漏れる。またあの謝罪男が来るかもしれないと思うとさらに憂鬱に感じた。
「僕も辛い。まわりも辛い。アイツは辛くない、むしろ楽しんでいるのか。強攻策になるかとアイツに怒鳴りつけたときもあったけど、まわりが落ち着けとなあなあにしてごまかしにかかる。実害が無いから先生のヘルプも無理だった。先生も察しているから、辛そうにしている。クラスのみんなも察しているから辛そうにしている。なんだ、このクラス。アイツ以外、みんな不幸になりたいのかよ」
まあ次こそはなんとかなるはず。そう思い続けて、息が詰まる日常を何度も過ごしていった。
◇◇◇
なんとなくクラスが取りたいスタンスが分かってきた。基本的に僕を無視する方針らしい。グループ学習などでは最低限の話はしてくれるのだが、アイツが同じ教室にいるときは基本的に無視される。こちらから声をかけても、だいたい煙に巻かれて僕から逃げようとするのだ。腫れ物には触らないというヤツなのだろう。触れたのならばアイツの逆鱗が飛ぶのかもしれない。
「つまらないな……。自分のまわりに人がいないだけで、心って廃れてくるんだな」
夕焼けが沈む放課後。無視され続ける孤独な教室には、今は僕ひとりだけしかいない。僕はしんみりとしながら植物を眺めていた。
「僕は、このままでいいのかな……」
クラスのためと思いながら今の状況を甘んじて生きてきたが、自分の心の叫びを誤魔化し続けただけだった。結局はかけがえのない日常というものを取りこぼしてしまった。
アイツへのカドを立てないようにと、愚直に贖いつづける周囲の存在。その果てが、僕専用の地獄の日々なのである。仲良しこよしの安息の陽だまりの祝福は、いくら自分を押し殺し続けても存在しなかった。
「肥料でもやるか……。ほら、おまえらの大好きな栄養だぞ」
植物は相変わらずに黙ったままである。
「愛嬌がねーやつらだな。あの女、おまえらよりも愛嬌があるのに最低だとか、人間っておかしなもんだな」
嫌いだから貶める。悪意のあるウワサを流して孤立させて、会うたびに人間性を恥辱していく。どうしてそんなことをするのか、何が得なのか分からない。人間性とは測れないものだとは知っていたが、ここまでの規格外は非常識すぎてワケが分からない。
「おまえらって優しいんだな。何も言わないのに、なんで優しく感じるんだろうな」
黙っていてくれるからこそ、今の僕には癒しになっていた。人間関係の距離感が変わっても、こいつらだけは距離感が変わらない。余計なことを言わずに、ただ黙って耳を傾けてくれるからいい。ただ、ここにいてくれるからいい。水遣りしないとなんて、ただの言い訳だ。ただ誰でも受け入れてくれる優しさが感じられるからいいものだ。
涙が枯れるほど泣いた。めまいが出るほど激怒した。嗚咽を漏らして叫んだことは何度あっただろうか。でも、それだけでは現実は変わらない。
「僕は、生きていては、駄目なのかな……?」
それは心の叫びではなく、純粋な疑問。本心からそう零れた。
◇◇◇
再び学校の先生に相談をしてみたが、はっきりとした対応はできないと言われた。たとえば、肉体的に攻撃してくるようなら断固とした態度で対処できるが、意思疎通ができるならば話し合いの範疇だからと強権がつかえないようである。ゆえに、話し合いで解決するようにと言われた。
「話し合うつもりが向こうにあったらな」
そうつぶやきながら、今日も植物に水をやる。
「そもそもむこうがやっていることは八つ当たり攻撃みたいなものだろ。おおかた嫌いだから攻撃しますって感じか? なら理由にすらなってないだろ。話し合いでアンタをストレス発散で攻撃していますなんて、高らかに言うわけないじゃないか。煙に巻かれた挙句に、それを餌にして攻撃してきて悪化しそうだぞ」
勝手に愚痴を話している僕と、勝手に聞いている植物の関係。お互いに遠慮なく、気にしないというのはある意味では友情であり、もしかして今、この教室において胸を張って友達であると言えるのはコイツらだけなのではないかとすら思えてきた。
「まったく、笑えない冗談だな……」
だが皮肉にも、こうして静かな時間を過ごせているのは植物のおかげである。
贅沢なんて言わないから、ただ居場所があるだけでいい。それだけで満足だ。ここにいるだけで、自分に戻れた気がする。変わっていく世界の中で、ここにいるときだけ昔の自分がいるのだ。このゆっくりとした時間が心の解毒剤になっているのかもしれない。
「ん? 久しぶりに肥料をやろうかと思ったけど、切れていたな……。愛嬌の無い友達にでも ひいきしてやるか」
◇◇◇
どうしてだろうか、僕は自分の小遣いで肥料を買うことを選んだ。とぼとぼと夕暮れた街を歩いていく。
「なんか、やだな。今の生き方……」
ひとりで歩いていると、暇だからなのか色々と考えてしまう。
最高の幸せが欲しいというわけではない。今の僕は、ただの普通が欲しいと心の底から思った。それは植物のように。雨の日でも、晴れの日でも、いつも変わらずに存在する普通が愛おしいとすら感じられた。
「ごきげんよう」
その普通を奪った張本人が声をかけてきた。
「その言葉、アニメくらいしか聞かないな」
「なんでもアニメって発想するなんてオタクね。植物とかアニメとか、話しかけてこないのが好きなんて頭がおかしいんじゃないの?」
「話しかけてこないようにしたのは、おまえなんだろ?」
「クラスのこと? 知らな~い。アンタが勝手に嫌われたんでしょ?」
「知らないもなにもあるか! 全員がお前の顔色を見てるじゃないか! それとも、それすらも本当に分からないのか!?」
「気持ち悪い。なに被害者ぶってるの? アンタみたいなまわりの空気を悪くする人間は死ねばいいと思う。アンタがいるから、クラスはああなったんでしょ? あはははっ。じゃあね」
「おまえっ!!」
女が走って逃げるが、僕は肥料を持っているので遅れてしまった。財布を痛めたせいか肥料を捨てるのを惜しく思い、結局は肥料を持ちながら追いかける。少し走ってから息切れをする。人通りの多い道に入ってしまい姿を見失った。
「くそッ! はぁ――っ、はぁ――っっ」
無関心に歩いていく人間達。誰も僕に声をかけない。それは今の僕のクラスのようだ。雑多の中に居るからこそ、孤独が胸に沁みてくる。
「――っ! 学校に。肥料を置いてから、帰ろうか……。くそっ!」
苛立ちに揺さぶられながらも、肥料を抱きながらふらふらと学校へ戻っていく。
自分がいなくても世界は動き続ける。クラスのために役を貰ったのに、その役はいじめという生贄の役であった。
集団生活なんてこりごりだ。でも、安らかな気持ちでいられる居場所が欲しい。ゆえに、苦しくても集団生活を求めてしまう。
「だけど、逃げ出したい気持ちもある。この世界から……。枷になっていたもの、全部を置いて、全部を忘れて……」
どうして僕は平和を失ったのだろうか。
努力する思いが足りなかったからか。平和への願いが小さかったからか。戦い抜く覚悟が無かったからだろうか。そんなことは無い。涙を流しながら手から零れ落としてきた日々を失くし続けて、そんなことあるはずは無い。
アレが嫌だから。コレが気にくわないから。さまざまな理由でイジメが起こるが、理由があっても駄目なものだと思う。例えるなら、ひょんなことから鍵をかけないで家を出たならば、泥棒に入られても仕方がない。鍵をかけないおまえが悪いと言われるだろう。でも、泥棒に入られる理由にはなるが、泥棒することに対しては罪が無いと言えるだろうか。仕方がないと言うのと悪人の所在は別物で、罪があるのは泥棒の方である。ゆえに、鍵をかけないことは悪いことだが、悪事ではない。なのに、悪いことを悪事と攻め立ててくる。
要は攻撃しても体裁のよいサンドバックを探していたのだろう。ひと言で述べるならサイコパス的な発想である。たとえば、悪事が露見して謝罪しなければならない場面で相手へ感情移入して謝罪するのではなく、謝意の言葉という単語を用いて謝罪したフリをして改心していない人。謝罪すれば許すべきだという世論の善意を利用し、他人とは喰らうべきものだという認識でそのまま育った生き物。そのような規格外の存在を今さらながら痛感したのだ。
「僕はあんな人間のために今日まで生き延びてきたんじゃない。正義を語るつもりはないけど、みんなが穏やかに生きれればそれでいいと思った。だから、僕はずっと我慢していた……。それなのに……!」
裏返された憧れは落胆へと変わる。気づいてしまった瞬間、僕は全ての気力を失ってしまった。
もしかしたら僕は弱い人間なのかもしれない。他人の中に自分と同じ理想があるのだと重ねて生きてしかいけなかったのだろう。心に理想が無いと分かったなら、もう生きることに耐えられない。
「気色悪い。死ね。だっけ……」
前々から気持ち悪いと言われていた。それから始まり、死ねというより辛らつな言葉を徐々にかけられていった。
反論する気力すらない。イジメられたなら声を上げればいいと簡単に言うが、いじめられたなら声をあげられないほど弱るものだ。そこまで弱らないものは、いわゆる弄りだとか、相手は人間だからと加減のある攻撃しか受けたことのない人間なのだろう。イジメは相手を人間と思っていないからこそ、極限的な非道に走れるのだ。
ゆえにいじめられた側の心は擦り切れるほど弱ってしまう。だからこそ声を上げられない。声をあげようとすれば、悪事を露見させるわけにはいかないと、相手はなおのこと激しく攻撃してくる。悪意のループに陥ってしまう。
「つまらないものなのかな。人生なんて……」
そう思った瞬間。急ブレーキの音。少し遅れて何かがぶつかった音が鳴った。
近くで起きたらしくありありと耳に残る。僕は音が鳴った先へ行くと、そこには道路の中央にあの女が寝ていた。遠目から見ても、生きている息遣いが感じられない。
「交通事故? えっ? アイツが……?」
恨んでいたがまさか死んでしまうとは思わなかった。では元クラスメイトだけあって涙は流すかと言われても、目にこみ上げてくる熱い感覚はまったく無い。どちらかといえば、こんなことでという拍子抜けの感覚だった。
「僕から逃げようと? いや、逃げ切ったのに近すぎる。また僕のことを小馬鹿にしようと戻ってきたときに事故に遭ったのか? 車はここに無いからひき逃げ?」
彼女が持っていた袋から破れて中から土が出てきた。
「これは……?」
袋の中を見るとそこには無残にも千切られた植物が入っていた。その種類を僕は知っていた。僕が育ててきた植物達だった。
「肥料を持っているのを見て、一度学校まで戻ってからかいに来た? ウソだろ、おい……!? ここまでするのかよッ!!」
みんなのために我慢していたはずなのに、挙句の果てに僕は植物を守ることすらできなかった。植物をなんともないと思っているやつなのだから、これくらいのことは平然とやってのけるはずだと予想は出来たはず。ショックのあまりに呆然としてしまう。
ふと光が体を覆った。目前にはバイクが迫っていた。
「あっ……!」
ぶつかる衝撃。叩きつけられる体。いつか壊れると思っていたものが壊れたのだから諦観していたような気持ちで痛みを感じた。
「……まあ、いっか。なんだか疲れたし……」
心が磨耗するまで教室のために生きて、植物のために生きて、それでもどうにも世界は変わらなかった。現実なんてそんなもので、ただ疲れるだけだったのだと今さら分かった。何も望みはなく、何も願いも無くなった。
ゆえに神に祈りはしない。願いをかける希望も無い。僕は静かに息を引きとった。
これで僕と言う世界の物語はおしまいである。しかしこのとき、『あの声』が僕に呼びかけてきた。
『なんていう絶望の仕方をしやがって。なんでもいいから自分に都合の良い言いわけで幻覚なり錯乱なりをして、自称神の愛の言葉でも聴いていれば少しはスッキリできたんじゃねぇのか?』
誰の声か分からなかったが僕は否定した。
愛と勇気を謳った虚飾に満ちた言葉など要らない。それは絶望を知らない人間の叫んだ気分を盛り上げるための単語なのだろう。そんな使い古された中身の無いものなど僕の胸には響かない。
『愛と勇気ねぇ。古臭い言葉だが、ずっと残っているなら真実じゃないのか?』
ならばどうすればよかったのだろうか。絶望することを諦めてしまえばよかったのだろうか。
『いいやコレに関しては特に深く考えずにシンプルな結論だ。単におまえに運が無かっただけだろ。ちょうどいま起こった、もらい交通事故みたいなもんさ。普通に生きているうちは滅多に出会えないが、探せばわりと見つかる程度な不運。たまたま連鎖した不幸。攻撃されていた精神疲労に、走った肉体疲労。死体に目をとられていたのと、袋の中身の驚きで思考停止。まあ、あとはバイクの相手側の体調だとかの要因まで挙げれば切りがないイロイロだ。1個ずつは相当にショボイもの。ただ偶然に重なっただけだ』
胸に落ちる例えだった。事故の例えをそのまま引用するなら、ほんの一瞬だけでも時間がずれていたら事故に遭わなかった未来もありえるというわけだ。靴ヒモを結び直したとか、出かけるときにテレビのニュースが気になって少しだけ見ていたとか、そんな程度の誤差で人生は変わるものだ。
つまり僕はどこかで失敗したばかりにとんでもない人間と出会うはめになったのだろうか。それでも、絶望した世界感には耐えられない。人間の残酷さを痛みと共に魂に刻みつけられてしまったのだから。
でも、交通事故と同じくほんのちょっとの誤差で不幸になるのなら、ほんのちょっとの誤差で幸せになってもいいじゃないか。
『ほぅ、望んだな?』
なにを? 僕の声に、その声は苦笑した。
『幸福を望むなら今の自分を越えろ。自身の弱さを自覚してこそ、人は本気に自分を鍛えようとする。うむ、俺の好みのふて腐れ具合だ。こういう奴を俺は変えたくて仕方ないんだ』
その声が、僕に問いかける。
『おまえ、力を望むか?』
「…………何かを守るのに、力が必要なら欲しい」
『おまえが守りたいものはなんだ? 何のために力を望む?』
「自分をありきたりな日常を守れる強さ」
『もっと言ってみろ。漢なら、馬鹿に夢を見ろ。希望に酔って益荒男となれ。おまえの後悔、懺悔、全てをくつがえすにはどうしたらいい?』
僕の後悔。それは……。
「植物を守れなかったことが悔しい。守られる側が植物みたいに僕を無視しようと構わない。意志があるとかそういう問題じゃないんだ。僕はただ……」
『ただ、なんだ?』
「僕は、いいや、俺は……! 俺を支えてくれたものを守ってやれる強さが欲しい……!」
カラカラと豪快にその声は笑った。それは馬鹿にしているのではなく、あたたかく見守っているような声色だった。
『その未来、俺が最後まで見届けてやる。この肉体に賭けて誓おう。さあ、お前はこれから始まるぞ。自身を人間として鍛えなおしていくんだ……!』
風景が色褪せていく。
思い出した。これが『俺』が『僕』であったころの時代だった。
◇◇◇




