始動:ダンジョンが始まるきっかけの件について
◇◇◇
自分の命と他人の命がかかっているなら、どちらを優先するだろうか。他人の命と応える殊勝な人間もいるだろう。しかし、貧民街で生まれた彼に言わせれば、それは自身が生きていることを理解していない愚か者と言い切るだろう。命の尊さを叫ぶことに酔っているだけで、本当の命の重さを分かっていないのだと心の底から糾弾するかもしれない。
実際に命の危険が身に迫ったとき、自分の命の重さと、見ず知らずの他人の命の重さ、どちらとも等価であるはずはない。これでも分からないなら、自分の子供の命と、見知らぬ他人の命が天秤にかかってどちらかを取らなければならない状況ではどうだろうか。このとおりに、たしかに命には重さがあるのだ。
「ぅ……ァァ……」
ここに1人の男児の命が消え尽きようとしていた。
彼に親はおらず、貧民街をうろつく孤児である。体は痩せ細り、くたびれてかろうじて服であったとわかる衣をみすぼらしく羽織っている。
彼が今日まで生きてこられたのは無論、食べ物を恵んでくれた善意が命を繋いでいたというのもある。しかし、善意だけでは生きることは出来ない。1人の人間が生き延びるのに善意はちっぽけなものなのだと、空腹が彼に訴えていた。
当たり前のことである。みなが自身を生き延びさせるのに精一杯なのだ。精一杯の中でたまたまはみ出した労力で与えられた善意の差分程度では、人間は生き延びることなどできない。
「…………ぅぁ」
失った体力に、擦り切れた希望。乾燥しきった喉でかろうじて助けをうめくが、干からびた喉では出せる声もない。彼はもはや気まぐれに音を鳴らすだけの玩具に等しい存在と成り果てていた。
これは特別な状況ではない。世界を見渡せばどこにだってある光景である。
神という存在がいるならば、なぜ無垢な子供に試練を与えるのだろうか。その過酷さの意味と言うものを知らせずに、ただ危機へ放り込むだけならばそれはイジメに他ならない。
どうして純粋な子供が飢える必要があるのだろうか。それは――
『キミが世界を信じすぎているからだよ』
耳元でささやくようにつぶやかれた声。人間の喉から出たとは思えないほどそれは気色悪く、悪魔めいた声だった。
黒い光の粒が集まっていき、それが蟲のようにうごめいて形を作っていく。そこに現れたのは、黒衣を身にまとった悪魔だった。
『こんにちは、ボクの天使よ。初めましてと言ったところかな。ボクはだね。キミの助けを求める声を聞いてやってきたんだよ』
「う……あ……?」
悪魔が慈しむように、男児を見下ろしている。
『嗚呼、世界はなんとも嘆かわしい悲鳴にあふれている。いいや、悲鳴をあげられるならまだ良い。擦り切れた心で、もう疲れ果てて声すら上げられない人間もいるのだ。ならば聞こえている悲鳴の倍以上の不幸に満ちているのがこの世界なのだろうか。胸が張り裂けるほどボクは苦しくなるよ。キミもそうは思わないかい?』
突然に語られて男児は瞠目した。しかし、自分の生命の危機を気にかけてくれているというのは察知できた。
「食べ、もの……くれるの?」
かろうじて形になった声を漏らせた。ここで声を出せなければ死んでしまうと彼は本能で察知したからだ。
その男児の生きもがく姿に、悪魔は爛々と瞳を輝かせる。ニンマリと口を吊り上げた。
『食べ物もあげよう。水もくれよう。服もくれてやろう。家もやろう。人はパンのみに生きるにあらずと言うが、度が過ぎた状態を指しているとはボクには思えないよ。おそらくキミのような状態に対しての言葉ではないだろうね。そう、人間は欲望に忠実でなければ生きれない場合だってきっとある。そう、キミが体験している今と言う時間のことさ。ならば、万物をつかさどっている神とやらも許してくださるだろう』
悪魔の笑みがさらに深くなる。
子供がサプライズプレゼントを必死に隠しているときのように、悪魔は楽しげに喉をくつくつと鳴らした。
『でも、ボクが本当にキミにあげたいものはもっといいモノなのだよ。キミが心から求めているものさ。正確にはキミの中に眠っている輝きをボクは見つけたのだ。キミのような至高の輝きは、ボクは今まで見たことがなかった。あまりの輝かしさに卒倒しかけ、天にも昇る気持ちになれたのは初めてだ。キミはボクの希望と言う輝きになれたのだ。丁重にもてなさせてもらおう』
「もて、なす?」
その得体の知れない人物に、男児は震え上がった。それは、恐怖でもありながら、初めての安らぎの気持ちでもあった。生涯で初めて真剣に自分のことを考えて差し伸べられた救いの手であったからだ。
『横文字で気取っているようでもどかしい言い方かもしれないが『Win and Win』という考え方なのだよ。キミの概念の言葉に合わせれば双方が好都合で得をする、という考え方だ。ボクの愛し天使よ、共に世界の終焉まで参ろうではないか。キミの感じた現実が生きている限り、それがボクが世界で生きている答えなのだからね。
さあ、キミに問おう。キミはこの世界を生きたいか? あえて聞かせてもらおう。必死に生きているキミを殺そうとしているこの世界において、本当にキミは生きたいと願うのか?』
「生、キ、タイィィ……ッッ!」
心の底から吐いたその返答。悪魔は自身の体を抱きしめて楽しそうに、そして男児の言葉を愛おしみながら身をよじらせた。
『素晴らしい! 実に勇ましい魂の答えだ! ボクはだね、生きるという言葉は簡単に使うべきではないと思うのだ。言わば、生きるか死ぬかの極限を飽きるほどに経験した、不安定な命を体験した人間だけが語れる祝詞であるとすら思っているよ。生きる渇望を実感したことがある人間だけが、人の魂の重さを理解できる。そう、理解したうえで自分という存在の本当の重さが分かる。そうして答えた、キミは自分自身が生きるべきだと! そう、つまりキミは――』
「死ニたく、ナイっっ!」
『そのとおり、理解が早くて助かるよ。生命の競争から生き残りたいという願いは、はるか昔に人間が動物であった時代から、現在まで変わらないもの。永遠に変わらない真実であり、だからこそ純粋なものであるとボクは思っているよ。普遍でありつつ、もっとも尊い輝きを秘めた言葉。その言葉の本当の意味を知っているキミという存在をボクは待っていたのだ!』
大げさに両手を挙げる悪魔。仰々しくありながらも、それが彼の性格であった。真摯に心を見つめている故に、ひと言ずつを心の底から感動し、それが動作として体からあふれているのだ。
『あえてキミのために言わせてもらおう。キミは誰かを恨んでもいいんだよ。キミの責任はどこにもない。そしてこの世界には根っこからの悪者はいない。しかし、厳密にならあえて言わせてもらえば善意という考え方の存在を生んだ人間が悪いのだと思うよ。例えるなら、誰かの悪意によって人生が狂わされた人間がいたとしよう。しかし、まわりは少し謝罪をしたからといって、ただ全てを許せと口先だけの善意を押し付けてくる。絶対正義の名の下に同調圧を押し付ける存在だ。
ボクは等しく人生を狂わされてこそ償いだと思うが、外野の世界からしてみればそうはいきまい。なぜならば善意と言うものは個人を守るものではなく、種族というグループを守るための倫理そのものであり、それ以上でもそれ以下でもない。言ってみれば被害者に冷たいのに、加害者に優しいものなのだよ』
男児は何を言っているのか半分の理解できていなかったが、それが自分も含めた世界中の全てを嘆いているのだと理解した。
『正義の欺瞞に満ちた世界など、口先だけの善意で押し付けられる悪意のこもった同調圧にすぎない。正義を叫んでいる自身が悪意は無い言葉だと盲信しているものだから堂々巡りの話になってしまい誰も真実には気づけないのだよ。全ては正義と言う名の世界に投げこまれ、正しさを盾にしたどんな理論も寄せ付けない閉じた世界の中であるがゆえに真実は闇に行方をくらませる。
ゆえに、そんな悲しき悪習を生んだものを懲らしめなければならない。ならば命の価値を困惑させた正義を憎まなければならない。正義を叫ぶ快感の自慰にひたっている愛を憎まなければならない。なぜならば生きることに、善意も悪意もないのだから。ゆえに正しさも悪さも世界には存在しない。そんなものは絶対的な正義と愛が名づけたタチの悪い蔑称にすぎない』
男児の目の前に、悪魔が優しく手を差し伸べた。その手の中にあったのは、真っ赤に輝くダンジョンコアであった。
『ゆがんだ世界を共に嘆き生きていこう。ボクらは正義から開放されるべきなのだ。そして叫ぶが良い。自分は生きたいと願ったことは間違えではない。『死』などというくだらない事象を与える世界の方が間違っていると声を上げようではないか』
「こんな世界、間違っている……っ!」
『さあ、キミが世界を罰するんだ。世界をあるがままの平等な姿に、等しく終焉という名の破壊を与えよう。冒険者も、モンスターも、ダンジョンも、全てを破壊する、全てにおいて平等な地獄を作り出そう』
男児の中で、憎悪。怨念。嫉妬。狂気が渦巻く。全てのモノへ呪われてしまえという激烈な怒りが湧いてきた。
世界から見放されたなら、自分の方から世界を見限ってやろう。生きることに、愛も、情も、正義も、悪も、そして寵愛をささやく神も彼の前には存在しない。この世の全ては彼が罰するべき敵であり、この瞬間、この世の全ては彼が生きるための玩具となった。
◇◇◇
『やあ。愛しの天使、テトロよ。気分はいかがなものかな?』
悪魔が青年へ声をかける。
青年は悪趣味なほどに煌びやかな椅子の上で寝ているところだった。うっすらと目をあけて現実を確認し、先ほどのアレは夢であったことを理解する。
「寝ていたのか……。古い夢を見た。ドトキシン、貴様と初めて遭った日の夢だ」
『ほう』
ドトキシンと呼ばれた悪魔は感慨深そうに静かにうなずいた。
『あの日に決意したキミ。そしてボクの夢は違っていない。そういうことで構わないかい、愛しの天使よ。まさかこの期におよんで相手の命を奪うことにためらいが出てきたなどと興ざめするようなことは止してほしいが、どういった領分だろうか?』
「とくに深い意味は無い。ただ、そういうことがあったと思い出しただけだ」
ドトキシンの笑みがニンマリと深くなる。
『では続けるつもりである。確認をするが、そういうことなのだろう?』
「愚問である」
力強い返答にドトキシンは自らの体を掻き抱いて、わなわなと震え上がった。
『嗚呼、いやはやなんとおぞましいキミをボクは見つけてしまったのだろうか。十年間も憤怒という名の炎に心をくべ続けて、未だに燃え盛り成長し続けている。ボクはそんなキミを見るために、この生を受けたのだろうと心の底から信じているよ。愛しの天使、テトロよ。どうかボクにキミに対する愛の恍惚を謳うことを許してほしい!』
悪魔のいつもの癖が始まったと、テトロは鼻で嗤った。
「ドトキシンよ、戦闘準備はどれほど進んでいる?」
ピタリと動きを止めるドトキシン、そして仕える主へ慇懃に頭を下げる。
『白影、黒影、赤影、緑影、黄影、紫影、全て万全であります。奇襲組のモンスターの補充は少し遅れておりますね。九割ほどの戦力で戦うことになるでしょう』
心の底からの忠誠により、報告に関しては真面目な口調で行った。
「なるほど。ならば、少しばかりアレで放ってからモンスターを送ることにしよう。もっとも、成功すれば戦闘すらせずに争奪戦は終了してしまうかもしれないがな」
『仰せのままに、ボクの愛しの天使よ』
頭を下げていたドトキシンがかぶり振る。すると背後からいくつもの人影が現れた。それぞれは目元まで覆われているローブを着ていて、容姿を含めた体型すらも分からない。ただひとつ見分けがつくのは、それぞれが違った色のローブを着ていることくらいだろう。影と呼ばれているそれぞれの色のローブ達がテトロ達に頭を下げて、仕えている主へ忠誠を誓っている。
『さあ、もうすぐ楽しい宴の時間だ。準備は済んだようで結構』
ドトキシンは満足げに頷くと、テトロを見上げる。愛しの天使の口から、この地に地獄の門が開かれる号令が言い放たれるのを今かと待ち望んでいる。
『さあ、あとはキミの心次第だ。心の準備はできたかい? ボクの愛しの天使よ』
くだらないとばかりに、彼は鼻を鳴らした。
「この世の全ては俺のものだ。出撃せよ。俺のためだけに、全てを手に入れて来い!」
色の影達が飛散していく。この瞬間、世界に地獄が溢れ出した。現世を血色で塗り替えるべきだと、破壊を以ってして、世界への布告が始まった。




