えんどろーる
「吐き気は収まったか、少年」
「いや、まだちょっと……無理かな……」
これは非常に不思議なことで、思考と身体の働きはどれも脳で統括し統率しているのだが、しかし、それとこれとは全く別の命令系統にあるようだ。
と言うのも、思考できる脳に対し、体は硬直して動かない――これはつまり、明らかに脳は動いているのにも関わらず、身体を稼動させる電気信号を送ることができていないということなのだ。
それはやはり不思議というか、奇怪というか、何かを思考できるのなら、身体の一部分を動かす程度の命令くらい造作もないことではないのだろうか。
そんな疑問に直面したものの、脳科学の知識を持たない僕にとって、その回答が得られるはずもなく、
「まったく、だらしないなぁ君は」
と、八千代に呆れられるのも無理はない話だった。
捜査の一端を担うかの如く、まるでそこにヒントが隠されていることを予め知っていた探偵のようにでしゃばった僕だったけれど、その後、自分の首が誰かに絞められたかのような感覚に陥り、呼吸すらままならず、八千代と三間さんに引き摺られながら現場を後にしたのだった。
無理をしていたのか、それとも我慢していたのか――それは自分自身でもわからないことだったが、人が死んでいる現場を直視したのはこれが初めてのことで、気づかない内にパニックになっていたのだろう。
いや、十八年間生きてきた僕にとって、人が死んだ場面が何も初めてだったわけではない。
十八年も生きていれば、遠い親戚が亡くなることもあるだろうし、事故で友人を亡くしてしまうこともあるだろう。
そういう意味では、別にそれが初めての経験だったわけではない。
ここで言う僕の『初めて』とは、人が『死んだ』場面ではなく、人が『死んでいる』場面を指している。
つまり、僕にとって初めてだったのは、今まさに数時間前に死んだばかりの、人間だったモノを見たことが『初めて』だったということだ。
だからこそ、こんなにも息が苦しくなって、顔も青ざめてしまっていたのだろう。
目の前に死んだ人を目の当たりにして、まるで自分も死んだかのような錯覚があった。
自分で自分の首を絞めている死体を見て、まるで自分も自分の首を絞めているような感覚があった。
眼球が飛び出んばかりに見開いた目をしている死体を見て、まるで自分の眼球も同じくそうなっているのではないかと疑心暗鬼になった。
けれど、そんなものは僕が勝手に作り出した妄想のようなもので、それこそ被害妄想ここに極まりと言ったところなのだろう。
「それにしても、美味い」
僕たちは三間さんに一時的な別れを告げ、マンションの一室にいた。
人間一人が生活するには十分すぎるほどの広さで、辺りは適度に散らかっており、そして適度に整頓されている。
清潔でもなければ不潔でもない、一人暮らしならば極々一般的な乱雑さだった。
しかし、女性の一人暮らしとなれば、僕(男)がそれに対して夢を見てしまうのも無理はなく、その点については少々残念なことである。
そう。
その一室は、八千代が日常生活の基盤としている部屋――彼女が衣食住を思うがままに確保している部屋だ。
「…………」
気にし過ぎであることは自分でもわかっていることだけれど、何だろう、やはり、それとなると妙に緊張してしまう。
この息苦しさが死体を直視してしまったせいなのか、それとも八千代の部屋に這入ったからなのか、もはや曖昧になってしまっている。
それに、あろうことか今日会ったばかりの、言ってしまえばお互い赤の他人同然なのだ、それも一つの要因としてあげられるだろう。
「ん、どうした? 君は食べないのか?」
八千代は僕が急ごしらえで作ったパスタを満足そうに咀嚼しながら問うた。
冷蔵庫に入っていた腐りかけの食材をふんだんに盛り込んだのだが、しかし、どうやら気に入ったらしく舌鼓を打っている。
「あー、うん、食べるよ……」
「気持ちはわかる、あんなものを見た直後に飯を食えっていうのも可笑しな話だろう。まぁしかし、人間食えば忘れることもある、飲めば忘れることもある。本能的欲求を満たすことに集中すれば、少しくらいは緩和されるさ」
「だね……でもそれは逆もまた然り、だろ」
「ははっ、そう来るか」
食べて忘れることができるのなら、食べて思い出すことも簡単だろう、つまりはそういうことだ。
「そう言えばさ」
僕は進まないフォークを置いて、八千代に向かった。
「八千代、君は確か、あれを殺人現場って言ったよな。まぁ、そういう見方もできるかもしれないし、あんな死体なら、そう思うこともわかるんだけれど、どうして断言したんだ?」
「んっと、つまり……?」
「えっとだ……奇妙だったとは言え、どう見ても自殺にしか見えなかったんだよ、僕はね。けれど、八千代は最初からそうじゃないって――殺人だって言ってただろ?」
八千代は僕の言葉に、あぁ、と思い出すかのような相槌を打つ。
「あれは別に私の勝手な判断ではないよ。三間警部から電話があって、その内容が『殺されている』だったからさ」
「殺されている……? 三間さんは一目であれを殺人だって判断したってこと?」
「そうだろうな。確かに、あれはきっと自殺なのだろう。しかし、あんな自殺がこの世界にあっていいものなのか? いや、勿論探せばそんな奇怪な死に方を選択する者もいるのだろうが、家庭事情や職場事情、その他諸々含めたところで、そんな決断をしたとは考え難い」
八千代はそれに、と続ける。
「少年、君も思った通り、自殺を図るのなら他に方法は山ほどある。彼らならもっと楽に死ぬことも可能だったはずなのだ、しかし、そうしなかったということは、きっと何かの事情があったのだろうな」
「事情、ね……」
僕は八千代の言葉を反復して、考える。
そうなのだろう。
八千代の言う通り、本来ならばそうなのだろう。
自殺志願者の気持ちなど考えたことはないけれど、誰も苦しみを伴って死にたいとは望まないに違いない。
できれば痛みを感じる暇もないまま、できる限り恐怖を緩和して、一瞬の死を選択するだろう。
けれど、彼らは違う。
彼らは異なっていた。
包丁で手首を切るわけでもなく、ましてや首を切るわけでもなく、首を吊るわけでも毒薬を飲むわけでもなく、飛び降りるわけでも轢かれるわけでもなく――彼らは自らの手で自らの首を絞めた。
考えるだけで悪寒がするほどに、それは苦しみを伴う方法だっただろう。
だからこそ、そんな常識外れな死に方を選んだ彼らの気持ちが微塵も理解できない。
「例えば、彼らが他人に迷惑をかけないように配慮したとしよう。しかし、それでもあんな方法は選ばない」
「……だね」
「例えば、彼らが道具に頼らないという宗教的な信念を持っていたとしよう。しかし、その信念が楽な自殺を思案することよりも優先されるとはどうしても考えられない」
「……うん」
「信念と言えば、彼らは夫婦揃って同じ方法を選択したのだ、そこにあるのかもしれないな」
はははっ、と八千代は心底馬鹿馬鹿しそうに笑った。
「結局、彼らが締めていた首には何かあったのか?」
「さぁね、それはまだわからないよ。死後硬直が解かれるを待つしかないな。ところで、少年、一体全体どうしてそんな発想が出てきたのだ?」
僕は食べきれそうにないパスタを八千代の前に置く。
それを待ってましたとばかりに、彼女はかぶりついた。
「消去法かな……多分」
「多分って、曖昧だな」
「ただ考えれば、八千代の言うように、あんな死に方を選ぶなんて普通ないだろ? それなら、そんな小説的なトリックが隠されていてもいいのかなーって思っただけだよ」
「現実の犯罪に小説的なトリックが使われることなんてまぁないぞ」
「そりゃそうだ」
間違っちゃいけない。
ここは小説でもなく、ましてや漫画やアニメでもなく、現実なのだ。
現実に起こった、起きてしまった――リアルの中で起きたリアリティのないリアルな現場。
「ただ、現実の犯罪に用いられたトリックが小説に使われることはあるだろうな。それはもはや冒涜だよ、冒涜――遺族にも、被害者にもね。まるで知能犯が崇められているかのようじゃないか。私はそいうの気に入らないね」
「そんなこと言っても仕方ないだろ。犯罪をテーマとして扱う以上、ただ恨み辛みによる突拍子のない殺人ってどうしても味気ないからな。読者を楽しませるにはやっぱ壮大で強大な、心がくすぐられるような犯罪じゃないとさ。勿論、犯人の知能や能力が高いのもそのせいだろうし、それを裁く探偵の見せ所ってのもあるだろうな」
「ふぅん、まぁそんなところだろうな。まったく、心底憎たらしいよ。そういうやつらは一体どんな気持ちでそんなものを書いているのか、気が知れない」
「おいおい……八千代は推理小説とか読まないのか? 僕は結構好きだよ、推理小説。犯罪がどうとかそういうの抜きにしても面白いし」
「私だって読むよ、専ら人殺しだけどね。しかし、別に私はそういう小説に難癖をつけようとしているわけじゃないのだよ。ただ――」
「ただ……?」
「残酷な描写をして、凄惨な事件を描いて、それでもあとがきに『本当は、私そんな野蛮で頭のおかしい人間ではないんですよー。犯罪をテーマにしてますけど、殺人方法を毎日思案しているわけじゃないんですよー』って書く作者が嫌いなだけだ」
「…………」
全国にどれだけの推理作家がいるのかはわからないけれど、少なくとも、その中の一握りを敵に回す発言だったことは間違いないだろう。
と言うか。
はっきりしてるなぁ、八千代って……。
「むしろ、推理作家ならば、殺人をテーマとするならば、毎日完璧な人の殺し方を考えてこそだろう」
うわぁ……なんか極論を展開しちゃってるし。
それ以上、話を掘り下げると八千代がどんどんとんでもないことを言い出しそうだったので、僕は沈黙する。
よほど空腹だったのか、僕の分までぺろりと平らげた八千代の前にアイスコーヒーを出し、息を吐く。
それにしても、見ず知らずの他人とは言え、人が死んだにも関わらず暢気と言うか――いや、八千代の様子から思うに、きっとこんな場面を幾度となく経験してきたのだろう。
僕にとっての『人の死』と、彼女にとってのそれには大きな差異がある。
僕はそれを異常としか見ることができず、それでも彼女はそれを日常の一部として捉えているのかもしれない。
それは恐らく、三間さんにとってもそうなのだろう。
僕が思う日常と、彼らが抱く日常は異なっている。
それもそうだ。
考えれば、そんなことは当然なのである。
人はみな、同じ土俵に立っていない。
生活環境が違えば職場環境も違うだろう、生まれや故郷も違うし、家庭環境だって人それぞれだ――仮にその『風習』が隣の家と同じだったところで、三軒隣の家庭では異常として感じられることもある。
だからこそ、人間は自分の価値観を有していて、多種多様な趣味嗜好があるのだろう。
そして、その環境が人格を形成する。
人が死んでも平気な人格を有している者もいれば、自分までも死にたくなるような者もいるだろう。
そして。
その中にはきっと、人殺しをすることを厭わない人格者もいるのだ。
しかし、それを環境のせいだと一言でまとめるにはかなり語弊があるので訂正すると、《他者》を介した環境だけではなく、それを形成するのもまた《自分》であるということだ。
周囲の環境など、自分でいくらでも作ることができるという話である。
自分の周囲だからこそ、取捨選択を図ればどうにでもなるという話である。
「ところで、少年、のんびり大学生活を送らせてやりたいのだが、一つ頼みがある」
「頼み?」
「そう、頼みだ。しかし、私も鬼ではない、少年のこれからの大学生活のことを考えると、それも憚れるのだ。やはりスタートで失敗すれば最後まで引き摺ってしまうからな、特に友達関係は」
「僕の友達関係のことを心配してくれているなら大丈夫、もうすでに出遅れてるから」
八千代が入学式を終えてすぐに僕を連れ回したから。
いや、そもそも、入学式に潜入していた時点で、僕の大学生活におけるスタートダッシュは不可能だったに違いない。
「本当にいいのか? 地元での苦い過去を忘れ、地方から出てきた所謂『大学デビュー』が、やはりどうしても不慣れな友達作りに悪戦苦闘して出遅れ、卒業するまで結局孤独に生活することが多いのだぞ? それでは一体何のために身を費やしたのかわからない。そういう奴は体外、勉強するために大学に入学したんだろ、え、お前もしかして遊ぶためにわざわざ大学に来てるの、そんなの別に大学じゃなくてもいいよね、お前みたいなやつがうようよしてるから大学生がちゃらんぽらんに見えるんだよ、と責任転嫁するからな」
「嫌なこと言うなよ! 僕はともかく、僕以外の『大学デビュー』に謝れ!」
「いや、謝るも何も、まさにその通りだと思わないか。本気で『大学デビュー』したいやつは本気で頑張ってるさ。彼らのことを言っているのではなく、受動態のまま梃子でも動かない変なプライドを有した者に向けてだな――」
「八千代、そういう人のメンタルがどれほど弱いか知ってる……? もうすでにお尻ぱんぱんになってるよ」
尻を叩き過ぎである。
突然の説教モードに僕は肩を竦めて、
「で、何だよ頼みって」
「人探し」
「……ふぅん?」
八千代はアイスコーヒーを一気に飲み干した。
そして、あえて意味を深めるように間を置いて、
「名は静 遥という」
君の探し人でもあるな、と快活に白い歯を見せたのだった。