Ⅴ諸行無常
殺人。
その意味は文字通り、人を殺すことである。
人殺し。
その意味は文字通り、人を殺めることである。
ではここで、その意味をより深く、真の意味を探るべく思考を凝らしてみよう。
人間の定義に当てはまった者ならば、思考を放棄してはならない――それが辿り着く最終地点がたとえ哲学だったとしても、答えが見えない禅問答だったとしても、人であるならば死ぬまで思考をし続け、ある意味、命を賭してそれを半永久的に継続させねばならない。
僕は『殺人』という言葉の意味をよく知らない。
勿論、先に述べたように『人を殺すこと』という意味では理解しているが、果たして、この世に『それ』の対義語を知る者はいるのだろうか。
類語はたくさんあるだろうが――しかし、対義語である。
ある人は、それを『蘇生』と言う。
ある人は、それを『再生』と言う。
またある人は、それを『復活』と言う。
或いは『救命』、もしくは『出産』でもいいだろう。
それらのように、一体全体どうして『殺人』の対義語が曖昧で、神でさえ的確に答えることができないのは、『それ』が不可逆性を帯びているからである。
不可逆性――つまり、人を殺した後、人を生き返らせることができないからである。
殺される以前の時点で、彼(彼女)を救うことはできても、その後の時点では救うことができないからだ。
死んでしまった人間が二度と元に戻らないのは、つまり、『殺人』の対義語が存在し得ないのと同様、生死を文字通り行き来できないことと、『生人』という言葉がこの世界のどの言語を探しても存在しないということを示しているに違いない。
一般的に考えると、それに近いのは『蘇生』のように思える。
なぜなら、蘇り生きるのだから。
しかし、それには若干ではあるが不老不死のようなニュアンスを秘めており、どうしても的確とは言い難い。
心配停止状態からの蘇生は条件付で可能だろうが、脳が死んでしまえばそれも不可能なのだから、やはり近いようで遠く、本来の正しい『殺人』の意味を考えると、むしろかけ離れていると言っても過言ではないだろう。
そして、僕の思考はある深さで限界を迎えるだろう。
神が作った言語でさえ、数式でさえその解を得ることができないのだから、人がいくら思考したところで行き着くところは高が知れている。
そもそも、『殺人』に対する対義語に近しい言葉は存在していても、反意語はあり得ないのだ――それならば、自ずと限界を迎えるのも当然だ。
けれど、もしこの世に『殺人』の対義語があるのだとするならば、それは『蘇生』や『再生』、『復活』や『出産』、ましてや『救命』でもないように、僕は思う。
いや、そんなことを言ってしまうと、まるで僕の考えが常人のそれとは違う、神に等しきもののような聞こえになってしまうが、そうではなく――僕はそれを『可能性』と考える。
そう。
『殺人』の対義語として『可能性』という一例を、ここに示そう。
そして、『殺人』の類語として『不可能性』という一例も、ここに示そう。
もっと言えば。
『人の』可能性と、『人の』不可能性。
さらに深く突き詰めれば。
人『として』の可能性と、人『として』の不可能性。
死んだ人間にその後の可能性はなく、それは不可能性でしかなく、生きる人間はそれだけで可能性であり、不可能性はない――つまりは、そういうことだ。
そして、さらに言えば、殺人を犯した者が普通の『人間』として生きることは『不可能』である、ということでもある。
しかし、考えてみれば、『可能』と『不可能』の二つは相対する言葉なので、そこに『殺人』という奇怪な語彙が介入することは、それこそ不可能であろうが、あくまで例え話として捉えて欲しい。
前述の通り、そもそも、『殺人』の反意語は神にもわからないのだから。
どうして僕が。
一体全体、どうしてこのような思考をし、どうしてそのような自論を展開し、あまつさえ、新たな一例まで示したのか。
その理由は、僕の眼前に飛び込んできた『それ』にあった。
「……あ、うっ……う”っっ…………」
僕は鼻と口を手で覆い、乾燥する眼球を見開いていた。
どれくらい瞬きをしなかったのだろう、いつから瞬きという人間の反射反応を無意識の内に忘却していたのだろう。
わからない。
わからない。
わからない。
あれ、瞬きってどうやってするんだっけ。
瞬きってどれくらいの間隔でするものだっけ。
どれくらいの間、瞼を閉じておくんだっけ。
そもそも、どうして瞬きをする必要があるんだっけ。
瞬きって何だっけ。
瞬きって何だっけ。
瞬きって何だっけ。
瞬きをした瞬間の眼球の位置はどこが正常なんだっけ。
正面だっけ。
上だっけ。
それとも、眼球をぐるりと後方へ回して網膜を見るんだっけ。
あれ。
瞬きって意識的にするものだっけ。
無意識に行われるものだっけ。
あれ。
どうやって。
僕はどうやって今まで――
「少年」
「――っ!?」
僕はその瞬間、咄嗟に振り返った。
八千代の声に驚き、刹那、無意識に瞼を閉じ、そこでようやくざらついた眼球を感じる。
瞼の裏側に瞳がくっつくような感覚だった。
「あ、あぁ……ごめん、八千代……」
「顔色が悪いぞ、少年。まるで血の気が引いた鬼のようだ。まぁ、仕方ないか、君は初めてだしな」
初めて。
初体験。
初めて目の当たりにする、その光景。
そう、僕の目の前には――
「新婚の夫婦だそうだ」
と、八千代は顔色を変えずに、僕の隣で呟いた。
およそ三十代の夫婦が、リビングの一角で死んでいた。
紛れもなく、淀みもなく、歪みもなく、現実感もなく――死んでいた。
そしてこれは、間違いなく現実世界である。
今まさに僕が生きている、現実の光景だった。
「夫の年齢は三十二歳、妻は三十三歳。二人の間に子供はなし。二人とも公務員だそうです。去年買ったばかりのマイホームでして、生活には何の不便もなかったようですね」
そしてその隣、八千代を間に挟んで並んだのはかなり若く見える男性だった。
僕は横目に彼の姿を視認する――スーツ姿で、白い手袋をしているところを見ると、恐らく警察機関に属する人物なのだろう。
若々しいのは顔立ちだけでなく、声色も青年らしいものだった。
「おっと、これは三間 弦義 警部、久しぶりだな。いや、二日振りかな」
「いいえ、一週間振りですよ。八千代さん、冗談言わないでくださいよ。八千代さんが適当な法螺を吹くと、僕が雪間さんにどやされるんですから……」
「ふふふっ、悪かったよ、警部」
「それで、お隣の青年は付添い人ですか?」
「いいや、そんなもんじゃない。この少年は私の助手だ」
「……助手?」
僕は収まらない動転で、その会話に入る余裕がなかった。
警察ならばこのような凄惨な現場に慣れているのだろうが、それにしても、二人はかなり余裕そうだ。
悪く言えば、人が殺されたにも関わらず緊張感がないというか、弛んでいるというか。
僕は吐き気とめまいに格闘しながら、彼らの会話に耳を傾ける。
どうやらこのような状態に陥っても、思考はできるようだった。
「そうだ、自己紹介しておくべきだね。僕は三間 弦義、こんな身なりだけど警視庁刑事二課所属、刑事課長をやらしてもらってるよ。よろしくね、えっと――」
「南名 衛理です……」
僕はカラカラになってしまった喉で懸命に応えた。
「ではこれからは親しく衛理くん、とでも呼ばせて貰おうかな。いやはや、こんな青年と知り合うことができるだなんて、この年になって思ってもいなかったよ」
僕はこれでも三十六歳だからね、と三間さんは笑いながら加えた。
そのことにまた別の意味でぎょっとする驚愕を覚えたが、喉から出かけた声を飲み込む。
「ところで……三間警部、私は今回の事件を殺人、と聞いていたのだが、これは明らかに……」
「…………」
八千代と三間さんは沈黙して、死体のある方へと同時に目を遣る。
それに釣られ、僕も自然とその方向へと視線を移したが、やはりそれは見るに耐えない、視界に入れるだけで寒気を覚えるものだった。
それはドラマや映画で見る、一般的な死体ではない。
例えば刃物で刺殺したり、鈍器で撲殺したり――そういった類とは異なる、不気味なものだった。
二人は。
その夫婦は。
折り重なって死んでいた。
仰向けで互いが互いに体重を預けるように、足と腕と身体を絡ませ――
自らの首を絞めて死んでいた。
まるで綾取りのように絡み合う腕。
まるで複雑な関節技を決めたかのような脚。
まるで蛇のように絡みつく身体。
そのどれをとって見ても、狂気の沙汰だった。
「……これを自殺と言っていいものかどうか、僕にも判断しかねているんですよ」
三間さんは言う。
「自分で自分の首を絞めて死ぬなんて、そんなことが可能なんでしょうかね。少なくとも、人間は呼吸が断絶し、死ぬ寸前に反射反応として呼吸をしようとします。これはつまり、自ら息を止めて死ぬことは絶対にできないということを意味しますが……それはこの場合にも当てはまるように思えるんですよね」
「よほどの強い信念がないとできないだろうな」
「人体の反射反応を抑制できるほどの強い信念で自殺する者なんてこの世にいませんよ。それに、こんな苦しい死に方を選ぶくらいなら、いっそ首吊りでも飛び降りでもした方がマシでしょうに」
「そこが気になる点だな。心理的に矛盾しているように思えてならん。強い意志を持って死ぬということが、つまり『確実性』を意味しているなら、こんな死に方はないだろう。しかし、違う――彼らの信念がこの死に方と関係しているのなら……」
八千代は唸る。
三間さんも同時に声を歪ませていた。
「どちらかと言うと……そう、この夫婦は何かこう――」
僕が言葉を発したことに驚いたのか、二人は目を見開いてこちらを見る。
「うん……何と言うか、八千代が言う彼らの信念とこの死体に関係性があるとするなら……いや、むしろ、関係性なんてなくて――」
「何が言いたいのだ、少年」
八千代は曖昧に話す僕を急かすように右肘で横腹を突付く。
「その、えっと……ほら、自殺するなら包丁でも使えばいいし、紐で首を吊ればいいだろ? 幸いにもこの家にはそれらしき道具はたくさんあるだろうし。けれど、それをせず、あえてこんな死に方を選択したということは、何か理由があるんじゃないか……?」
「何かって、何」
「んー……」
見開いた瞳。
飛び出しそうな眼球。
腐った排泄物のような臭い。
液体を流す開いた口。
苦しそうな表情。
痛々しい首筋。
弱々しい細腕。
痕になるほどにまで絞められた首。
首。
夫の首。
妻の首――
「三間さん……でしたね、そう言えば、この死体って発見からどれくらい経過しているんですか?」
「およそ半日少しってとこだけど、それがどうかした?」
「いえ、ただ――」
いつの間にか、僕を襲っていた吐き気とめまいは消えていた。
臭いにも慣れ出したのか、嘔吐を誘う強烈な臭いは徐々に緩和されつつあるようだった。
そうすれば。
僕の思考も働く。
自然と、自ずと、動き出す。
「あの手の下……首を掴んでいるところに何か隠されてたりしますか?」
僕の一声に、八千代はふっと笑みを零した。
しかし、それはどこか嘲笑するかのような、そしてどこか呆れたような、そんな風に肩を竦めながら、
「ビンゴ」
と、僕の耳元で囁いた。